第四日目 ⑥
海からの帰り道。
夕陽は山の向こうへ沈み始めていた。
空は橙色。
少しずつ紫色が混じり始めている。
春の夕暮れだった。
ハクは満足そうに歩いている。
砂浜を走り回ったせいか、
少しだけ足取りがゆっくりだ。
「疲れましたか」
リツカが聞く。
ハクは答えない。
けれど。
あくびをした。
「疲れたらしいね」
奈緒が笑う。
二人と一匹は坂道を上っていく。
その時。
ふわり。
風が運んできた。
香ばしい匂い。
リツカが立ち止まる。
「……」
鼻を少し動かす。
焼き魚だった。
どこかの家の夕食。
少し遅れて。
別の匂いも届く。
醤油。
だし。
煮物。
さらに。
炊きたてのご飯の香り。
リツカは周囲を見回した。
どこにも店はない。
屋台もない。
それなのに。
町中が美味しそうな匂いで満ちている。
「奈緒さん」
「ん?」
「良い匂いです」
奈緒は少し笑った。
「晩ご飯だね」
リツカは再び立ち止まる。
一軒の家。
また別の家。
さらに別の家。
それぞれ違う匂いがする。
焼き魚の家。
カレーの家。
味噌の香りがする家。
揚げ物の香りがする家。
まるで。
町全体が大きな台所みたいだった。
「不思議です」
リツカが呟く。
奈緒は笑う。
「また?」
「はい」
リツカは頷いた。
「皆違う匂いです」
「そうだね」
「皆違うご飯です」
「そうだね」
「でも」
少し考える。
「皆、家へ帰る匂いです」
奈緒は足を止めた。
その言葉が少し嬉しかった。
リツカはまだ気付いていない。
今言った言葉の意味を。
家へ帰る匂い。
それは。
もうこの町を、
自分の帰る場所として感じ始めているということだった。
商店街の前を通る。
魚屋が店じまいをしている。
八百屋のおじさんが野菜を片付けている。
「おう、奈緒ちゃん」
「こんばんは」
「リツカちゃんも」
「こんばんは」
自然に挨拶が返せる。
最初の日にはできなかったこと。
知らない人だった。
今は違う。
名前を知っている人が増えた。
挨拶を交わす人が増えた。
そして。
帰る家もある。
空には一番星が輝き始めていた。
やがて。
見慣れた家が見える。
縁側。
庭。
そして。
玄関の灯り。
「ただいま」
奈緒が言う。
リツカは少しだけ間を置いた。
そして。
自然に言葉が出る。
「ただいま戻りました」
玄関の中から。
「おかえり」
フミの声が返ってくる。
その瞬間。
リツカは胸の奥が少し温かくなるのを感じた。
異世界には、
もう帰れないかもしれない。
その事実は変わらない。
けれど。
今は。
この家の灯りがある。
迎えてくれる人がいる。
そして。
夕飯の匂いがする。
それだけで。
少しだけ救われる気がした。
その夜。
リツカは初めて、
「明日が楽しみだ」と思いながら眠りにつく。




