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魔法をなくした薬師  作者: 灯野 しおん


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第四日目 ⑤

午後の光は少しずつ傾き始めていた。


縁側には春の日差し。


庭にはハク。


塀の上にはクロ。


そして。


リツカの手の中には小さな木の実。


クロからの贈り物。


たぶん。


きっと。


そういうことにしておこうと思った。


居間へ戻る。


机の上にはノート。


今日練習した文字。


りつか


まだ少し歪んでいる。


けれど。


朝より上手になっていた。


リツカは指でなぞる。


自分の名前。


この世界の文字で書いた名前。


不思議と嬉しかった。


窓の外を見る。


青空。


少しずつ長くなる影。


春の風。


そして。


遠くから聞こえる電車の音。


ガタン。


ゴトン。


リツカはふと立ち上がった。


「奈緒さん」


台所から声が返る。


「なに?」


「お願いがあります」


珍しい言葉だった。


奈緒は少し驚く。


リツカは基本的に遠慮する。


欲しいものも。


やりたいことも。


ほとんど言わない。


だから。


奈緒は手を止めた。


「どうしたの?」


リツカは少し考える。


言葉を探している。


そして。


静かに言った。


「散歩へ行きたいです」


奈緒が目を丸くする。


「今から?」


「はい」


少し間。


リツカは続ける。


「海を見たいです」


奈緒は思わず笑った。


来たばかりの頃なら、


こんなことは言わなかった。


言われるまま。


連れて行かれるまま。


そんな感じだった。


でも今は違う。


自分で行きたい場所がある。


見たい景色がある。


それが何だか嬉しかった。


「行こうか」


「はい」


返事が少し早い。


奈緒は笑いながら上着を取る。


「ハクも行く?」


その瞬間。


ハクが飛び起きた。


聞こえていたらしい。


尻尾がぶんぶん振られている。


「行くらしい」


「そうですね」


リツカも少し笑う。


玄関を出る。


春の夕方。


空は淡い青。


西の空だけが少し橙色だった。


海へ続く坂道を歩く。


途中。


見慣れた家々。


庭先の花。


自転車に乗る子ども。


買い物帰りのおばあさん。


皆が挨拶をくれる。


「こんにちは」


「こんにちは」


自然と返せるようになっていた。


少し前まで。


誰とも話せなかったのに。


やがて。


視界が開く。


海だった。


夕陽を受けて輝く水面。


穏やかな波。


遠くを走る漁船。


リツカは立ち止まる。


風が吹く。


髪が揺れる。


潮の香り。


波の音。


「綺麗です」


奈緒は隣に立つ。


「うん」


二人で海を見る。


しばらく無言だった。


その沈黙は、


もう気まずくなかった。


その時。


リツカがぽつりと言った。


「最初の日」


「うん?」


「ここへ来た時」


奈緒は静かに聞く。


「怖かったです」


波の音だけが聞こえる。


「全部知らなくて」


「帰れなくて」


「何も分からなくて」


奈緒は何も言わない。


リツカは海を見たまま続ける。


「でも」


少し考える。


そして。


小さく笑った。


「今は少し楽しいです」


夕陽が海を染める。


奈緒も笑った。


「それならよかった」


春の風が吹く。


ハクは砂浜を走っている。


遠くでは電車が通る。


ガタン。


ゴトン。


その音を聞きながら、


リツカは静かに思った。


ここはまだ知らない世界だ。


けれど。


少しずつ好きになっている。


海も。


町も。


人も。


そして。


この暮らしも。


夕陽はゆっくりと水平線へ沈んでいった。

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