第十日目
翌日。
朝から雨だった。
春の雨。
強くはない。
けれど静かに降り続いている。
軒先を打つ雨音。
庭の葉を濡らす雨粒。
ハクは縁側で少し不満そうだった。
散歩へ行けないからだ。
「今日は我慢です」
リツカが言う。
ハクはため息のような声を出した。
犬にも不満はあるらしい。
午前中。
リツカは源蔵から借りた本を読んでいた。
薬草図鑑。
知らない植物。
知らない効能。
この世界の知識は新鮮だった。
その時。
玄関の呼び鈴が鳴る。
ピンポーン。
リツカは少しだけ振り返る。
もう驚かない。
十日前なら飛び上がっていた。
フミが玄関へ向かう。
しばらくして。
「リツカ」
呼ばれた。
「はい」
玄関へ行く。
そこにいたのは、
先日商店街で会った女性だった。
眠れないと相談してきた人だ。
女性は少し照れたように笑った。
「こんにちは」
「こんにちは」
「この前はありがとう」
そう言って、
小さな紙袋を差し出す。
中には焼き菓子が入っていた。
「お礼」
リツカは戸惑う。
「私は何も」
「したよ」
女性は優しく笑った。
「話を聞いてくれた」
雨音が静かに響く。
女性は続けた。
「眠れない理由、自分でも分かってなかったの」
「……」
「でも話してたら気付いた」
仕事のこと。
将来のこと。
家族のこと。
不安が積み重なっていたらしい。
「少し整理できた」
女性はそう言った。
「だからありがとう」
リツカは紙袋を見つめる。
異世界では、
薬を渡して感謝されることはあった。
けれど。
今回は違う。
薬を渡していない。
何も作っていない。
ただ聞いただけだった。
それでも。
感謝された。
胸の奥が少し熱くなる。
「こちらこそ」
ゆっくりと言う。
「元気になって良かったです」
女性は笑顔で帰っていった。
雨の中。
傘が遠ざかっていく。
玄関が閉まる。
静寂。
フミが隣に立った。
「嬉しかったかい?」
リツカは少し考える。
そして。
小さく頷いた。
「はい」
フミは微笑む。
「良かったねぇ」
その日の午後。
源蔵の店へ行く。
雨の商店街は少し静かだった。
店へ入る。
カラン。
鈴が鳴る。
源蔵が顔を上げる。
「おう」
「こんにちは」
リツカは紙袋の話をした。
相談。
お礼。
焼き菓子。
源蔵は黙って聞いていた。
そして。
静かに笑う。
「そうか」
「はい」
「良かったな」
リツカは首を傾げる。
「そんなにでしょうか」
源蔵は棚の薬草を見ながら言う。
「漢方薬剤師ってのはな」
静かな声だった。
「薬を渡すだけじゃない」
「……」
「人を安心させる仕事でもある」
雨音が窓を叩く。
リツカは黙って聞く。
源蔵は続ける。
「薬で治ることもある」
「だが」
「話を聞いて楽になることもある」
「笑って楽になることもある」
「誰かがそばにいてくれるだけで楽になることもある」
リツカの胸に、
その言葉が静かに落ちていく。
異世界では、
薬ばかり見ていた気がする。
効能。
処方。
研究。
もちろん大切だった。
けれど。
それだけではなかったのかもしれない。
源蔵が笑う。
「町の人たちがお前さんに話しかける理由」
「はい」
「少し分かったか?」
リツカは窓の外を見る。
雨。
商店街。
傘をさして歩く人々。
そして思い出す。
由美。
公園の親子。
薬局のみんな。
眠れなかった女性。
皆、
話しかけてくれた。
少しだけ。
分かった気がした。
「はい」
源蔵は満足そうに頷いた。
その日の帰り道。
雨は止み始めていた。
雲の切れ間から、
夕陽が差し込む。
濡れた道が光る。
リツカは空を見上げた。
異世界へ帰る方法は、
まだ分からない。
不安もある。
寂しさも消えていない。
けれど。
一つだけ。
確かなことがあった。
星波町には、
自分を必要としてくれる人がいる。
その事実は、
思っていたよりずっと温かかった。
そして翌週。
リツカは人生で初めて、
「お花見」という行事に参加することになる。
桜が満開になった春の日。
星波町の人々と過ごす、
忘れられない一日が始まる。




