第三百八十日目
三月の終わり。
朝、玄関の戸を開けた瞬間だった。
ふわり。
頬を撫でる風が、今までとは違っていた。
少しだけ甘い。
少しだけやわらかい。
冬の匂いは、もうどこにも残っていなかった。
リツカは目を閉じ、
ゆっくり息を吸い込む。
「……春です。」
その声に、
朝刊を取りに出てきた奈緒が笑う。
「そう思う?」
「はい。」
「今日は、昨日より風が温かいです。」
奈緒は空を見上げる。
澄みきった青空。
白い雲がゆっくり流れている。
「じゃあ、見に行ってみようか。」
「はい。」
何を見に行くのか、
もう聞く必要はなかった。
◇
朝食を終えると、
みんなで車に乗り込む。
ハクは後部座席で落ち着かない様子だ。
窓の外ばかり眺めて、
尻尾を何度も振っている。
「ハクも分かるのかな。」
みーちゃんが笑う。
「今日がお花見の日だって。」
「わん!」
まるで返事をするように、
ハクが一度だけ鳴いた。
車は町を抜け、
川沿いの道をゆっくり走る。
去年、
何度も通った道。
梅を見つけた道。
菜の花が揺れていた土手。
つくしを摘んだあぜ道。
どの景色にも、
思い出が増えていた。
「あ……。」
リツカが窓の外を見つめる。
「あそこ。」
川沿いの桜並木。
枝先が、
うっすらと桃色に染まっている。
まだ遠い。
それでも、
咲いていることが分かった。
リツカは思わず胸の前で手を合わせる。
「咲いています……。」
その声は、
驚きではなく、
再会を喜ぶ声だった。
◇
車を降りる。
土手を歩く。
春の草が風に揺れる。
菜の花の黄色。
川面を渡る光。
そして。
一本目の桜の木の下へ来た瞬間、
リツカは立ち止まった。
満開だった。
空が見えないほど、
枝いっぱいに咲いた桜。
風が吹く。
さらさら。
花びらが舞う。
一枚。
また一枚。
青空の中を、
白桃色の花びらがゆっくり流れていく。
リツカは何も言わなかった。
ただ、
桜を見上げる。
去年と同じ景色。
でも、
去年とは違う自分。
「おかえり。」
ふいに、
フミが桜へ向かって微笑んだ。
「今年も咲いてくれたね。」
その言葉を聞いて、
リツカは小さく目を見開く。
「……おかえり。」
桜に、
そう言うのですか。
フミは頷いた。
「春は毎年帰ってくるでしょう?」
「だからね。」
「私は毎年、この桜に『おかえり』って言うんだ。」
リツカはもう一度、
満開の桜を見上げた。
花びらが一枚、
肩へ舞い降りる。
そっと手に乗せる。
去年も、
こうして花びらを拾った。
去年は、
美しいと思った。
今年は、
懐かしいと思った。
同じ桜なのに、
胸に広がる気持ちは少し違う。
リツカは優しく微笑み、
小さな声で桜へ語りかけた。
「ただいま。」
風が吹く。
桜は、
返事をするように静かに揺れた。




