第三百二十二日
どんど焼きから数日が過ぎた。
朝。
リツカはいつものように縁側で湯のみを両手に包んでいた。
今日は温かなほうじ茶。
湯気がゆらゆらと立ち上り、
冷えた空へ溶けていく。
庭では、
ハクが雪の残る場所をくんくんと嗅いでいた。
「まだ寒いですね。」
リツカが肩をすくめると、
フミが笑った。
「そうだねぇ。」
「でもね。」
「ちょっと庭を見てごらん。」
◇
リツカは庭へ降りた。
霜柱がまだ残る土。
吐く息は白い。
春なんて、
まだずっと先のように思える。
けれど。
「……あ。」
梅の木だった。
枝の先に、
小さな白い花が一輪だけ咲いている。
「咲いてる……。」
ほんの一輪。
それでも、
凛と空を見上げるように咲いていた。
「梅だよ。」
フミがゆっくり歩いてくる。
「桜よりずっと早く咲く花。」
リツカは花へ顔を近づけた。
ふわり。
やさしく甘い香りがした。
「いい香りです。」
「春の匂い……。」
フミは嬉しそうに頷く。
「梅はね。」
「寒い冬の中でも、
『もうすぐ春ですよ』って教えてくれる花なんだ。」
◇
リツカは空を見上げる。
雲はまだ冬の色。
風も冷たい。
けれど、
枝には小さな蕾がたくさん付いていた。
一輪だけではない。
みんな、
咲く日を待っている。
「桜に似ていますね。」
リツカが言う。
「似てるけど、
少し違うかな。」
奈緒も庭へ出てきた。
「桜はみんなで一斉に咲くでしょう?」
「梅はね。」
「一輪ずつ、
ゆっくり咲いていくんだ。」
リツカはもう一度、
その一輪を見つめた。
急がない。
競わない。
自分の時が来たら、
静かに咲く。
その姿は、
どこか薬草にも似ていた。
芽吹く時期は、
草それぞれ違う。
でも、
どの命にもちゃんと季節がある。
◇
その日の午後。
薬局へ向かう途中、
町のあちこちで梅を見かけた。
神社の境内。
公民館の庭。
学校の校門。
どれも、
まだ数輪だけ。
だからこそ、
見つけるたびに嬉しくなる。
「あっ。」
みーちゃんが走ってくる。
「リツカさん!」
「梅、見つけた!」
小さな手が指差す先にも、
赤い梅が咲いていた。
「本当ですね。」
二人で花を見上げる。
「桜もきれいだけど。」
みーちゃんが言う。
「私は梅も好き。」
「どうしてですか?」
「だってね。」
みーちゃんは笑った。
「一番最初に春を見つけた気がするから。」
その言葉に、
リツカは優しく微笑む。
一番最初に、
春を見つける。
それは、
花を見ることではなく、
季節を感じる心を見つけることなのかもしれない。
帰り道。
冷たい風が頬をなでる。
けれど、
その風はほんの少しだけ、
冬より柔らかくなっていた。
リツカは目を閉じ、
深く息を吸う。
「風の匂いが……。」
「変わりました。」
奈緒は隣で頷く。
「うん。」
「春はね。」
「いつも気づかないうちに近づいてくるんだ。」
リツカは空を見上げた。
春はまだ遠い。
でも、
もう迷ってはいない。
ちゃんと、
こちらへ歩いて来ている。
そのことが、
なんだかとても嬉しかった。




