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魔法をなくした薬師  作者: 灯野 しおん


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第三百三十九日

立春を過ぎても、


朝の空気はまだ冷たかった。


けれど、


日差しだけは少しずつ変わってきていた。


縁側には、


柔らかな陽だまりができている。


ハクはそこで丸くなり、


気持ちよさそうに眠っていた。


「気持ちよさそうですね。」


リツカが頭をなでると、


ハクは目を細める。


「冬の終わりの陽だまりは特別だからね。」


フミがお盆を持って縁側へやって来た。


湯のみが二つ。


湯気の立つほうじ茶。


それから、


小さなお皿には甘く煮た金柑が添えられていた。


「金柑ですか。」


「風邪をひきにくくなるようにね。」


リツカは一つ口に入れる。


皮は少しほろ苦く、


中はとろりと甘い。


「冬と春が一緒にいる味です。」


フミは嬉しそうに笑った。



「ちょっと庭へ行こうか。」


フミに誘われ、


二人は庭へ降りた。


梅の木には、


先日よりもたくさんの花が咲いていた。


白い花。


薄紅色の花。


甘い香りが、


冷たい風にそっと乗っている。


「でも、今日はこっち。」


フミが庭の隅を指差す。


「え……?」


リツカはしゃがみ込む。


落ち葉の間から、


小さな黄色い花が顔をのぞかせていた。


「咲いています……。」


雪が残る土の中から、


太陽を見上げるように花びらを広げている。


「福寿草。」


「春を知らせる花だよ。」


リツカはそっと手を近づけた。


花びらは、


朝日を受けて金色に輝いている。


「こんなに小さいのに……。」


「ちゃんと春を連れてくるんですね。」


フミはゆっくり頷いた。


「春ってね。」


「桜から始まるんじゃない。」


「こういう小さな花たちが、


順番にバトンを渡していくんだよ。」



その帰り道。


畑のあぜ道を歩いていると、


リツカが立ち止まった。


「どうしたの?」


奈緒が振り返る。


リツカは地面を指差した。


「何か……出ています。」


枯れ草の間から、


丸く閉じた緑色の芽がいくつも顔を出していた。


「ああ。」


奈緒は笑う。


「ふきのとうだ。」


「これも食べられるんですか?」


「食べられるよ。」


「少し苦いけどね。」


「苦い……。」


リツカは興味深そうに見つめる。


薬草にも、


少し苦いものが多い。


「春の苦味にはね。」


フミが優しく続ける。


「冬の間に眠っていた体を起こしてくれるって、


昔から言われているんだ。」


リツカは小さく頷いた。


この国の人たちは、


季節を食べ、


季節を香りで感じ、


季節を花で迎える。


その暮らしが、


少しずつ好きになっていた。



帰り道。


風が吹いた。


冷たい。


でも、


もう冬だけの風ではない。


土の匂い。


草の匂い。


遠くで鳴く鳥の声。


そして、


畑の向こうには、


黄色い菜の花がほんの少しだけ咲き始めていた。


リツカは立ち止まり、


ゆっくり微笑む。


「春は……。」


「歩いて来るのですね。」


奈緒も同じ景色を見つめながら、


静かに頷いた。


「うん。」


「急がず、


少しずつね。」


二人はまた歩き出す。


桜の季節まで、


あともう少し。


その道の途中にも、


たくさんの小さな春が待っていた。

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