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魔法をなくした薬師  作者: 灯野 しおん


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第三百十日目

初日の出を見た翌日。


朝食を終えると、


フミが押し入れから長い箱を取り出した。


「今日はこれをやろう。」


箱の中には、


筆。


硯。


墨。


真っ白な半紙。


リツカは目を丸くした。


「これは……薬を調合する道具ではありませんね。」


フミは笑った。


「似てるけど違うね。」


「書き初めだよ。」



硯に少しだけ水を落とす。


墨をゆっくりと円を描くようにする。


しゃり……


しゃり……


静かな音が部屋に響く。


リツカはその手元をじっと見つめていた。


「急がないんですね。」


「うん。」


「墨はね。」


「ゆっくり磨る時間も大事なんだ。」


少しずつ、


透明だった水が黒く染まっていく。


その様子は、


薬草を乳鉢ですり潰す時間によく似ていた。


「香りも……。」


墨のほのかな香りが鼻をくすぐる。


どこか落ち着く匂いだった。



「今年の目標を一文字で書くんだ。」


奈緒が筆を持ちながら言う。


「私は『健』かな。」


「みんなが健康で過ごせますように。」


フミは少し考え、


笑顔で答えた。


「私は『和』。」


「家族も町も、


仲良く過ごせたらいいね。」


由美は、


「笑」と書いた。


「いっぱい笑いたいから。」


みーちゃんは胸を張る。


「私は『大』!」


「今年はいっぱい大きくなる!」


部屋中に笑いが広がる。



「リツカは?」


奈緒に尋ねられ、


リツカは筆を見つめた。


一文字。


たった一文字に、


一年の願いを込める。


異世界では、


そんな文化はなかった。


何を書こう。


「薬」だろうか。


「命」だろうか。


「優」だろうか。


どれも違う気がした。


ふと、


この一年の景色が胸に浮かぶ。


桜。


柏餅。


七夕。


花火。


ひまわり。


焼きいも。


雪。


こたつ。


年越しそば。


初日の出。


どの思い出にも、


誰かがいた。


一人ではなかった。


その時、


自然と一文字が心に浮かんだ。


「結」。


人と人を結ぶ。


心と心を結ぶ。


薬が命を結ぶ。


そして、


異世界から来た自分と、


この町を結んでくれた、


たくさんの縁。


リツカは静かに筆を持った。


深く息を吸う。


筆先が半紙に触れる。


すっ。


ゆっくりと線を引く。


止める。


払う。


一画ごとに、


心を込める。


やがて、


半紙の中央に、


大きく一文字が現れた。


「結」


少しだけ線は曲がっていた。


けれど、


まっすぐな気持ちが込められていた。


「いい字だね。」


フミが優しく言う。


奈緒も頷く。


「リツカらしい。」


リツカは少し照れながら笑った。


「この一年で、


私はたくさんの人と結ばれました。」


「だから今年は……。」


「私も誰かと誰かを結べる薬師になりたいです。」


部屋が静かになる。


奈緒はその言葉を聞き、


目を細めた。


「きっと、なれるよ。」


「もう少しずつ、


そういう薬師になってる。」


リツカはもう一度、


半紙の「結」を見つめた。


墨はまだ乾いていない。


けれど、


その願いは、


もう心の中へしっかりと刻まれていた。


障子の向こうでは、


冬のやわらかな陽射しが庭を照らしている。


新しい一年は、


ゆっくりと歩き始めたばかりだった。

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