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独立短編連作『遥か』  作者: リフェリア


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届かない宛先

この連載は、同じ「遥か」という題から生まれた独立短編連作です。

各話ごとに登場人物・設定は異なり、この話だけでも読める形になっています。


第三話は、もう会えない相手へ向けて、ようやく育った言葉の話です。

お読みいただけましたら幸いです。


 娘を初めて腕に抱いたとき、嬉しいより先に、怖いと思った。


 小さい。軽い。温かい。


 こんなにも頼りないのに、ちゃんと息をしていて、時々ぴくりと指を動かす。そのひとつひとつが、壊れ物みたいに見えた。


 抱き方が合っているのかも分からないまま、私はぎこちなく娘を胸に引き寄せた。泣かせたらどうしよう。苦しかったらどうしよう。熱があったら、ちゃんと気づけるだろうか。


 夫がいてすら、こんなに怖い。


 そう思った瞬間、胸の奥で何かが音もなくひび割れた。


 お母さん。


 あのとき、あなたはたった一人だったんだね。


 病室は静かだった。カーテンの隙間から差し込む午後の光が白く、消毒液の匂いがかすかに漂っている。夫は出生届に必要な書類を取りに、一度家へ戻っていた。


 今この部屋にいるのは、私と娘だけだった。


 小さな顔を見つめているうちに、ふいに、ずっと忘れていた母の言葉を思い出した。


 保育園の帰り道だった。


 赤い帽子をかぶって、黄色い通園バッグを肩にかけて、私は母の自転車の後ろに乗っていた。前の家の子にはお父さんがいて、迎えに来ていた。隣のクラスの子も、お父さんと手をつないで帰っていた。


 どうして私にはお父さんがおらんの。

 お父さんはどこにおるの。


 私はきっと、責めるみたいにそう訊いた。


 母はすぐには答えなかった。信号待ちのあいだ前を向いたまま黙っていて、青に変わって自転車をこぎ出してから、小さな声で言った。


「生まれる前はな、正直、どうしたらいいか分からんかった」


 その声の感じまで、今になってありありと思い出せる。


「一人で育てる覚悟もなかったし、産むって決める勇気も、ほんとはなかった。ずっと怖かった」


 母は一度だけ、困ったように笑った。


「でもな、生まれてきたあんたの顔を見たら、涙が出たんよ。私だけでも、この子が生まれてきたことを祝ってあげたいと思った。私だけでも、この子を守ってあげたいって思ったんよ」


 あのときの私は、たぶん半分も分かっていなかった。


 ふうん、とか、そうなん、とか、その程度の返事をしただけだった気がする。母の言葉より、友達のお父さんの方が気になっていた。なんでうちだけ違うのだろう、そればかり考えていた。


 どうして忘れていたんだろう。


 どうして、あんな大事な言葉を、こんなになるまで思い出せなかったんだろう。


 娘が小さく口を動かした。私は慌てて抱き直す。その小さな重みが、胸の奥にまっすぐ落ちてくる。


 怖い。

 守りたい。

 この子が生まれてきたことを、ちゃんと祝ってあげたい。


 その気持ちが一度に押し寄せてきて、私は息を飲んだ。


 お母さん。


 あのとき、あなたもこれを全部、一人で抱えたんだね。


 私の父になるはずだった人は、母が妊娠したと分かった途端、いなくなったらしい。逃げたのか、捨てたのか、最初からその程度の人だったのか、私は詳しく知らない。母もほとんど話さなかった。ただ、「どこにおるか分からん」とだけ言っていた。


 母子家庭だった。


 当然みたいに貧しかった。


 子どもの頃の記憶の中で、家はいつも少し寒かった。冬はストーブの灯油を節約していて、私たちはこたつに足を突っ込んでいた。母はよく「お母さんは寒くないから」と言って、自分だけ上着を着込んで台所に立っていた。


 今なら分かる。あれは本当に寒くなかったんじゃない。


 でも、子どもの私はそんなこと考えもしなかった。


 私はいつも、持っていないものばかり見ていた。


 あの子はこれを持っている。

 この子はあれを持っている。

 どうして私は持ってないの。

 どうしてうちは買ってくれないの。

 どうしてうちだけ違うの。


 母に向かって、何度もそんなことを言った。


 流行りのおもちゃも、かわいい服も、クラスで流行っている文房具も、母はすぐには買えなかった。給料日まで待ってとか、今月はちょっと厳しいからとか、もう少ししたらねとか、そういう言葉ばかりだった。


