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魔法をなくした薬師  作者: 灯野 しおん


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第三百六十七日目

ひな祭りが終わると、


七段飾りは一つずつ箱へ戻されていった。


「今年もありがとうね。」


フミはお内裏様をやさしく布で包む。


リツカも隣で、小さな三人官女を両手でそっと持ち上げた。


去年は壊してしまわないかと緊張していた手も、


今年は自然と動く。


「箱の中で、また一年眠るんですね。」


「そう。」


「来年まで、少しお休み。」


リツカは静かに頷き、


人形へ小さく頭を下げた。


「また来年、お会いしましょう。」



午後。


買い物へ向かう途中、


神社の前を通りかかった。


境内では、


桃の花がやさしく揺れている。


濃い桃色の花びら。


まだ少し冷たい風。


その景色を眺めながら、


リツカは立ち止まった。


「奈緒さん。」


「どうした?」


「去年、この木も咲いていました。」


奈緒は少し驚いて、


それから微笑んだ。


「覚えてるんだ。」


「はい。」


「去年は、この花を見て……。」


少し考える。


「桜ではないのですね、と聞きました。」


奈緒は声を上げて笑った。


「聞いた聞いた。」


「『春の花は全部桜ですか』って。」


リツカは少し恥ずかしそうに笑う。


「あの頃は、本当に何も知りませんでした。」


「でも今は?」


リツカは桃の花を見つめる。


「梅も。」


「桃も。」


「菜の花も。」


「福寿草も。」


「みんな違う春でした。」


奈緒はその言葉に、


ゆっくり頷いた。


「そうなんだよね。」


「春って、一つじゃない。」



神社をあとにして、


商店街へ向かう。


和菓子屋の店先には、


桜餅が並び始めていた。


ガラス越しに見える、


淡い桜色。


「もう売ってる。」


奈緒が言う。


「桜はまだなのに?」


リツカが不思議そうに尋ねる。


「桜を待つ時間も、


春の楽しみだから。」


その言葉に、


リツカは小さく笑った。


「待つことも、季節なのですね。」



帰り道。


川沿いの柳が、


うっすらと緑色になっていた。


枝の先に、


やわらかな新芽。


風が吹くたび、


細い枝がゆっくり揺れる。


その下を歩いていると、


小学生の男の子たちが走って行った。


「卒業式まであと少しだ!」


「春休みだー!」


元気な声が、


川辺に響く。


リツカは振り返る。


「町も……。」


「春になる準備をしていますね。」


奈緒もその子どもたちを見送りながら、


穏やかに笑う。


「人も季節と一緒に動くんだ。」


卒業。


入学。


新しい仕事。


新しい出会い。


春は、


花だけが咲く季節ではない。


人の暮らしも、


新しく芽吹く季節なのだ。



家へ戻ると、


庭ではハクが日向ぼっこをしていた。


ぽかぽかとした陽射しの中で、


気持ちよさそうに伸びをする。


「ハクも春ですね。」


リツカが笑いながら隣に座ると、


ハクは安心したように頭を膝へ乗せた。


遠くで、


またうぐいすが鳴く。


「ホーホケキョ。」


今度は、


ちゃんと聞き取れた。


去年は珍しい鳥の声だった。


今年は、


「ああ、春が来た。」


そう思える声になっていた。


リツカは空を見上げる。


澄んだ青空。


ゆっくり流れる白い雲。


その向こうで、


まだ見えない桜が、


静かに蕾を膨らませている。


「もうすぐですね。」


その言葉に、


奈緒も静かに頷いた。


「うん。」


「あと少し。」


二人は何も話さず、


春の風を感じていた。


春は急がない。


だからこそ、


待つ時間まで、


こんなにも愛おしいのだ。

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