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魔法をなくした薬師  作者: 灯野 しおん


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第三百八十日目

三月の終わり。


朝、玄関の戸を開けた瞬間だった。


ふわり。


頬を撫でる風が、今までとは違っていた。


少しだけ甘い。


少しだけやわらかい。


冬の匂いは、もうどこにも残っていなかった。


リツカは目を閉じ、


ゆっくり息を吸い込む。


「……春です。」


その声に、


朝刊を取りに出てきた奈緒が笑う。


「そう思う?」


「はい。」


「今日は、昨日より風が温かいです。」


奈緒は空を見上げる。


澄みきった青空。


白い雲がゆっくり流れている。


「じゃあ、見に行ってみようか。」


「はい。」


何を見に行くのか、


もう聞く必要はなかった。



朝食を終えると、


みんなで車に乗り込む。


ハクは後部座席で落ち着かない様子だ。


窓の外ばかり眺めて、


尻尾を何度も振っている。


「ハクも分かるのかな。」


みーちゃんが笑う。


「今日がお花見の日だって。」


「わん!」


まるで返事をするように、


ハクが一度だけ鳴いた。


車は町を抜け、


川沿いの道をゆっくり走る。


去年、


何度も通った道。


梅を見つけた道。


菜の花が揺れていた土手。


つくしを摘んだあぜ道。


どの景色にも、


思い出が増えていた。


「あ……。」


リツカが窓の外を見つめる。


「あそこ。」


川沿いの桜並木。


枝先が、


うっすらと桃色に染まっている。


まだ遠い。


それでも、


咲いていることが分かった。


リツカは思わず胸の前で手を合わせる。


「咲いています……。」


その声は、


驚きではなく、


再会を喜ぶ声だった。



車を降りる。


土手を歩く。


春の草が風に揺れる。


菜の花の黄色。


川面を渡る光。


そして。


一本目の桜の木の下へ来た瞬間、


リツカは立ち止まった。


満開だった。


空が見えないほど、


枝いっぱいに咲いた桜。


風が吹く。


さらさら。


花びらが舞う。


一枚。


また一枚。


青空の中を、


白桃色の花びらがゆっくり流れていく。


リツカは何も言わなかった。


ただ、


桜を見上げる。


去年と同じ景色。


でも、


去年とは違う自分。


「おかえり。」


ふいに、


フミが桜へ向かって微笑んだ。


「今年も咲いてくれたね。」


その言葉を聞いて、


リツカは小さく目を見開く。


「……おかえり。」


桜に、


そう言うのですか。


フミは頷いた。


「春は毎年帰ってくるでしょう?」


「だからね。」


「私は毎年、この桜に『おかえり』って言うんだ。」


リツカはもう一度、


満開の桜を見上げた。


花びらが一枚、


肩へ舞い降りる。


そっと手に乗せる。


去年も、


こうして花びらを拾った。


去年は、


美しいと思った。


今年は、


懐かしいと思った。


同じ桜なのに、


胸に広がる気持ちは少し違う。


リツカは優しく微笑み、


小さな声で桜へ語りかけた。


「ただいま。」


風が吹く。


桜は、


返事をするように静かに揺れた。

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