 そして、やっと買ってもらえた頃には、たいていブームは終わりかけていた。


 みんながもう別のものに夢中になっている頃に、少し遅れて私の手元へやって来る。


 そのたびに私は、嬉しいより先にみじめさを感じた。


「今さらいらん」


 そんなことを言ったことも、一度や二度じゃない。


 母は怒らなかった。


 困ったように笑って、「ごめんね、遅くなって」と言うだけだった。


 今なら分かる。


 働いて、働いて、自分の食事を削ってでもお金を貯めて、やっと買ったものだったのだと。


 あのときの母は、どんな気持ちだったんだろう。


 今になって考えるたび、胸の奥が痛くなる。


 それでも母は働き続けた。


 朝早くから仕事に行って、帰ってきたら疲れているはずなのに、ご飯を作って、洗濯をして、私の宿題を見てくれた。熱を出せばおでこに手を当てて、遠足の日には少ないおかずを工夫して弁当箱を埋めてくれた。


 私が持っていないものばかり数えているあいだ、母は、私が失わないように必死で守ってくれていたのだ。


 そんな母は、居眠り運転の事故で死んだ。


 過労だった、と大人たちは言った。


 夜遅くまで働いた帰りだったらしい。


 私には、その説明がずっと理解できなかった。


 どうして帰ってこんの。

 どうして電話に出んの。

 どうして起きんの。


 棺の中の母の顔は変に綺麗で、知らない人みたいだった。


 母がいなくなるということがどういうことか、本当に分かったのはその後だった。


 頼れる親戚はいなかった。私は施設に入った。


 朝起こしてくれる人がいなくなった。帰ったときに「おかえり」と言ってくれる人がいなくなった。熱を出した夜に、黙っておでこに手を当ててくれる人がいなくなった。


 そこで初めて私は、自分がどれだけ母に守られていたかを知った。


 でも、知ったときにはもう遅かった。


 高校までは卒業できた。けれど大学へ行く余裕はなくて、そのまま働き始めた。


 正直、つらかった。


 成人式の頃、同級生たちが振袖姿の写真を上げているのを見た。綺麗だなと思った。似合ってるなと思った。おめでとう、とも思った。


 でも同時に、どうして私は違うのだろうとも思った。


 振袖を選んでくれる母もいない。前撮りの予定を一緒に立ててくれる人もいない。髪型を見て、綺麗だよと言ってくれる人もいない。


 そんな当たり前みたいなことが、自分には一つもないのだと知ったとき、私は何度も、心の中で母に恨み言を言った。


 どうして死んだの。

 どうして私を置いていったの。

 どうして私だけ。


 あれは恨みじゃなく、行き場のない寂しさだったのかもしれない。でも、その形はたしかに母に向いていた。


 お母さん、ごめんね。


 今さらそんなことを思う。


 生きているあいだ、あんなにひどいことを言った。いなくなってからも、何度も心の中で責めた。


 それでも母は、たぶん、私が幸せになることしか願っていなかった。


 娘が腕の中でかすかに身じろぎした。


 私はその背中を、こわごわと撫でた。触れた瞬間、胸の奥がぐしゃぐしゃになった。


 この子を失いたくない。

 この子に、寂しい思いをさせたくない。

 この子が生まれてきたことを、心から祝ってあげたい。


 そんな気持ちが、一気に押し寄せる。


 夫がいてくれる私ですら、こんなに不安なのに。


 夜中に熱を出したらどうしよう。ちゃんと飲んでくれなかったらどうしよう。抱き方が悪くて苦しかったらどうしよう。傷つけてしまったらどうしよう。


 こんなに怖いのに。


 お母さん、あなたはたった一人で、私を産んで、育ててくれたんだね。


 どうして、忘れていたんだろう。


 どうして私は、あんなにあなたに辛く当たってしまったんだろう。


 病室のサイドテーブルの引き出しに、私は一枚だけ写真を入れていた。母の写真だ。古いアルバムから抜いた、少し色褪せたもの。近所の祭りで撮った写真で、母は普段着のまま笑っている。


 私は娘をそっとベッドに寝かせてから、その写真を取り出した。


 写真の中の母は、今の私より若かった。


 それに気づいた途端、たまらなくなった。


 母は最初から母だったわけじゃない。私と同じように、若くて、不安で、完璧でもなくて、それでも一人で赤ん坊を抱いて、怖くて、それでも守ろうとしていた時間があったのだ。


