第百十日目
雨が続いていた。
激しくはない。
静かな雨。
町を包むような雨だった。
その日の午後。
リツカは神社へ来ていた。
由美から貰った紫陽花の挿し木を、
宮司の文さんに見せるためだった。
ハクも一緒である。
当然のようについて来た。
石段を登る。
雨に濡れた石は少し滑る。
ハクは慎重だった。
田んぼで転んで以来、
滑る場所には少し警戒している。
賢くなったらしい。
境内へ着く。
雨粒が木々を叩いている。
葉の匂い。
湿った土の匂い。
どこか落ち着く空気だった。
その時。
リツカは足を止めた。
聞こえた。
小さな音。
泣き声。
かすかだった。
雨音に紛れるほど小さい。
けれど。
確かに。
「……」
リツカは耳を澄ませる。
ハクも気付いたらしい。
耳が立つ。
泣き声は本殿の裏からだった。
リツカはそっと向かう。
そして。
見つけた。
小さな女の子。
六歳くらい。
赤い長靴。
黄色い傘。
しゃがみ込んで泣いている。
肩が震えていた。
ハクが近付こうとする。
「待ってください」
リツカが止める。
いきなり犬が来たら驚く。
ハクは素直に座った。
偉い。
リツカは少し離れた場所へ腰を下ろす。
すぐ隣には行かない。
まず待つ。
女の子がこちらへ気付く。
涙で濡れた顔。
不安そうな目。
リツカは優しく言った。
「こんにちは」
返事はない。
当然だった。
怖いのだ。
知らない人だから。
だから。
リツカは無理に聞かなかった。
代わりに。
「雨ですね」
女の子が瞬きをする。
変なことを言われたと思ったらしい。
実際そうだった。
しかし。
少しだけ泣き止む。
「……うん」
初めて返事が返ってきた。
「紫陽花が綺麗です」
女の子は振り返る。
本殿の脇。
青い紫陽花が咲いている。
雨粒をまとって。
静かに。
しばらく二人で眺める。
そして。
女の子が小さく言った。
「おかあさんがいない」
やはり迷子だった。
リツカは頷く。
「探しましょうか」
女の子は不安そうに頷いた。
その時。
わふっ。
ハクが小さく鳴く。
女の子が見る。
ハクは座っていた。
しっぽだけ振っている。
敵ではないですよ。
そんな顔だった。
女の子は少しだけ笑う。
「わんちゃん」
「ハクです」
「ハク」
今度はちゃんと笑った。
涙は止まっていた。
その後。
文さんにも協力してもらい、
境内を探す。
十分ほどして。
遠くから声が聞こえた。
「みーちゃん!」
必死な声。
母親だった。
女の子が顔を上げる。
「おかあさん!」
走り出す。
母親も駆け寄る。
そして。
抱きしめた。
強く。
何度も。
「よかった……」
泣きそうな声だった。
女の子も泣いている。
今度は安心した涙だった。
リツカは少し離れた場所から見ていた。
その光景を。
胸の奥が少しだけ痛む。
ふと。
遠い世界を思い出した。
もう会えない人たち。
帰れない場所。
失った日々。
雨音が響く。
その時。
小さな手が服を引っ張った。
振り返る。
女の子だった。
「おねえちゃん」
「はい」
「ありがとう」
にっこり笑う。
その笑顔は、
雨雲を吹き飛ばしそうなほど明るかった。
そして。
女の子は母親と帰っていく。
何度も手を振りながら。
リツカも手を振る。
見えなくなるまで。
やがて。
静かな境内が戻る。
文さんが隣へ来た。
「リツカさん」
「はい」
「優しいねぇ」
リツカは首を横に振る。
「違います」
「?」
少しだけ笑う。
「昔」
空を見る。
雨空だった。
「私も助けてもらいましたから」
文さんは何も聞かなかった。
ただ静かに頷いた。
雨はまだ降っている。
けれど。
リツカの心は少しだけ晴れていた。
そして七月。
町には笹が飾られ始める。
人生で初めて書く短冊。
その白い紙を前に、
リツカは長い時間悩むことになる。




