第三百八十日目③
午後の陽射しは、
少しずつ西へ傾き始めていた。
桜の下で遊んでいた子どもたちも、
名残惜しそうに家路につき始める。
風が吹くたび、
花びらがゆっくりと舞い、
川面へ落ちて流れていく。
「そろそろ帰ろうか。」
フミが穏やかに言う。
「はい。」
みんなでレジャーシートを畳み、
空になったお弁当箱を重ねていく。
去年と同じように。
でも、去年よりずっと自然に。
ハクは最後まで桜の木のまわりを歩き回り、
落ちてきた花びらを鼻先で追いかけている。
「ハク。」
リツカが呼ぶと、
ハクは嬉しそうに駆け寄り、
そのまま足元へ座った。
「あなたも、この桜が好きなのですね。」
ハクは尻尾を一度だけ振った。
帰り際。
リツカは一人、
桜の木の前へ戻った。
誰も急かさない。
奈緒もフミも、
少し離れた場所で静かに待っていた。
リツカは幹へそっと手を添える。
ざらり、とした樹皮の感触。
去年も触れた、
あたたかな命のぬくもり。
「ありがとう。」
小さな声でつぶやく。
「今年も会えて、うれしかったです。」
風が吹く。
枝がやさしく揺れる。
まるで「こちらこそ」と応えてくれたようだった。
「リツカ。」
奈緒が優しく呼ぶ。
「帰ろう。」
その言葉に、
リツカは振り返る。
そして、自然に笑った。
「はい。」
車へ向かう道。
みーちゃんは今日拾った花びらを大切そうに本へ挟んでいる。
「これね。」
「来年まで取っておくの。」
「来年?」
リツカが尋ねる。
「うん!」
「また来年、ここで比べるんだ。」
「今年の桜と、来年の桜。」
リツカは微笑む。
「きっと、どちらもきれいですね。」
「うん!」
車がゆっくり走り出す。
窓の外では、
桜並木が少しずつ遠ざかっていく。
リツカは最後まで振り返っていた。
花びらが風に乗り、
まるで見送るように舞っている。
「さようなら。」
そう言いかけて、
リツカは少しだけ首を振った。
違う。
もう、この町の春に「さようなら」は似合わない。
小さく息を吸って、
やわらかく微笑む。
「またね。」
その一言は、
桜へ向けた言葉でもあり、
春へ向けた言葉でもあり、
一年後の自分への約束でもあった。
家へ帰ると、
庭の隅では、
去年植えた小さな薬草が、
新しい若葉を広げていた。
リツカはしゃがみ込み、
やさしく土に触れる。
季節は巡る。
花は咲き、
散り、
また芽吹く。
人も同じように、
少しずつ成長しながら、
毎日を重ねていく。
玄関の戸を開ける。
夕飯の支度をする音。
味噌汁の湯気。
フミの「手を洗っておいで」という声。
みーちゃんの笑い声。
ハクの足音。
どれも、
もう特別なものではない。
だからこそ、
かけがえのないものだった。
リツカは小さく微笑み、
家の中へ一歩踏み出す。
そして、いつものように言った。
「ただいま。」
少し間を置いて、
台所から返事が聞こえる。
「おかえり。」
その二文字が、
春の夕暮れに、
やさしく溶けていった。
――終――