「お母さん……」


 声に出した瞬間、涙が落ちた。


「お母さん」


 そこから先は、もう止まらなかった。


 私は写真を胸に押し当てるみたいに握って、声を殺して泣いた。


 お母さん。

 お母さん、ごめんなさい。


 私、ひどい娘やった。

 あの子はこれを持ってる、この子はあれを持ってるって、あなたにばっかり当たって。

 どうしてうちは貧乏なんって。

 どうしてお父さんがおらんのって。

 どうして何も持ってないのって。


 あなたが一番つらかったはずなのに。


 遅れて買ってくれたもの、ちゃんとありがとうも言えんかった。

 「今さらいらん」なんて言って、ごめんなさい。

 ほんとは嬉しかったこともあったのに、意地を張って、ごめんなさい。


 施設に入ってからも、何度も恨んで、ごめんなさい。

 成人式の頃、どうして死んだのって思って、ごめんなさい。

 置いていかれたって、何度も思って、ごめんなさい。


 でも、本当はずっと会いたかった。

 ずっと、会いたかったんよ。


 お母さん。


 ありがとうって言いたい。

 ごめんなさいって言いたい。


 夫がいてすら、私はこんなに不安になる。

 ちゃんと育てられるだろうかって怖くなる。

 なのにあなたは、一人で私を産んで、一人で育ててくれた。


 お母さん。

 私だけでも、この子の誕生を祝ってあげたい。

 私だけでも、この子を守ってあげたい。


 そう言ったあなたの気持ちが、今になってやっと分かる。


 どうして、そのときの私は分からなかったんだろう。

 どうして、忘れてしまっていたんだろう。


 お母さん。


 会いたいよ。


 病室の中は静かなままだった。泣き声を堪えようとしても、肩が震えた。娘が起きてしまわないように、私は口元を押さえて、必死に息を整えた。


 ふと、書かなければいけない気がした。


 言葉にしないと、もう二度と伝えられない気がした。


 私はメモ帳とボールペンを取った。手が震えて、最初の一文字を書くまでに時間がかかった。


『お母さんへ』


 それだけ書いて、もう涙で字が滲んだ。


 それでも少しずつ書いた。


『今日、娘が生まれました』


『抱いたら、嬉しいより先に怖かったです』


『夫がいても怖いのに、お母さんは一人だったんだね』


『あのとき言ってくれたことを、今日やっと思い出しました』


 そこで一度、涙を拭った。


『私だけでも、この子の誕生を祝ってあげたい』

『私だけでも、この子を守ってあげたい』


 その言葉を書いただけで、また涙が落ちた。


『お母さん、あのときの私は何も分かっていませんでした』

『ひどいことをたくさん言って、ごめんなさい』

『いなくなってからも、何度も恨んで、ごめんなさい』

『でも、本当はずっと会いたかったです』


 字はかなり乱れていた。


『ありがとう』

『ごめんなさい』

『会いたいです』


 最後に、私はペンを握り直して、一行だけ書き足した。


『あなたが私にしてくれたことを、今度は私がこの子にしていきます』


 書き終えたところで、娘がふにゃりと泣いた。


 私は慌ててメモ帳を閉じ、娘を抱き上げた。さっきより少しだけ、抱き方が分かった気がした。背中に手を添えて、頭を支えて、胸の近くへ引き寄せる。


 娘はしばらくもぞもぞしてから、やがて私の腕の中で静かになった。


 その小さな体温を感じながら、私は思った。


 届かない宛先へ向けた言葉でも、無意味じゃないのかもしれない。


 返事は来ない。もう会えない。遅すぎる。


 それでも、母が私にくれたものは、たしかに今ここに残っている。雨の日の迎えも、少ないおかずの工夫も、遅れて買ってくれたものも、眠い目をこすりながら働いていた背中も、全部、私の中に残っている。


 だから私は今、この子を抱いている。


 だから私は今、守りたいと思えている。


 母から私へ来たものが、今度は私から娘へ流れていく。


 そのことだけが、返事の代わりみたいに思えた。


 春の光が、病室の白いシーツの上でゆっくり傾いていく。


 私は娘の髪にそっと頬を寄せた。


 お母さん。


 ありがとう。

 ごめんなさい。

 会いたいよ。


 そのどれももう届かないはずなのに、腕の中のぬくもりだけが、静かに、たしかに受け取ってくれている気がした。


ここまでお読みいただき、ありがとうございました。


第三話は、遅れて育つ感謝と、もう返せない後悔の話でした。

届かない言葉でも、誰かから受け取ったものは別のかたちで残っていくのかもしれません。


次話も独立した短編ですが、また別の「遥か」を描きます。

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