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魔法をなくした薬師  作者: 灯野 しおん


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第三百三十二日

二月。


立春を迎える前の日。


朝から台所では、


炒った大豆の香ばしい香りが漂っていた。


「今日はお豆の日ですか?」


籠いっぱいの豆を見て、


リツカが首をかしげる。


フミは豆を木升へ移しながら笑った。


「節分だからね。」


「一年の悪いものを追い払う日なんだよ。」


「悪いもの……。」


リツカは豆を一粒つまむ。


ころん、と丸い。


薬草の種にも少し似ていた。



昼過ぎ。


奈緒が買い物から帰ってきた。


紙袋の中から取り出したのは、


真っ赤な鬼のお面だった。


角が二本。


大きな口。


ぎょろりとした目。


「……!」


リツカは思わず一歩下がる。


「魔物ですか?」


奈緒は吹き出した。


「違う違う。」


「鬼のお面。」


「鬼……。」


「今日は鬼役が必要なんだ。」


その言葉を聞いたみーちゃんは、


満面の笑みで奈緒を指さした。


「今年もお兄ちゃん!」


「えっ、俺?」


「毎年だもん!」


「去年も一昨年も!」


フミまで笑って頷く。


「観念しなさい。」


奈緒は大きくため息をついた。


「はいはい……。」



夕方。


鬼のお面をかぶった奈緒が、


廊下の向こうから現れた。


「うおー!」


「悪い子はいないかー!」


……。


少し間が空く。


みーちゃんは大笑い。


フミも口元を押さえて笑っている。


けれど。


リツカだけは、


真剣な表情だった。


「奈緒さん。」


「どうした?」


「角が生えています。」


一瞬、


部屋が静まり返る。


次の瞬間。


「あはははは!」


みーちゃんが転げ回るほど笑い始めた。


奈緒もお面を押さえながら吹き出す。


「いや、本物じゃないから!」


リツカは不思議そうに首をかしげた。


「……そうなのですか。」



「それじゃ、始めるよ!」


フミが木升を手にする。


「鬼は外!」


「福は内!」


ぱらぱらぱらっ。


豆が廊下に跳ねる。


「鬼は外!」


「福は内!」


みーちゃんも元気いっぱいに豆をまく。


奈緒は鬼になりきって、


大げさに逃げ回った。


「やられたー!」


「強いー!」


家中に笑い声が響く。


その様子を見ていたリツカは、


そっと木升を受け取った。


豆を一粒握る。


奈緒の前へ歩いていく。


「鬼は……。」


少し考えてから、


ぽつりと尋ねた。


「鬼にも家族はいるのでしょうか。」


奈緒の動きが止まる。


みーちゃんも、


フミも、


思わずリツカを見る。


「もし、お腹が空いていたら……。」


リツカは木升の中の豆を見つめた。


「少し分けてあげてもいいのではないでしょうか。」


静かな沈黙。


そして。


フミが優しく笑った。


「リツカらしいね。」


奈緒もお面を外しながら笑う。


「本当に優しいな。」


リツカは少し慌てる。


「違うのです。」


「悪いことはいけません。」


「でも……。」


「お腹が空いていたら、


悲しい気持ちになると思って。」


フミは木升から豆を一粒取り、


リツカの手に乗せた。


「そうだね。」


「だから日本にはね。」


「鬼を追い払う日があっても、


鬼を憎む日じゃないんだよ。」


「悪い心や病気、


災いに『外へ出ていってね』ってお願いする日なんだ。」


「人を追い払う日じゃない。」


リツカはその言葉をゆっくり胸にしまった。


鬼は外。


福は内。


追い払うのは、


人ではなく、


悲しみや病。


それなら、


薬師の仕事も少し似ている。


病を外へ。


笑顔を内へ。


自然と笑みがこぼれた。


「鬼は外。」


リツカは優しく豆を投げる。


「福は内。」


その声は、


まるで誰かの幸せを祈るように穏やかだった。


豆をまき終えると、


ハクが床に転がった豆を興味津々で鼻先でつつく。


「ハク、それは食べすぎるとだめだよ。」


奈緒が慌てて抱き上げると、


みーちゃんが笑い転げた。


笑い声が満ちる家には、


もう鬼の居場所はなかった。


窓の外では、


夕暮れの空が少しだけ明るく感じられる。


明日は立春。


春はもう、


すぐそこまで来ていた。

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