第三百三十九日
立春を過ぎても、
朝の空気はまだ冷たかった。
けれど、
日差しだけは少しずつ変わってきていた。
縁側には、
柔らかな陽だまりができている。
ハクはそこで丸くなり、
気持ちよさそうに眠っていた。
「気持ちよさそうですね。」
リツカが頭をなでると、
ハクは目を細める。
「冬の終わりの陽だまりは特別だからね。」
フミがお盆を持って縁側へやって来た。
湯のみが二つ。
湯気の立つほうじ茶。
それから、
小さなお皿には甘く煮た金柑が添えられていた。
「金柑ですか。」
「風邪をひきにくくなるようにね。」
リツカは一つ口に入れる。
皮は少しほろ苦く、
中はとろりと甘い。
「冬と春が一緒にいる味です。」
フミは嬉しそうに笑った。
◇
「ちょっと庭へ行こうか。」
フミに誘われ、
二人は庭へ降りた。
梅の木には、
先日よりもたくさんの花が咲いていた。
白い花。
薄紅色の花。
甘い香りが、
冷たい風にそっと乗っている。
「でも、今日はこっち。」
フミが庭の隅を指差す。
「え……?」
リツカはしゃがみ込む。
落ち葉の間から、
小さな黄色い花が顔をのぞかせていた。
「咲いています……。」
雪が残る土の中から、
太陽を見上げるように花びらを広げている。
「福寿草。」
「春を知らせる花だよ。」
リツカはそっと手を近づけた。
花びらは、
朝日を受けて金色に輝いている。
「こんなに小さいのに……。」
「ちゃんと春を連れてくるんですね。」
フミはゆっくり頷いた。
「春ってね。」
「桜から始まるんじゃない。」
「こういう小さな花たちが、
順番にバトンを渡していくんだよ。」
◇
その帰り道。
畑のあぜ道を歩いていると、
リツカが立ち止まった。
「どうしたの?」
奈緒が振り返る。
リツカは地面を指差した。
「何か……出ています。」
枯れ草の間から、
丸く閉じた緑色の芽がいくつも顔を出していた。
「ああ。」
奈緒は笑う。
「ふきのとうだ。」
「これも食べられるんですか?」
「食べられるよ。」
「少し苦いけどね。」
「苦い……。」
リツカは興味深そうに見つめる。
薬草にも、
少し苦いものが多い。
「春の苦味にはね。」
フミが優しく続ける。
「冬の間に眠っていた体を起こしてくれるって、
昔から言われているんだ。」
リツカは小さく頷いた。
この国の人たちは、
季節を食べ、
季節を香りで感じ、
季節を花で迎える。
その暮らしが、
少しずつ好きになっていた。
◇
帰り道。
風が吹いた。
冷たい。
でも、
もう冬だけの風ではない。
土の匂い。
草の匂い。
遠くで鳴く鳥の声。
そして、
畑の向こうには、
黄色い菜の花がほんの少しだけ咲き始めていた。
リツカは立ち止まり、
ゆっくり微笑む。
「春は……。」
「歩いて来るのですね。」
奈緒も同じ景色を見つめながら、
静かに頷いた。
「うん。」
「急がず、
少しずつね。」
二人はまた歩き出す。
桜の季節まで、
あともう少し。
その道の途中にも、
たくさんの小さな春が待っていた。




