第三百十日目
初日の出を見た翌日。
朝食を終えると、
フミが押し入れから長い箱を取り出した。
「今日はこれをやろう。」
箱の中には、
筆。
硯。
墨。
真っ白な半紙。
リツカは目を丸くした。
「これは……薬を調合する道具ではありませんね。」
フミは笑った。
「似てるけど違うね。」
「書き初めだよ。」
◇
硯に少しだけ水を落とす。
墨をゆっくりと円を描くようにする。
しゃり……
しゃり……
静かな音が部屋に響く。
リツカはその手元をじっと見つめていた。
「急がないんですね。」
「うん。」
「墨はね。」
「ゆっくり磨る時間も大事なんだ。」
少しずつ、
透明だった水が黒く染まっていく。
その様子は、
薬草を乳鉢ですり潰す時間によく似ていた。
「香りも……。」
墨のほのかな香りが鼻をくすぐる。
どこか落ち着く匂いだった。
◇
「今年の目標を一文字で書くんだ。」
奈緒が筆を持ちながら言う。
「私は『健』かな。」
「みんなが健康で過ごせますように。」
フミは少し考え、
笑顔で答えた。
「私は『和』。」
「家族も町も、
仲良く過ごせたらいいね。」
由美は、
「笑」と書いた。
「いっぱい笑いたいから。」
みーちゃんは胸を張る。
「私は『大』!」
「今年はいっぱい大きくなる!」
部屋中に笑いが広がる。
◇
「リツカは?」
奈緒に尋ねられ、
リツカは筆を見つめた。
一文字。
たった一文字に、
一年の願いを込める。
異世界では、
そんな文化はなかった。
何を書こう。
「薬」だろうか。
「命」だろうか。
「優」だろうか。
どれも違う気がした。
ふと、
この一年の景色が胸に浮かぶ。
桜。
柏餅。
七夕。
花火。
ひまわり。
焼きいも。
雪。
こたつ。
年越しそば。
初日の出。
どの思い出にも、
誰かがいた。
一人ではなかった。
その時、
自然と一文字が心に浮かんだ。
「結」。
人と人を結ぶ。
心と心を結ぶ。
薬が命を結ぶ。
そして、
異世界から来た自分と、
この町を結んでくれた、
たくさんの縁。
リツカは静かに筆を持った。
深く息を吸う。
筆先が半紙に触れる。
すっ。
ゆっくりと線を引く。
止める。
払う。
一画ごとに、
心を込める。
やがて、
半紙の中央に、
大きく一文字が現れた。
「結」
少しだけ線は曲がっていた。
けれど、
まっすぐな気持ちが込められていた。
「いい字だね。」
フミが優しく言う。
奈緒も頷く。
「リツカらしい。」
リツカは少し照れながら笑った。
「この一年で、
私はたくさんの人と結ばれました。」
「だから今年は……。」
「私も誰かと誰かを結べる薬師になりたいです。」
部屋が静かになる。
奈緒はその言葉を聞き、
目を細めた。
「きっと、なれるよ。」
「もう少しずつ、
そういう薬師になってる。」
リツカはもう一度、
半紙の「結」を見つめた。
墨はまだ乾いていない。
けれど、
その願いは、
もう心の中へしっかりと刻まれていた。
障子の向こうでは、
冬のやわらかな陽射しが庭を照らしている。
新しい一年は、
ゆっくりと歩き始めたばかりだった。




