第百四十二日目
夏祭りまであと数日。
朝から蝉が鳴いていた。
窓の外は青空。
真夏の空だった。
居間の机には、
藍色の浴衣が広げられている。
リツカはその前に座っていた。
最後の仕上げ。
残っているのはほんの少し。
けれど。
最後だからこそ丁寧に。
一針。
また一針。
糸を通す。
縫う。
整える。
確認する。
いつも通りだった。
薬を作る時と同じ。
焦らない。
急がない。
丁寧に。
その時。
ハクがやって来た。
机の横に座る。
見守っているつもりらしい。
実際は眠そうだった。
役には立たない。
だが。
なぜか安心した。
昼過ぎ。
最後の縫い目を確認する。
ほつれなし。
歪みなし。
問題なし。
そして。
リツカは小さな鋏を持つ。
残っていた糸。
最後の一本。
少しだけ息を止める。
ぱちり。
糸が切れる。
静寂。
風鈴の音だけが聞こえた。
完成だった。
「できたぁ!」
フミが拍手する。
奈緒も笑う。
「お疲れさま」
由美はなぜか少し泣いていた。
「早いよ」
奈緒が呆れる。
リツカは何も言わなかった。
ただ。
完成した浴衣を見つめる。
藍色。
山吹色の帯。
派手ではない。
けれど。
とても綺麗だった。
そっと持ち上げる。
軽い。
柔らかい。
そして。
確かに自分の手で作ったものだった。
気付けば、
しばらく見つめていた。
「どうしたの?」
奈緒が聞く。
リツカは少し考える。
言葉を探す。
そして。
静かに答えた。
「形に残るものを作ったのは久しぶりです」
奈緒が瞬きをする。
リツカは浴衣を見る。
薬は使えばなくなる。
薬草も消える。
傷が治れば役目を終える。
それで良い。
薬とはそういうものだ。
けれど。
この浴衣は違う。
明日も残る。
来年も残る。
何年先も残るかもしれない。
春の草木染め。
初めての編み物。
七夕。
みんなと笑った日々。
その全部が、
この一着の中に縫い込まれている気がした。
フミがそっと言う。
「いい浴衣になったねぇ」
リツカは頷く。
「はい」
それだけだった。
けれど。
とても嬉しかった。
その時。
わふ。
ハクが立ち上がる。
浴衣の前へ来る。
くん。
くん。
匂いを嗅ぐ。
そして。
しっぽを振った。
合格らしい。
全員が笑う。
窓から夏の風が吹き込む。
風鈴が鳴る。
ちりん。
ちりん。
その音を聞きながら、
リツカは浴衣を胸に抱いた。
大切なものが増えた。
そんな気がした。
そして翌日。
神社から太鼓の音が聞こえてくる。
どん。
どどん。
どん。
夏を呼ぶ音。
盆踊りの練習が始まったのだ。
奈緒は楽しそうに言う。
「行く?」
リツカは首を傾げた。
「見学ですか」
奈緒とフミは顔を見合わせる。
そして同時に笑った。
「参加だよ」
嫌な予感がした。
とても。
そしてその予感は当たる。
リツカはまだ知らない。
盆踊りというものが、
思った以上に難しいことを。




