第三百八日目②
夜十一時を過ぎる頃。
「そろそろ行こうか。」
奈緒が立ち上がった。
みんなは厚手の上着を羽織り、
毛糸の帽子や手袋を身につける。
リツカも、
フミが編んでくれたマフラーを首に巻いた。
ふんわりとした毛糸は、
首元を優しく包み込む。
「似合ってるよ。」
フミが微笑む。
リツカは少し照れくさそうに、
「ありがとうございます。」
と頭を下げた。
玄関の戸を開ける。
ひゅう――。
冷たい夜風が頬をなでた。
昼間に積もっていた雪は、
道の端にまだ少し残っている。
踏みしめるたび、
きゅっ、
きゅっ、
と小さな音が響いた。
町は静かだった。
いつもの商店街も灯りを落とし、
家々の窓からだけ、
やわらかな明かりが漏れている。
「あれ?」
みーちゃんが空を見上げる。
「今日はお星さまがいっぱい。」
リツカも足を止めた。
夜空には、
無数の星。
冬の澄んだ空気が、
星の光を一つひとつ際立たせている。
「きれい……。」
思わず息をのむ。
異世界でも星は見てきた。
けれど、
この世界の星空には、
家へ帰る人々の灯りが寄り添っている。
それが、
どこか温かく感じられた。
「冬は空気が澄むからね。」
奈緒が空を見上げる。
「星が近く見えるんだ。」
しばらく誰も話さなかった。
ただ、
白い息だけが夜空へ昇っていく。
◇
坂道を登ると、
小さなお寺が見えてきた。
境内には、
すでに何人もの人が集まっている。
子どもたちも、
お年寄りも、
みんな静かな表情だった。
「こんばんは。」
「こんばんは。」
自然に交わされる挨拶。
賑やかなのに、
不思議と落ち着いた空気が流れている。
やがて、
住職が鐘楼へ姿を現した。
太い綱を手に取り、
静かに一礼する。
ごぉぉん……。
深く、
大きな音が夜空へ広がった。
リツカは思わず目を閉じる。
鐘の音は、
耳だけではなく、
胸の奥まで響いてくる。
長く、
長く余韻を残しながら、
冬の夜へ溶けていった。
「……。」
誰も言葉を発しない。
静寂の中で、
二つ目の鐘が鳴る。
ごぉぉん……。
「どうして百八つ鳴らすのですか。」
小さな声で尋ねる。
フミもまた、
小さな声で答えた。
「人の心にはね。」
「百八つの煩悩があるって言われているんだよ。」
「その鐘を聞いて、
一年の間に心へ積もったものを、
少しずつ手放して、
新しい年を迎えるんだ。」
リツカは、
もう一度鐘の音へ耳を澄ませた。
悲しかったこと。
迷ったこと。
寂しかったこと。
鐘の音は、
それらを責めることなく、
静かに包み込んでいるようだった。
ふと、
この世界へ来た日のことを思い出す。
知らない景色。
知らない人々。
不安でいっぱいだった毎日。
それでも、
奈緒たちと出会い、
笑い、
泣き、
季節を重ねてきた。
春の桜。
夏のひまわり。
秋の焼きいも。
冬の雪だるま。
その一つひとつが、
胸の中でやさしく光っている。
三十回目の鐘が鳴った頃、
みーちゃんがそっとリツカの手を握った。
「寒い?」
「いいえ。」
リツカは微笑む。
「温かいです。」
それは、
手袋のおかげでも、
マフラーのおかげでもなかった。
隣に誰かがいる。
その温もりだった。
やがて、
最後の鐘が近づく。
境内の人々は、
静かに夜空を見上げていた。
遠くで時計が、
新しい年を迎えようとしている。
奈緒が穏やかに言う。
「鐘が終わったら、
みんなで神社へ行こう。」
「新しい一年の、
最初のお参り。」
リツカは静かに頷いた。
夜空には、
冬の星が変わらず瞬いている。
その光は、
去年も、
今年も、
そして来年も、
きっと同じように人々を見守り続けるのだろう。




