第三百八日目
大晦日。
朝から町は、
いつもより少し静かだった。
商店街も昼過ぎには店を閉め始め、
「良いお年を」という言葉があちらこちらで交わされる。
薬局も、
午前中で仕事を終えた。
最後の患者さんを見送ると、
奈緒は深く一礼する。
「今年もありがとうございました。」
患者さんも笑顔で頭を下げた。
「こちらこそ。
来年もよろしくね。」
そのやり取りを見て、
リツカは胸が温かくなる。
別れの言葉なのに、
また会う約束でもある。
そんな挨拶だった。
◇
夕暮れ。
台所から、
だしの香りが漂ってくる。
昆布と鰹節の、
やさしい香り。
「いい匂いですね。」
リツカが鍋をのぞき込むと、
フミがにっこり笑った。
「今日は年越しそばだからね。」
奈緒はまな板の上で、
白ねぎを細く刻んでいる。
とん、とん、とん。
心地よい包丁の音が、
静かな家に響く。
「私も何かお手伝いします。」
「じゃあ、このかまぼこを並べてくれる?」
赤と白のかまぼこを、
一枚ずつ丁寧に器へ盛り付ける。
「紅白には、
おめでたい意味があるんだよ。」
「色にも意味があるのですね。」
日本には、
意味のあるものがたくさんある。
それがリツカには、
とても愛おしく思えた。
◇
やがて、
湯気を立てるそばが食卓に並んだ。
刻みねぎ。
かまぼこ。
ほうれん草。
そして、
黄金色に透き通るだし。
「いただきます。」
みんなで手を合わせる。
リツカは箸でそばを持ち上げた。
長い。
思わず目を丸くする。
「切らずに食べるのですか?」
みーちゃんが笑う。
「途中で噛んでも大丈夫だよ。」
「そうではなくて……。」
リツカは少し首をかしげる。
「どうして今日のお料理は、
こんなに長いのでしょう。」
奈緒は湯気の向こうで微笑んだ。
「長く元気に暮らせますように、って願いがあるんだ。」
「それからね。」
フミが続ける。
「一年の苦労や悲しいことを、
すっぱり断ち切って、
新しい年を迎えるって意味もあるんだよ。」
リツカは一本のそばを見つめた。
一本の麺に、
そんな願いが込められている。
この国では、
食べることも祈りになるのだ。
◇
一口、
そばをすする。
つるり。
のどを通る心地よい食感。
だしの香りが、
ふわりと広がる。
「おいしい……。」
自然と笑みがこぼれる。
春には柏餅を食べた。
夏には冷えたトマトをかじった。
秋には焼きいもを分け合った。
そして冬には、
年越しそば。
季節ごとに、
食べるものが違う。
そのたびに、
思い出が一つ増えていく。
◇
食事を終えると、
温かい緑茶が配られた。
テレビからは、
一年を振り返る番組が流れている。
みーちゃんは、
こたつの中でうとうとし始めた。
ハクも丸くなって眠っている。
「もう少ししたら、
鐘を聞きに行こうか。」
奈緒が時計を見る。
「鐘……?」
「百八つ鳴るんだよ。」
「お寺の鐘。」
リツカは静かに頷いた。
今年最後の夜。
外は冷えている。
けれど、
こたつの中はぽかぽかと暖かい。
湯飲みから立ち上る湯気を見つめながら、
リツカはこの一年を思い返した。
桜。
七夕。
花火。
ひまわり。
焼きいも。
雪。
どの景色にも、
誰かの笑顔があった。
この世界へ来たばかりの頃、
自分は一人だった。
けれど今は違う。
笑い合える人がいて、
「おかえり」と言ってくれる家がある。
リツカはそっと湯飲みを包み込み、
小さく微笑んだ。
「今年も……。」
誰に向けた言葉でもなく、
静かにつぶやく。
「ありがとうございました。」
その声は、
温かな部屋の中で、
優しく溶けていった。
やがて時計の針は、
夜更けへと近づいていく。
遠くから、
かすかに寺の鐘を準備する音が聞こえてきた。
新しい年まで、
あと少し。




