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魔法をなくした薬師  作者: 灯野 しおん


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第三百八日目

大晦日。


朝から町は、


いつもより少し静かだった。


商店街も昼過ぎには店を閉め始め、


「良いお年を」という言葉があちらこちらで交わされる。


薬局も、


午前中で仕事を終えた。


最後の患者さんを見送ると、


奈緒は深く一礼する。


「今年もありがとうございました。」


患者さんも笑顔で頭を下げた。


「こちらこそ。


来年もよろしくね。」


そのやり取りを見て、


リツカは胸が温かくなる。


別れの言葉なのに、


また会う約束でもある。


そんな挨拶だった。



夕暮れ。


台所から、


だしの香りが漂ってくる。


昆布と鰹節の、


やさしい香り。


「いい匂いですね。」


リツカが鍋をのぞき込むと、


フミがにっこり笑った。


「今日は年越しそばだからね。」


奈緒はまな板の上で、


白ねぎを細く刻んでいる。


とん、とん、とん。


心地よい包丁の音が、


静かな家に響く。


「私も何かお手伝いします。」


「じゃあ、このかまぼこを並べてくれる?」


赤と白のかまぼこを、


一枚ずつ丁寧に器へ盛り付ける。


「紅白には、


おめでたい意味があるんだよ。」


「色にも意味があるのですね。」


日本には、


意味のあるものがたくさんある。


それがリツカには、


とても愛おしく思えた。



やがて、


湯気を立てるそばが食卓に並んだ。


刻みねぎ。


かまぼこ。


ほうれん草。


そして、


黄金色に透き通るだし。


「いただきます。」


みんなで手を合わせる。


リツカは箸でそばを持ち上げた。


長い。


思わず目を丸くする。


「切らずに食べるのですか?」


みーちゃんが笑う。


「途中で噛んでも大丈夫だよ。」


「そうではなくて……。」


リツカは少し首をかしげる。


「どうして今日のお料理は、


こんなに長いのでしょう。」


奈緒は湯気の向こうで微笑んだ。


「長く元気に暮らせますように、って願いがあるんだ。」


「それからね。」


フミが続ける。


「一年の苦労や悲しいことを、


すっぱり断ち切って、


新しい年を迎えるって意味もあるんだよ。」


リツカは一本のそばを見つめた。


一本の麺に、


そんな願いが込められている。


この国では、


食べることも祈りになるのだ。



一口、


そばをすする。


つるり。


のどを通る心地よい食感。


だしの香りが、


ふわりと広がる。


「おいしい……。」


自然と笑みがこぼれる。


春には柏餅を食べた。


夏には冷えたトマトをかじった。


秋には焼きいもを分け合った。


そして冬には、


年越しそば。


季節ごとに、


食べるものが違う。


そのたびに、


思い出が一つ増えていく。



食事を終えると、


温かい緑茶が配られた。


テレビからは、


一年を振り返る番組が流れている。


みーちゃんは、


こたつの中でうとうとし始めた。


ハクも丸くなって眠っている。


「もう少ししたら、


鐘を聞きに行こうか。」


奈緒が時計を見る。


「鐘……?」


「百八つ鳴るんだよ。」


「お寺の鐘。」


リツカは静かに頷いた。


今年最後の夜。


外は冷えている。


けれど、


こたつの中はぽかぽかと暖かい。


湯飲みから立ち上る湯気を見つめながら、


リツカはこの一年を思い返した。


桜。


七夕。


花火。


ひまわり。


焼きいも。


雪。


どの景色にも、


誰かの笑顔があった。


この世界へ来たばかりの頃、


自分は一人だった。


けれど今は違う。


笑い合える人がいて、


「おかえり」と言ってくれる家がある。


リツカはそっと湯飲みを包み込み、


小さく微笑んだ。


「今年も……。」


誰に向けた言葉でもなく、


静かにつぶやく。


「ありがとうございました。」


その声は、


温かな部屋の中で、


優しく溶けていった。


やがて時計の針は、


夜更けへと近づいていく。


遠くから、


かすかに寺の鐘を準備する音が聞こえてきた。


新しい年まで、


あと少し。

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