第三百七十二日
三月も半ばを過ぎた。
風はもう冷たくはない。
どこか柔らかく、
土や若葉の匂いを運んでくる。
日曜日の午後。
奈緒が車の鍵を手に取った。
「少し出かけようか。」
「買い物ですか?」
「いや。」
奈緒は笑う。
「会いに行こう。」
「誰にですか?」
「去年、一緒に約束した相手。」
リツカは首をかしげながら助手席へ乗り込んだ。
町を抜け、
川沿いの道をゆっくり走る。
見慣れた景色なのに、
去年よりも少し近く感じる。
やがて車が止まった。
「あ……。」
リツカは思わず小さく声を漏らす。
去年、
みんなでお花見をした土手だった。
ハクがうれしそうに駆け出していく。
みーちゃんも後を追いかける。
リツカはゆっくり桜の木へ歩いていった。
枝を見上げる。
花は、
まだ咲いていない。
無数の蕾が、
枝いっぱいに並んでいる。
「あと少しですね。」
奈緒も隣へ立つ。
「去年も、こんな感じだったよ。」
「そうでしたか?」
「うん。」
「リツカは毎日『今日は咲きましたか』って聞いてた。」
リツカは驚いたように目を丸くする。
「そんなことを……。」
「毎日。」
「朝起きても。」
「薬局へ行く前も。」
「帰ってきてからも。」
『今日は咲きましたか?』
奈緒は笑いながら当時の口調を真似する。
リツカは両手で顔を隠した。
「……恥ずかしいです。」
「でも、そのおかげで俺まで毎日桜を見るようになった。」
奈緒は枝先を見上げる。
「去年は忙しくて、
桜なんて『咲いたな』くらいにしか思ってなかった。」
「でもリツカが毎日楽しみにしてるから。」
「俺も毎日蕾を見るようになった。」
風が吹く。
枝先が、
かすかに揺れる。
「ありがとう。」
奈緒はぽつりと言った。
「え?」
「季節をゆっくり見るようになったのは、
リツカのおかげだから。」
リツカは少し困ったように笑う。
「私は……。」
「皆さんから教えていただいただけです。」
奈緒は首を振る。
「違う。」
「教えたのは行事だけ。」
「季節を楽しむことを思い出させてもらったのは、
リツカからだよ。」
しばらく、
二人は黙って桜を見上げていた。
蕾はまだ固い。
それでも、
ほんの少しだけ先が薄桃色に染まり始めている。
「咲きたいんですね。」
リツカがそっと呟く。
「うん。」
「きっと今、
一生懸命準備してる。」
リツカは枝へ向かって小さく微笑んだ。
「急がなくて大丈夫ですよ。」
「私たちは待っていますから。」
その言葉は、
桜へ向けたものでもあり、
自分自身へ向けたものでもあった。
異世界へ帰る方法を探して、
焦っていたあの日。
一人で何でもしようとしていたあの日。
そんな自分はもういない。
待つことも、
信じることも、
この町が教えてくれた。
「リツカさーん!」
土手の下から、
みーちゃんが大きく手を振る。
「つくし、いっぱい!」
ハクも楽しそうに駆け回っている。
リツカは振り返り、
笑顔で手を振り返した。
「今行きます!」
駆け出すその姿を見て、
奈緒は静かに笑った。
一年前なら、
どこか遠慮がちだった背中。
今はもう、
この町の風景に自然と溶け込んでいる。
桜は、
まだ咲いていない。
けれど奈緒には分かっていた。
今年の春は、
去年より少しだけ、
あたたかい。
その理由は、
きっと一人増えた家族のような存在が、
隣で笑っているからだった。




