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魔法をなくした薬師  作者: 灯野 しおん


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第百日目

梅雨の雨は、


その日も朝から降り続いていた。


薬局の窓には雨粒。


外を歩く人は少ない。


商店街もどこか静かだった。


リツカは受付近くの棚を整えていた。


商品の向きを揃える。


少し曲がっていると気になる。


真紀が笑う。


「几帳面だねぇ」


「気になります」


「分かるけど」


「三回直しました」


「直しすぎ!」


二人が笑う。


そんな穏やかな午後だった。


カラン。


自動ドアが開く。


一人の女性が入ってきた。


傘を持っている。


服は少し濡れていた。


三十代くらい。


疲れた顔をしている。


「いらっしゃいませ」


真紀が声を掛ける。


女性は頷いた。


けれど。


何かを探している様子ではない。


店内を見回す。


そして。


入口近くの椅子へ腰を下ろした。


雨宿りだろうか。


真紀もそう思ったらしい。


そっと温かいお茶を持っていく。


「どうぞ」


女性は少し驚く。


「ありがとうございます」


小さな声だった。


それから。


十分。


二十分。


女性はそのまま座っていた。


お茶は飲んでいる。


けれど。


帰らない。


リツカは気になった。


顔色。


目の下。


指先。


そして。


時々見せる表情。


身体の不調ではない気がした。


心の方だった。


閉店まであと一時間。


店内には他の客もいない。


雨音だけが響いている。


その時。


女性がぽつりと言った。


「ここ」


真紀が顔を上げる。


「はい?」


「静かですね」


「今日は雨ですから」


女性は少し笑った。


けれど。


その笑顔は寂しそうだった。


しばらくして。


また小さく呟く。


「帰りたくないな」


真紀もリツカも黙る。


聞いてしまった。


女性自身も、


言うつもりはなかったのだろう。


慌てて笑う。


「ごめんなさい」


「独り言です」


しかし。


リツカは知っていた。


独り言ではないことを。


本当に苦しい時。


人は時々、


心の中の言葉がこぼれる。


異世界でも見てきた。


病人。


家族。


看病する人。


たくさん。


リツカは女性の隣へ座った。


驚かせないように。


静かに。


「雨の日は」


女性が顔を上げる。


「少しだけ帰るのが嫌になる時があります」


自分の話をする。


珍しいことだった。


「そうなの?」


「はい」


窓を見る。


雨が流れている。


「昔」


リツカは少し考える。


どこまで話そうか。


そして。


ぼかして言った。


「大切な人を失ったことがあります」


奈緒たちのことではない。


異世界の話だった。


けれど。


嘘でもない。


「雨の日は思い出しました」


女性は静かに聞いている。


「だから」


「雨が嫌いでした」


しばらく沈黙。


そして。


「今は?」


女性が聞く。


リツカは少し笑った。


「紫陽花があります」


「え?」


「雨の日しか見られない景色があります」


女性は目を丸くする。


リツカは続けた。


「だから少し好きになりました」


雨音。


静かな薬局。


女性はしばらく何も言わなかった。


やがて。


ふっと笑う。


今度は少し自然な笑顔だった。


「変わった人ね」


「よく言われます」


真紀が遠くで頷いた。


事実だった。


女性は立ち上がる。


窓の外を見る。


雨は少し弱くなっていた。


「帰ってみます」


そう言った。


「はい」


「ありがとう」


女性は傘を開く。


そして。


店を出る直前。


振り返った。


「今度、紫陽花見てみる」


小さく手を振る。


リツカも手を振り返した。


ドアが閉まる。


静寂。


真紀が近付いてくる。


「リツカ」


「はい」


「すごいね」


首を傾げる。


何がだろう。


「何もしてないですよ」


真紀は苦笑した。


源蔵ならきっとこう言うだろう。


"話を聞くのも薬師の仕事だ"


その言葉を思い出しながら、


真紀は微笑んだ。


外ではまだ雨が降っている。


けれど。


少しだけ明るく見えた。


そして数日後。


リツカは人生で初めて、


短冊に願い事を書くことになる。


けれど。


その前に。


神社で出会った一人の少女が、


リツカの心を大きく揺らすことになる。

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