第五日目①
翌朝。
空はよく晴れていた。
窓を開けると、
少し冷たい春の風が入ってくる。
遠くでは電車の音。
ガタン。
ゴトン。
もう聞き慣れ始めた音だった。
リツカは布団をたたむ。
顔を洗う。
居間へ向かう。
すると。
台所から良い匂いがしていた。
卵が焼ける匂い。
醤油の香り。
炊きたてのご飯。
「おはようございます」
「おはよう」
フミが振り返る。
エプロン姿だった。
珍しい。
「料理をしているのですか」
「してるよ」
フミが笑う。
台所の上には弁当箱。
ご飯。
卵焼き。
煮物。
焼き鮭。
色とりどりだった。
「綺麗です」
「奈緒のお弁当だからねぇ」
リツカは少し驚く。
「毎日ですか」
「だいたいね」
フミは卵焼きを詰めながら答える。
「お昼はちゃんと食べてほしいから」
その言葉が妙に温かかった。
薬師だった頃。
昼食を忘れることも多かった。
忙しくて。
患者が多くて。
食べる時間より、
薬を作る時間の方が大切だった。
でも。
この家では違う。
ちゃんと食べる。
ちゃんと休む。
それが当たり前だった。
フミが弁当箱の蓋を閉める。
ぱちん。
小気味良い音。
「そうだ」
フミが振り返る。
「リツカ」
「はい」
「届けてくれるかい?」
「届ける?」
フミはお弁当を持ち上げた。
「奈緒に」
リツカは瞬きをする。
薬局まで。
一人で。
「私がですか」
「うん」
フミは優しく笑った。
「道は分かるだろう?」
分かる。
神社の前を通る。
商店街を抜ける。
駅の近く。
何度か歩いた。
「できます」
リツカは頷いた。
少しだけ緊張する。
でも。
嫌ではない。
むしろ。
少し楽しみだった。
自分で頼まれたこと。
自分でできること。
それが嬉しかった。
フミは小さな風呂敷に弁当を包む。
そして。
リツカへ手渡した。
「お願いね」
「お任せください」
その返事があまりにも真剣で、
フミは思わず笑った。
十分後。
リツカは家を出た。
風呂敷包みを抱えて。
春の町を歩く。
空は青い。
潮の香り。
どこかで鳴く鳥。
そして。
踏切の音。
カン、カン、カン――
リツカは少し足を止めた。
遮断機が下りる。
やがて。
一両編成の電車が通り過ぎる。
窓際の学生。
新聞を読むおじいさん。
眠そうな会社員。
電車はガタンゴトンと走り去っていく。
リツカはそれを見送った。
好きになった音だった。
そして再び歩き出す。
神社の前を通る。
石段の上には。
いた。
クロ。
いつもの場所。
狛犬の横。
「おはようございます」
リツカが言う。
クロは欠伸をした。
相変わらずだった。
けれど。
少しだけ耳が動いた。
それだけで。
なんとなく挨拶を返された気がした。
リツカは笑う。
そして薬局へ向かう。
知らない世界だった町。
今は少し違う。
知っている道がある。
知っている人がいる。
行く場所がある。
風呂敷を抱えながら、
リツカは春の町を歩いていく。
それは小さな用事だった。
けれど。
彼女にとっては、
初めての「おつかい」だった。




