第六十五日目②
「空を泳ぐ魚を見に」
奈緒はそう言った。
意味が分からなかった。
魚は水の中にいる。
それが常識だった。
少なくともリツカの知る世界では。
「魚が空を飛ぶのですか」
「飛ばない」
「泳ぐのですか」
「泳がない」
「どちらですか」
奈緒は笑った。
説明する気がないらしい。
理不尽だった。
結局。
リツカと奈緒、
そしてハクで散歩に出ることになった。
五月の風が心地良い。
田んぼには水が入り始めている。
若葉は鮮やかだった。
道を歩きながら、
リツカは空を見上げる。
魚はいない。
当然だった。
その時。
「見えてきた」
奈緒が前を指差した。
川だった。
大きな川。
土手の向こう。
そして。
リツカは立ち止まった。
「……」
言葉が出なかった。
空だった。
青空いっぱいに魚がいた。
正確には。
魚の形をした布だった。
赤。
青。
黒。
金色。
たくさんの魚が風を受けて泳いでいる。
何十匹も。
何百匹も。
まるで空の川だった。
風が吹く。
鯉たちが一斉に揺れる。
本当に泳いでいるように見えた。
「すごい……」
思わず声が漏れる。
奈緒が少し嬉しそうに笑った。
「鯉のぼり」
「これが」
「子どもの日の飾り」
リツカは見上げる。
大きな鯉。
小さな鯉。
家族みたいだった。
風の中を並んで泳いでいる。
「なぜ鯉なのですか」
奈緒は少し考えた。
「昔からね」
「鯉は強い魚だって言われてるんだ」
「強い」
「流れの強い川も上るし」
「滝も上るって伝説がある」
なるほど。
だから。
元気に。
強く。
たくましく。
子どもが育つよう願う。
柏餅と同じだった。
願いがある。
ただ飾るだけではない。
意味がある。
祈りがある。
この国の人たちらしいと思った。
その時。
わふ!
ハクが突然走り出した。
風に揺れる鯉のぼりを見ている。
尻尾を振る。
興奮していた。
どうやら本物の魚だと思っているらしい。
「違います」
わふ!
聞いていなかった。
土手を駆け回る。
奈緒が笑う。
「捕まえたいんだろうね」
無理だった。
絶対に。
しばらくすると、
近くで子どもたちの声がした。
みーちゃんだった。
友達と一緒にいる。
「あっ!」
こちらに気付いた。
元気に手を振る。
「リツカおねえちゃーん!」
走って来る。
転びそうな勢いで。
案の定。
つまずいた。
「あっ」
どさっ。
転んだ。
奈緒が吹き出す。
リツカは慣れた動きでしゃがむ。
「大丈夫ですか」
「へいき!」
本当に平気そうだった。
擦り傷もない。
元気だった。
みーちゃんは空を指差す。
「すごいでしょ!」
「はい」
本当に。
綺麗だった。
空には鯉。
川には水。
土手には子どもたち。
五月の風が吹く。
青空の下。
たくさんの笑い声が響いていた。
リツカはもう一度、
空を見上げる。
異世界にはなかった景色。
けれど。
なぜだろう。
とても好きだと思った。
風を受けて泳ぐ鯉たちは、
どこか自由そうだった。
そしてその帰り道。
リツカは人生で初めて、
ある生き物と遭遇する。
夏の訪れを告げる、
小さな光だった。




