第三百七日目
七草がゆを食べた数日後。
冬晴れだった。
雲ひとつない青空が、
どこまでも高く続いている。
庭で洗濯物を干していた奈緒が、
空を見上げて言った。
「今日は風があるね。」
その言葉を聞いたみーちゃんは、
ぱっと顔を輝かせた。
「凧揚げ!」
「おばあちゃん、凧出して!」
フミは笑いながら押し入れを開ける。
「まだあったかなぁ。」
奥から取り出したのは、
少し色あせた紙の凧だった。
竹ひごで組まれた骨組み。
赤い糸。
真ん中には、
力強い墨文字で『福』と書かれている。
「手作りですか?」
リツカが尋ねる。
「うん。」
「奈緒が小学生の頃に、
おじいちゃんと一緒に作ったんだよ。」
奈緒は少し照れながら笑う。
「まだ残ってたんだ。」
「大事にしまってあったからね。」
◇
近くの河川敷へ向かう。
冬の草は黄金色になり、
川面を渡る風が、
さらさらと枯れ草を揺らしていた。
「あっ!」
空には、
もう何枚もの凧が舞っている。
赤。
青。
白。
高い空を、
気持ちよさそうに泳いでいた。
「すごい……。」
リツカは思わず立ち止まる。
「あれは鳥ではないのですね。」
みーちゃんが笑った。
「凧だよ!」
「飛ばすんだよ!」
◇
糸を持つ。
「最初は走るよ。」
奈緒が凧を持って立つ。
「いい?」
「はい。」
「せーの!」
リツカは走り出した。
冬の風が頬を抜ける。
後ろから、
奈緒の声が聞こえた。
「今!」
ふわり。
凧が風を受ける。
一度大きく揺れ、
また落ちそうになる。
「そのまま!」
「走って!」
リツカは夢中で走った。
そして。
すうっ。
凧が、
空へ吸い込まれるように昇っていく。
「上がった!」
みーちゃんが飛び跳ねた。
リツカも足を止める。
手の中の糸が、
ぴんと張っている。
見上げる。
青い空の中で、
『福』の文字が風に揺れていた。
◇
「不思議です。」
リツカがぽつりと言う。
「何が?」
奈緒が隣に並ぶ。
「風は見えません。」
「でも……。」
糸を少し引く。
凧がふわりと向きを変えた。
「こうして空を見ると、
風がどこを流れているのか分かります。」
奈緒は少し驚いたあと、
穏やかに微笑んだ。
「本当だ。」
「風が見えてるみたい。」
リツカは空を見上げたまま続ける。
「薬も似ています。」
「薬そのものは小さいですが、
飲んだ人の笑顔を見ると、
ちゃんと届いたことが分かります。」
「風も、
薬も、
目には見えなくても、
誰かを支える力があるのですね。」
奈緒はその言葉を聞いて、
ゆっくりと頷いた。
「リツカらしい考え方だね。」
◇
しばらくすると、
みーちゃんが糸を持ちたがった。
「交代!」
「落とさないようにね。」
「大丈夫!」
元気よく返事をした次の瞬間。
ぶわっ。
突風が吹いた。
「あーーっ!」
凧は大きく左右へ揺れる。
「みーちゃん!」
「糸をゆるめて!」
奈緒が声をかける。
リツカもすぐに後ろから手を添えた。
「少しだけ力を抜いてください。」
「はい!」
糸がふっとゆるむ。
すると凧は再び風をつかみ、
安定して空へ戻っていった。
「飛んでる!」
「まだ飛んでる!」
みーちゃんは満面の笑みで空を見上げる。
その笑顔につられて、
みんなも笑った。
冬の青空に舞う一枚の凧。
それは、
新しい一年への願いを乗せるように、
どこまでも高く、
高く昇っていった。
帰り道。
川沿いの柳の枝が、
風にゆっくり揺れていた。
リツカは空を見上げ、
静かにつぶやく。
「春も、
この風に乗って来るのでしょうか。」
フミは隣で微笑んだ。
「そうだね。」
「もう少ししたら、
風の匂いも変わってくるよ。」
リツカは目を閉じ、
深く息を吸った。
今はまだ、
冬の澄んだ匂い。
でもその奥に、
ほんの少しだけ、
新しい季節の気配が混じり始めているような気がした。




