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魔法をなくした薬師  作者: 灯野 しおん


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第百二十二目

七月。


梅雨はまだ明けていなかった。


けれど。


町のあちこちに変化が現れ始める。


商店街。


薬局。


神社。


竹の笹が飾られていた。


色とりどりの紙が揺れている。


風が吹くたび、


さらさらと音を立てる。


リツカは薬局の入口で立ち止まった。


「これは」


「七夕だよ」


真紀が答える。


「願い事を書くの」


そう言って、


小さな短冊を差し出した。


薄い水色の紙。


紐が付いている。


「願い事」


リツカは短冊を見つめる。


願い事。


不思議な文化だった。


異世界にも祈りはあった。


神殿で祈る。


豊穣を願う。


健康を願う。


だが。


こうして紙に書く習慣はなかった。


「何を書けばいいんですか」


「何でも」


真紀が笑う。


「自由」


自由。


それが一番難しかった。


その日の夕方。


家へ帰る。


居間には奈緒とフミがいた。


二人とも短冊を書いている。


「何を書いたんですか」


奈緒は隠した。


「秘密」


「ずるい」


「七夕だから」


意味は分からない。


フミも笑っている。


「願い事は人に見せない方が叶うかもしれないからねぇ」


なるほど。


少し納得した。


リツカも机へ向かう。


短冊を置く。


筆ペンを持つ。


そして。


止まった。


何を書けばいいのだろう。


帰りたい。


その願いはある。


もちろんある。


異世界。


故郷。


会いたい人たち。


忘れた日はない。


けれど。


筆が動かない。


本当にそれだけだろうか。


今の自分の願いは。


静かな夜だった。


外では雨が降っている。


さらさら。


優しい音。


その時。


ハクがやって来た。


わふ。


短冊を覗き込む。


「まだです」


わふ。


急かしているらしい。


リツカは少し笑った。


そして。


窓の外を見る。


思い浮かぶもの。


奈緒。


フミ。


源蔵。


真紀。


由美。


文さん。


クロ。


そしてハク。


たくさんの顔。


たくさんの日々。


桜。


田んぼ。


紫陽花。


笑い声。


温かな食卓。


帰りたい。


それは本当だ。


でも。


今は。


今の自分には、


もう一つ願いがあった。


筆を動かす。


ゆっくり。


丁寧に。


書いた。


『大切な人たちが元気でいますように』


それだけだった。


短い願い。


けれど。


嘘のない願いだった。


翌日。


神社へ向かう。


境内にはたくさんの笹。


色とりどりの短冊。


子どもたちの字。


大人の字。


願い事が揺れている。


リツカも短冊を結ぶ。


風が吹く。


短冊が揺れる。


その時。


「何を書いたの?」


奈緒だった。


「秘密です」


即答だった。


奈緒が驚く。


「言わないの?」


「叶わなくなるかもしれません」


フミが吹き出した。


ちゃんと覚えていたらしい。


奈緒も笑う。


「そうだね」


三人で笹を見上げる。


風が吹く。


空はまだ曇りだった。


けれど。


雲の向こうには星がある。


きっと。


見えなくても。


そこにある。


そんな気がした。


そしてその夜。


雨が止んだ。


久しぶりの晴れ間。


町の子どもたちは歓声を上げる。


なぜなら。


数日後には、


星波町の夏祭りが待っていたからだ。


浴衣。


屋台。


盆踊り。


花火。


リツカの初めての夏が、


いよいよ始まろうとしていた。

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