第三百九日目③
まだ夜が明ける前。
「リツカ。」
奈緒の優しい声で目が覚めた。
障子の向こうは、
まだ薄暗い。
時計を見ると、
朝六時前だった。
「眠い?」
「……少しだけ。」
リツカが正直に答えると、
奈緒はくすりと笑う。
「私も。」
その一言に、
二人で顔を見合わせて笑った。
◇
温かい上着を羽織り、
手袋をはめる。
フミが魔法瓶に温かいほうじ茶を入れてくれた。
「寒くなるからね。」
「ありがとうございます。」
外へ出ると、
空気はきりりと冷えていた。
吐く息が、
白く夜空へ溶けていく。
町はまだ眠っている。
車も少なく、
聞こえるのは自分たちの足音だけ。
きゅっ。
きゅっ。
雪の残る道を踏みしめながら、
一行は近くの小高い丘へ向かった。
◇
丘の上には、
すでに何人かの人が集まっていた。
毛布にくるまる家族。
温かい缶コーヒーを手にするおじいさん。
子どもを肩車するお父さん。
誰も大きな声では話さない。
みんな、
東の空を見つめている。
リツカも、
その中に並んだ。
空はまだ濃い藍色。
けれど、
地平線の近くだけが、
ほんの少し橙色に染まり始めていた。
「始まるよ。」
奈緒が小さくつぶやく。
リツカは息をのんだ。
ゆっくり。
本当にゆっくりと、
空の色が変わっていく。
藍色が、
紫へ。
紫が、
桃色へ。
そして、
金色へ。
「空が……。」
「色を変えています。」
その声は、
驚きよりも感動に近かった。
◇
やがて。
地平線の向こうから、
小さな光が顔を出した。
ほんの少し。
それだけなのに、
世界が明るくなる。
「……。」
誰も話さない。
その場にいる全員が、
同じ朝を見つめていた。
太陽は少しずつ姿を現し、
冬の町を黄金色に染めていく。
雪も、
屋根も、
木々も、
やわらかな光をまとって輝いた。
「きれい……。」
リツカは、
それしか言えなかった。
異世界でも、
朝日は昇っていた。
けれど、
こんなふうに、
誰かと一緒に朝を待ったことはなかった。
太陽を見上げる人々。
笑顔。
静かな祈り。
そのすべてが、
新しい一年を迎える儀式のようだった。
◇
「はい。」
フミが紙コップを差し出す。
温かなほうじ茶。
両手で包むと、
指先まで熱が伝わってくる。
一口飲む。
香ばしい香りが、
冷えた体へゆっくり染み渡った。
「おいしいです。」
奈緒も同じようにお茶を飲みながら、
太陽を見つめる。
「毎年見てるのにね。」
「毎年違って見えるんだ。」
リツカは頷いた。
きっと来年も、
同じ太陽が昇る。
でも、
自分は今日とは違う。
今日という日を生きた分だけ、
少しだけ変わっている。
それは、
桜を見た春も、
ひまわりが咲いた夏も、
焼きいもを囲んだ秋も、
雪で笑った冬も、
全部同じだった。
季節は巡る。
けれど、
人は同じ場所には戻らない。
一歩ずつ、
前へ進んでいく。
リツカは、
昇りきった太陽へ向かって、
胸の中でそっとつぶやいた。
「今年も……。」
「たくさんの人を、
笑顔にできますように。」
その願いは、
薬師としての願いであり、
一人の人間としての願いでもあった。
丘を吹き抜ける朝の風は冷たい。
それでも、
太陽の光は確かに温かかった。
新しい一年が、
静かに動き始める。




