第三百三十二日
二月。
立春を迎える前の日。
朝から台所では、
炒った大豆の香ばしい香りが漂っていた。
「今日はお豆の日ですか?」
籠いっぱいの豆を見て、
リツカが首をかしげる。
フミは豆を木升へ移しながら笑った。
「節分だからね。」
「一年の悪いものを追い払う日なんだよ。」
「悪いもの……。」
リツカは豆を一粒つまむ。
ころん、と丸い。
薬草の種にも少し似ていた。
◇
昼過ぎ。
奈緒が買い物から帰ってきた。
紙袋の中から取り出したのは、
真っ赤な鬼のお面だった。
角が二本。
大きな口。
ぎょろりとした目。
「……!」
リツカは思わず一歩下がる。
「魔物ですか?」
奈緒は吹き出した。
「違う違う。」
「鬼のお面。」
「鬼……。」
「今日は鬼役が必要なんだ。」
その言葉を聞いたみーちゃんは、
満面の笑みで奈緒を指さした。
「今年もお兄ちゃん!」
「えっ、俺?」
「毎年だもん!」
「去年も一昨年も!」
フミまで笑って頷く。
「観念しなさい。」
奈緒は大きくため息をついた。
「はいはい……。」
◇
夕方。
鬼のお面をかぶった奈緒が、
廊下の向こうから現れた。
「うおー!」
「悪い子はいないかー!」
……。
少し間が空く。
みーちゃんは大笑い。
フミも口元を押さえて笑っている。
けれど。
リツカだけは、
真剣な表情だった。
「奈緒さん。」
「どうした?」
「角が生えています。」
一瞬、
部屋が静まり返る。
次の瞬間。
「あはははは!」
みーちゃんが転げ回るほど笑い始めた。
奈緒もお面を押さえながら吹き出す。
「いや、本物じゃないから!」
リツカは不思議そうに首をかしげた。
「……そうなのですか。」
◇
「それじゃ、始めるよ!」
フミが木升を手にする。
「鬼は外!」
「福は内!」
ぱらぱらぱらっ。
豆が廊下に跳ねる。
「鬼は外!」
「福は内!」
みーちゃんも元気いっぱいに豆をまく。
奈緒は鬼になりきって、
大げさに逃げ回った。
「やられたー!」
「強いー!」
家中に笑い声が響く。
その様子を見ていたリツカは、
そっと木升を受け取った。
豆を一粒握る。
奈緒の前へ歩いていく。
「鬼は……。」
少し考えてから、
ぽつりと尋ねた。
「鬼にも家族はいるのでしょうか。」
奈緒の動きが止まる。
みーちゃんも、
フミも、
思わずリツカを見る。
「もし、お腹が空いていたら……。」
リツカは木升の中の豆を見つめた。
「少し分けてあげてもいいのではないでしょうか。」
静かな沈黙。
そして。
フミが優しく笑った。
「リツカらしいね。」
奈緒もお面を外しながら笑う。
「本当に優しいな。」
リツカは少し慌てる。
「違うのです。」
「悪いことはいけません。」
「でも……。」
「お腹が空いていたら、
悲しい気持ちになると思って。」
フミは木升から豆を一粒取り、
リツカの手に乗せた。
「そうだね。」
「だから日本にはね。」
「鬼を追い払う日があっても、
鬼を憎む日じゃないんだよ。」
「悪い心や病気、
災いに『外へ出ていってね』ってお願いする日なんだ。」
「人を追い払う日じゃない。」
リツカはその言葉をゆっくり胸にしまった。
鬼は外。
福は内。
追い払うのは、
人ではなく、
悲しみや病。
それなら、
薬師の仕事も少し似ている。
病を外へ。
笑顔を内へ。
自然と笑みがこぼれた。
「鬼は外。」
リツカは優しく豆を投げる。
「福は内。」
その声は、
まるで誰かの幸せを祈るように穏やかだった。
豆をまき終えると、
ハクが床に転がった豆を興味津々で鼻先でつつく。
「ハク、それは食べすぎるとだめだよ。」
奈緒が慌てて抱き上げると、
みーちゃんが笑い転げた。
笑い声が満ちる家には、
もう鬼の居場所はなかった。
窓の外では、
夕暮れの空が少しだけ明るく感じられる。
明日は立春。
春はもう、
すぐそこまで来ていた。




