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魔法をなくした薬師  作者: 灯野 しおん


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第三百六十六日目

三月に入ると、


朝の光は冬よりも少し早く障子を照らすようになった。


庭の梅は満開を迎え、


風が吹くたびに、ほのかな甘い香りが縁側まで流れてくる。


リツカは廊下を歩きながら、その香りに足を止めた。


「……いい匂い。」


ふと居間の襖が開いていることに気づく。


中をのぞいた瞬間、リツカの表情がやわらいだ。


「あ……。」


赤い毛氈。


七段に並ぶ雛人形。


金色の屏風。


桃の花。


去年と変わらない、春の景色。


けれど――。


「今年も、お会いできました。」


リツカは小さく頭を下げた。


その声を聞いて、飾りを整えていたフミが振り返る。


「覚えてたんだね。」


「もちろんです。」


リツカはお内裏様とお雛様を見つめながら微笑む。


「去年は、どうして人形を飾るのか分かりませんでした。」


「ひなあられも、菱餅も、全部初めてでした。」


「でも今年は……。」


少し照れくさそうに笑う。


「皆さんに会える日だと思いました。」


フミは思わず目を細める。


「そう言ってもらえると、お雛様も喜ぶね。」


その時。


「リツカー!」


元気な声とともに、みーちゃんが駆け込んできた。


「今年もちらし寿司作ろ!」


「はい。」


リツカは笑顔で頷く。


「今年は、れんこんも同じ大きさに切れると思います。」


一瞬、部屋が静かになり、


次の瞬間。


「あははは!」


奈緒が吹き出した。


「そこ覚えてたの?」


「はい。」


「去年、奈緒さんに『大きさが違ってもおいしいよ』と言われました。」


「……言ったなぁ。」


奈緒は頭をかきながら笑う。


「でも今年は、もっと上手になってるよ。」


台所には、春の色が並び始めていた。


れんこん。


にんじん。


しいたけ。


菜の花。


錦糸卵。


酢飯の湯気から立ちのぼる、やさしい香り。


リツカは包丁を持つ。


去年は少しぎこちなかった手つきも、今では自然だった。


一定の厚さで野菜を切り、


手際よく並べていく。


その様子を見ていたフミが、小さく頷いた。


「本当に上手になったね。」


「料理も、薬も。」


「暮らすことも。」


リツカは包丁を止め、


少しだけ考えてから微笑んだ。


「皆さんが教えてくださいました。」


「私は、一人では何も知りませんでしたから。」


奈緒は首を横に振る。


「違うよ。」


「リツカが一つずつ覚えてくれたんだ。」


「だから今がある。」


窓の外では、梅の花びらが一枚、風に乗って舞った。


リツカはその白い花びらを目で追いながら、静かにつぶやく。


「去年は、春が来ることがうれしかったです。」


「今年は……。」


少し言葉を探してから、続けた。


「また皆さんと、この日を迎えられたことがうれしいです。」


誰もすぐには答えなかった。


言葉がなくても、その気持ちはちゃんと伝わっていたから。


やがてフミが、いつもの穏やかな笑顔で言う。


「じゃあ来年も、一緒にちらし寿司を作ろうか。」


リツカは顔を上げる。


一年前なら、「来年」という言葉は遠い未来だった。


けれど今は違う。


自然に、その景色を思い描くことができる。


「はい。」


その返事は、とても静かで、


でも春の日差しのようにあたたかかった。


庭では梅が風に揺れている。


その枝先には、もう小さな若葉がのぞき始めていた。


季節はまた巡る。


同じようでいて、去年とは少し違う春が、


静かにこの町へやって来ていた。

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