第三百六十七日目
ひな祭りが終わると、
七段飾りは一つずつ箱へ戻されていった。
「今年もありがとうね。」
フミはお内裏様をやさしく布で包む。
リツカも隣で、小さな三人官女を両手でそっと持ち上げた。
去年は壊してしまわないかと緊張していた手も、
今年は自然と動く。
「箱の中で、また一年眠るんですね。」
「そう。」
「来年まで、少しお休み。」
リツカは静かに頷き、
人形へ小さく頭を下げた。
「また来年、お会いしましょう。」
◇
午後。
買い物へ向かう途中、
神社の前を通りかかった。
境内では、
桃の花がやさしく揺れている。
濃い桃色の花びら。
まだ少し冷たい風。
その景色を眺めながら、
リツカは立ち止まった。
「奈緒さん。」
「どうした?」
「去年、この木も咲いていました。」
奈緒は少し驚いて、
それから微笑んだ。
「覚えてるんだ。」
「はい。」
「去年は、この花を見て……。」
少し考える。
「桜ではないのですね、と聞きました。」
奈緒は声を上げて笑った。
「聞いた聞いた。」
「『春の花は全部桜ですか』って。」
リツカは少し恥ずかしそうに笑う。
「あの頃は、本当に何も知りませんでした。」
「でも今は?」
リツカは桃の花を見つめる。
「梅も。」
「桃も。」
「菜の花も。」
「福寿草も。」
「みんな違う春でした。」
奈緒はその言葉に、
ゆっくり頷いた。
「そうなんだよね。」
「春って、一つじゃない。」
◇
神社をあとにして、
商店街へ向かう。
和菓子屋の店先には、
桜餅が並び始めていた。
ガラス越しに見える、
淡い桜色。
「もう売ってる。」
奈緒が言う。
「桜はまだなのに?」
リツカが不思議そうに尋ねる。
「桜を待つ時間も、
春の楽しみだから。」
その言葉に、
リツカは小さく笑った。
「待つことも、季節なのですね。」
◇
帰り道。
川沿いの柳が、
うっすらと緑色になっていた。
枝の先に、
やわらかな新芽。
風が吹くたび、
細い枝がゆっくり揺れる。
その下を歩いていると、
小学生の男の子たちが走って行った。
「卒業式まであと少しだ!」
「春休みだー!」
元気な声が、
川辺に響く。
リツカは振り返る。
「町も……。」
「春になる準備をしていますね。」
奈緒もその子どもたちを見送りながら、
穏やかに笑う。
「人も季節と一緒に動くんだ。」
卒業。
入学。
新しい仕事。
新しい出会い。
春は、
花だけが咲く季節ではない。
人の暮らしも、
新しく芽吹く季節なのだ。
◇
家へ戻ると、
庭ではハクが日向ぼっこをしていた。
ぽかぽかとした陽射しの中で、
気持ちよさそうに伸びをする。
「ハクも春ですね。」
リツカが笑いながら隣に座ると、
ハクは安心したように頭を膝へ乗せた。
遠くで、
またうぐいすが鳴く。
「ホーホケキョ。」
今度は、
ちゃんと聞き取れた。
去年は珍しい鳥の声だった。
今年は、
「ああ、春が来た。」
そう思える声になっていた。
リツカは空を見上げる。
澄んだ青空。
ゆっくり流れる白い雲。
その向こうで、
まだ見えない桜が、
静かに蕾を膨らませている。
「もうすぐですね。」
その言葉に、
奈緒も静かに頷いた。
「うん。」
「あと少し。」
二人は何も話さず、
春の風を感じていた。
春は急がない。
だからこそ、
待つ時間まで、
こんなにも愛おしいのだ。




