第百五十日目②
昼過ぎ。
扇風機の風に負けそうになりながら、
リツカは縁側で本を読んでいた。
静かだった。
蝉の声。
風鈴の音。
遠くで鳴く鳥。
夏の音ばかりだった。
その時。
「リツカー」
庭から奈緒の声がする。
顔を上げる。
奈緒は麦わら帽子を二つ持っていた。
一つは見慣れたもの。
もう一つは少し小さい。
「出掛けますか」
「畑」
「畑」
短い会話だった。
だが理解はできた。
奈緒が帽子を渡す。
リツカは素直に被った。
大きなつばが日差しを遮る。
やはり合理的だった。
「似合う」
「ありがとうございます」
即答。
照れている様子はない。
奈緒が笑う。
その時。
わふ。
ハクが現れた。
奈緒はもう一つの帽子を見る。
嫌な予感がした。
数秒後。
ハクの頭にも小さな麦わら帽子が載っていた。
わふ?
状況が理解できていない。
その顔がおかしくて、
奈緒は笑い転げた。
リツカも少しだけ笑った。
夏になってから、
笑うことが増えた気がする。
フミの畑は家の裏にある。
小さいけれど、
色々な野菜が育っていた。
緑が濃い。
生命力に満ちている。
リツカはしゃがみ込む。
葉を見る。
茎を見る。
実を見る。
やはり観察する。
薬師だから。
「診察してるみたい」
奈緒が言う。
否定できなかった。
その時。
真っ赤な実が目に入った。
トマトだった。
夏の太陽を閉じ込めたような色。
美しかった。
「採ってみる?」
フミが聞く。
リツカは頷く。
そっと手を伸ばす。
ぷつり。
実が外れた。
手の中へ収まる。
思ったより温かい。
日差しを浴びていたからだろう。
次はきゅうり。
こちらは長い。
そして少しひんやりしている。
面白かった。
収穫した野菜を持って、
縁側へ戻る。
そこには大きなたらいが置かれていた。
中には井戸水。
透明な水。
奈緒がトマトを入れる。
ちゃぷん。
きゅうりも入れる。
水面が揺れる。
「何をしているのですか」
「冷やしてる」
なるほど。
夏の知恵だった。
しばらく待つ。
風鈴が鳴る。
ちりん。
ちりん。
蝉が鳴く。
みんみんみん。
扇風機が回る音も聞こえる。
ぶおん。
夏の音が重なっていた。
十分ほどして。
フミがきゅうりを取り出す。
水滴が光っている。
冷たそうだった。
「はい」
塩を渡される。
少しだけ付ける。
リツカは真似をした。
一口。
ぱきっ。
音がした。
思わず目を見開く。
みずみずしい。
冷たい。
そして。
美味しい。
「……!」
奈緒が笑った。
「その顔」
「何ですか」
「好き」
意味が分からなかった。
だが。
リツカはもう一口食べる。
気にしていられなかった。
きゅうりはあっという間になくなった。
次はトマト。
かぷり。
果汁が口いっぱいに広がる。
甘い。
少し酸っぱい。
太陽の味がした。
そんな表現は知らなかった。
けれど。
本当にそう思った。
「不思議です」
リツカが呟く。
「何が?」
奈緒が聞く。
リツカはトマトを見る。
「薬ではありません」
「うん」
「特別な効能もありません」
「うん」
「ですが」
少し考える。
そして。
「元気になります」
フミが優しく笑った。
「それが野菜なんだよぉ」
風が吹く。
麦わら帽子が揺れる。
風鈴が鳴る。
縁側で食べる冷えた野菜。
派手な出来事ではない。
けれど。
とても幸せな時間だった。
その時。
じっ。
視線を感じる。
見る。
ハクだった。
トマトを見ている。
真剣な顔だった。
「駄目です」
わふ。
不満そうだった。
だが諦めない。
じっ。
見ている。
ずっと見ている。
奈緒が吹き出した。
「そんな顔しても貰えないよ」
わふぅ……
少し肩を落とす。
そして次の瞬間。
フミから犬用のおやつをもらっていた。
即復活だった。
単純だった。
夏の青空の下。
笑い声が縁側に広がる。
リツカは冷えたトマトをもう一口かじった。
夏はまだ始まったばかりだった。




