第九十六日目
六月の始まり。
朝から暑かった。
まだ夏ではない。
けれど。
確実に近付いていた。
リツカは薬局の品出しを終え、
休憩室へ戻ってきた。
少し汗をかいている。
すると。
「お疲れ」
奈緒がコップを差し出した。
中には茶色い液体。
氷が浮いている。
冷たそうだった。
「薬ですか」
奈緒が笑う。
「違う」
「ではお茶ですか」
「正解」
受け取る。
まず観察する。
薬師だから。
色を見る。
香りを確かめる。
少し香ばしい。
初めて嗅ぐ匂いだった。
「麦茶」
奈緒が言う。
「むぎちゃ」
聞いたことがない。
恐る恐る飲む。
こくり。
冷たい。
喉を通る。
身体の熱が少し下がる。
甘くない。
苦くもない。
不思議な味だった。
「美味しいです」
奈緒が頷く。
「夏になると毎日飲むよ」
毎日。
そんなに。
リツカはもう一口飲む。
確かに。
これは暑い日に合う。
その時。
源蔵が休憩室へ入ってきた。
大きな水筒を持っている。
当然のように麦茶だった。
「昔はな」
珍しく話し始める。
「夏はどこの家にも麦茶があった」
「そうなのですか」
「ああ」
源蔵はコップへ注ぐ。
氷が鳴る。
からん。
「帰ると飲む」
「畑仕事のあとに飲む」
「風呂上がりに飲む」
「客が来ても出す」
つまり。
いつでも飲むらしい。
リツカは少し驚いた。
薬草茶なら知っている。
疲労回復。
安眠。
胃腸改善。
目的がある。
だが。
麦茶は違う。
暮らしの中にある飲み物だった。
その日の夕方。
フミの家。
縁側。
風鈴が鳴っている。
ちりん。
ちりん。
庭には夕日。
ハクは昼寝中。
奈緒が麦茶を持ってくる。
大きなガラスのポット。
中には氷。
リツカはコップを受け取る。
こくり。
冷たい。
心地良い。
「不思議です」
「何が?」
「特別な効果があるわけではないのに」
コップを見る。
「皆が飲むのですね」
奈緒は少し考えた。
そして笑う。
「美味しいからかな」
単純だった。
けれど。
リツカは嫌いではなかった。
風が吹く。
風鈴が鳴る。
麦茶を飲む。
ただそれだけ。
なのに。
なぜだろう。
とても穏やかな時間だった。
その時。
わふ。
ハクが起きる。
コップを見る。
じっと見る。
「駄目です」
わふ。
少し不満そうだった。
奈緒が笑う。
「ハクにはお水ね」
ハクは納得していなかった。
でも。
その姿がおかしくて、
リツカは少しだけ笑った。
六月の風が吹く。
夏はもうすぐだった。




