第六十五日目③
鯉のぼりを見た帰り道。
夕暮れが近づいていた。
空は薄い橙色。
西の空だけが赤い。
「少し寄り道しようか」
奈緒が言った。
「買い物ですか」
「違う」
「散歩ですか」
「ちょっとだけ特別な散歩」
意味は分からなかった。
けれど。
奈緒がそう言う時は、
だいたい面白いことが起きる。
リツカも少し学習していた。
川沿いの細い道を歩く。
人通りは少ない。
田んぼが広がっている。
風が気持ち良かった。
ハクは先頭を歩いている。
鼻歌でも歌いそうな足取りだった。
やがて。
小さな川へ辿り着く。
水は透き通っていた。
夕暮れの光を映している。
奈緒が立ち止まった。
「もう少し待とう」
「何をですか」
「内緒」
理不尽だった。
リツカは川を眺めながら待つ。
少しずつ。
空が暗くなっていく。
鳥の声が遠ざかる。
風も静かになる。
昼と夜の境目だった。
その時。
ふわり。
光が見えた。
リツカは目を瞬く。
見間違いかと思った。
しかし。
また光る。
小さな光。
緑色に近い淡い光。
ふわり。
ふわり。
川辺を漂う。
「……精霊?」
思わず呟く。
奈緒が笑った。
「違う」
「では魔法ですか」
「違う」
「では何ですか」
奈緒は光を指差した。
「蛍」
蛍。
初めて聞く名前だった。
その時。
また一つ。
さらに一つ。
光が現れる。
川辺の草むら。
水の上。
夜の中。
小さな光たちが舞い始めた。
幻想的だった。
異世界にも発光する生き物はいた。
けれど。
こんな優しい光ではなかった。
もっと強く。
もっと派手だった。
この光は違う。
静かだった。
まるで誰かが夜に灯した小さな灯火。
リツカは息を呑む。
言葉が出ない。
ただ見つめる。
ふわり。
光が近くを横切る。
消えそうで。
消えない。
儚そうで。
確かにそこにいる。
「綺麗ですね」
自然に言葉がこぼれた。
奈緒は頷く。
「うん」
しばらく二人とも黙っていた。
ハクまで静かだった。
珍しかった。
どうやら空気を読んでいるらしい。
その時。
一匹の蛍が、
ふわりとリツカの近くへ飛んできた。
袖の近くを漂う。
小さな光。
まるで挨拶しているみたいだった。
リツカはそっと手を伸ばす。
触れないように。
驚かせないように。
蛍は少しだけ光った。
そして。
また夜の中へ飛んでいった。
その後ろ姿を見送りながら、
リツカは思う。
この世界には、
まだ知らないものがたくさんある。
知らない景色。
知らない文化。
知らない季節。
けれど。
そのどれもが。
少しずつ好きになっていた。
風が吹く。
蛍が揺れる。
水が流れる。
夜が深まっていく。
帰る頃には、
空いっぱいに星が輝いていた。
その星を見上げながら、
リツカは歩く。
そしてふと思った。
来年も。
この蛍は光るのだろうか。
もしそうなら。
来年も見たい。
自然にそう思えた。
それが少しだけ嬉しかった。
五月の夜は静かに更けていく。
初夏はもうすぐそこまで来ていた。




