第三百五十日目
二月も終わりに近づいた休日。
「今日は少し歩こうか。」
朝食のあと、
奈緒がそう言った。
「散歩ですか?」
「うん。」
「春を探しに。」
リツカは小さく首をかしげた。
「春は……探すものなのですか?」
奈緒は笑う。
「探そうと思うとね。」
「意外とあちこちに隠れてるんだ。」
◇
土手へ続く道を歩く。
空は淡い青色。
冬の高い空とは少し違う。
日差しも、
どこか柔らかくなっていた。
川では、
鴨たちがゆっくり流れに身を任せている。
風が吹く。
冷たい。
でも、
頬を撫でる風は、
少しだけ丸くなっていた。
「風が違います。」
リツカがぽつりと言う。
「分かる?」
奈緒は嬉しそうに振り返った。
「はい。」
「冬は空気だけでした。」
「でも今日は……。」
リツカは目を閉じる。
深く息を吸う。
「土の匂いがします。」
「草も。」
「少しだけ水の匂いも。」
奈緒は何も言わず、
静かに微笑んだ。
◇
その時だった。
「ホーホケキョ。」
どこからか、
澄んだ声が聞こえてくる。
リツカは足を止めた。
「……?」
もう一度。
「ホーホケキョ。」
「鳥ですね。」
「うん。」
「うぐいす。」
「春を知らせる鳥なんだ。」
リツカは辺りを見回す。
けれど姿は見えない。
「見つかりません。」
「声だけ聞こえることも多いんだ。」
奈緒が笑う。
「だから、
みんな耳で春を見つける。」
耳で春を見る。
不思議な言葉だった。
けれど、
少しだけ意味が分かった。
◇
さらに歩くと、
土手の斜面で、
みーちゃんがしゃがみ込んでいた。
「あっ!」
「リツカさん!」
「見つけたよ!」
小さな手が指差した先。
茶色い土の間から、
細い緑が何本も伸びている。
「これは?」
「つくし!」
みーちゃんは一本抜いて見せる。
帽子をかぶったような、
小さな姿。
リツカは思わず笑った。
「かわいいですね。」
「春の兵隊さんみたいです。」
「兵隊さん?」
奈緒が笑う。
「なるほど。」
「確かに先頭を歩いてるみたい。」
◇
その帰り道。
土手一面に、
黄色い花が揺れていた。
「菜の花だ。」
奈緒が言う。
風が吹くたび、
黄色い波がゆっくりと揺れる。
その景色を見て、
リツカは立ち止まった。
「世界が……。」
「明るくなっています。」
冬は、
白と茶色が多かった。
けれど今は、
黄色。
白。
淡い緑。
少しずつ、
色が増えていく。
「春ってね。」
フミが菜の花を見つめながら話す。
「ある朝突然来るんじゃない。」
「毎日少しずつ、
世界に色を足してくれるんだ。」
リツカは静かに頷いた。
桜は、
まだ咲いていない。
でも、
春はもう、
町じゅうに小さな色を置いて歩いている。
帰り道。
ハクが菜の花の匂いを嗅ぎ、
くしゃみをした。
「ふふっ。」
みーちゃんが笑う。
「ハクも春を見つけたね。」
リツカも笑った。
春は、
花だけではない。
風にも。
鳥の声にも。
土にも。
人の笑顔にも、
少しずつ訪れていた。
夕暮れ。
家へ戻ると、
縁側に西日が差し込んでいた。
その光は、
冬より少し長く庭を照らしている。
リツカは縁側へ腰を下ろし、
今日見つけた春を一つずつ思い返した。
梅。
福寿草。
ふきのとう。
うぐいす。
つくし。
菜の花。
そして、
みんなの笑顔。
「春は……。」
小さくつぶやく。
「探すものではなく、
気づくものなのかもしれません。」
その言葉を聞いた奈緒は、
湯のみを置きながら穏やかに笑った。
「うん。」
「リツカも、この町の春が分かるようになったね。」
リツカは少し照れながら笑う。
異世界で育った自分が、
この町の季節を感じられるようになった。
そのことが、
何よりもうれしかった。
庭の梅は、
もう半分ほど花を咲かせていた。
桜の季節まで、
あと少し。
その日を待つ時間さえ、
愛おしく思えた。




