第六十日目
花見から数週間後。
桜はすっかり散っていた。
町の景色も少しずつ変わる。
若葉。
青い空。
暖かくなった風。
春から初夏へ。
季節はゆっくり進んでいた。
そして。
問題の日がやって来る。
朝。
リツカは居間でお茶を飲んでいた。
そこへ。
玄関が勢いよく開く。
「奈緒ちゃーん!」
聞き慣れた声だった。
奈緒がため息をつく。
「由美さんだ」
フミも笑う。
もう誰も驚かない。
由美は元気いっぱいだった。
「今日だよ!」
「今日?」
「田植え!」
リツカが固まる。
思い出した。
花見の日。
確かにそんな話を聞いた。
「本当にやるのですか」
「やるよ!」
由美は即答だった。
どうやら冗談ではなかったらしい。
一時間後。
リツカは田んぼの前に立っていた。
広い。
とても広い。
水が張られている。
空が映っている。
風が吹くと揺れる。
まるで湖だった。
「綺麗です」
思わず呟く。
「だろう?」
由美の夫が笑う。
農家だった。
今日は町の人たちも手伝いに来ている。
魚屋のおじさん。
パン屋のおばさん。
真紀。
源蔵までいる。
「源蔵さんも」
「毎年だ」
源蔵は麦わら帽子を被っていた。
少し似合っていた。
田植えが始まる。
苗を受け取る。
細い緑色の苗。
とても頼りない。
「これがお米になるんですか」
「なるよ」
リツカは感心する。
植物は不思議だ。
そして。
いよいよ田んぼへ入る。
一歩。
ぐにゃ。
「!?」
足が沈む。
冷たい。
柔らかい。
動きにくい。
「泥です!」
当たり前だった。
田んぼだからである。
奈緒が笑う。
「田んぼだからね」
「歩けません」
「頑張れ」
リツカは慎重に進む。
一歩。
二歩。
三歩。
ぐらっ。
危ない。
何とか耐える。
周囲から拍手が起きる。
「すごい!」
「耐えた!」
なぜ拍手なのか。
リツカには分からない。
その時。
わふっ!
ハクだった。
田んぼへ突撃した。
「あっ」
全員が思った。
遅い。
ハクは勢いよく走る。
泥が飛ぶ。
さらに走る。
楽しそうだった。
非常に楽しそうだった。
そして。
急停止。
ずるっ。
盛大に転んだ。
泥まみれ。
一瞬静寂。
そして。
大爆笑。
ハクは何が起きたか分かっていない。
泥だらけの顔で立ち上がる。
しっぽだけは元気だった。
「大丈夫ですか」
リツカが駆け寄る。
その瞬間。
ずるっ。
「あ」
転んだ。
見事だった。
完全に。
頭から。
泥の中へ。
静寂。
再び大爆笑。
奈緒は立っていられない。
由美は涙を流して笑っている。
源蔵は腰を押さえている。
リツカはゆっくり起き上がる。
顔に泥。
髪にも泥。
服にも泥。
ハクも同じだった。
一人と一匹は見つめ合う。
「仲間です」
わふっ。
ハクが答える。
完全に仲間だった。
笑い声が田んぼに響く。
青空の下。
泥まみれになりながら、
リツカは初めて心から思った。
楽しい。
本当に。
とても楽しい。
そして田植えの帰り。
町の水道で泥を洗い流すはずが――
リツカとハクはさらに大事件を起こすことになる。




