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独立短編連作『遥か』  作者: リフェリア


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夜明け前の巣立ち

この連載は、同じ「遥か」という題から生まれた独立短編連作です。

各話ごとに登場人物・設定は異なり、この話だけでも読める形になっています。


二作目は『旅立ちによく似た逃避の話』です。

お読みいただけましたら幸いです。

 目が覚めた瞬間、私はまず耳を澄ませた。


 廊下のきしむ音はしない。台所で食器の触れ合う音も、居間のテレビの音もない。まだ家の中は眠っている。そう確かめてから、ようやく布団の中で小さく息を吐いた。


 枕元の時計は四時二十一分を指していた。アラームが鳴るより少し早い。


 今日、この家を出る。


 何週間も前から決まっていたことなのに、その朝になっても実感はぼんやりしていた。ただ、胸の奥に硬い塊みたいなものがひとつあって、それだけが起きたときからずっと重かった。


 私はそっと起き上がった。カーテンの向こうはまだ暗く、部屋の隅に積んだ段ボールだけが、うっすらとした影になって見えた。


 二十四年住んだ部屋のくせに、もう自分の部屋ではないみたいだった。


 昨夜のうちに荷造りはほとんど終えてある。服、本、仕事の資料、化粧品、通帳、印鑑。生活に必要なものを詰めていったら、驚くほど少なかった。反対に、この部屋に残していくものの方がずっと多い。


 家具とか、古い雑誌とか、使わなくなったマグカップとか、そういう目に見えるものだけじゃない。ここで「いい娘」でいた時間の方が、よほど大きな場所を取っている気がした。


 私は床に置いたボストンバッグの口をもう一度確かめた。歯ブラシ、充電器、財布、鍵、通帳。何度も確認したものばかりなのに、また見る。忘れ物が怖いんじゃない。何かひとつでも不備があれば、それを理由に何か言われる気がするのだ。


 そんなこと、母はたぶん思っていない。


 それでも私は、昔からそうやって生きてきた。


 洗面所へ向かう廊下を歩きながら、私は自然に足音を殺していた。深夜に帰ってきたときだけじゃない。朝起きるときも、トイレに行くときも、台所で水を飲むときも、だいたい私は家の空気をうかがってから動いていた。


 母の機嫌は、天気みたいなものだった。


 分かりやすく怒鳴るわけじゃない。物を投げたり、露骨に責めたりするわけでもない。普通の日の母は、よく喋って、よく笑って、よく世話を焼く人だった。近所の人に会えば愛想よく挨拶をして、私の職場の話を聞いては「大変やねえ」と相槌を打つ。人から見れば、よくできた母親だったと思う。


 ただ、機嫌を損ねると空気が変わった。


 返事が少し遅くなる。食器を置く音が少し強くなる。こちらを見ない。ため息が増える。何も言わないまま、傷ついた人の顔をして黙る。


 その「何も言わない」が、私は昔から苦手だった。


 中学のとき、友達と帰りに寄り道をして、いつもより三十分ほど帰るのが遅くなったことがある。家に着いたとき、母は怒っていなかった。ただ、「心配したんやけど」と静かに言っただけだった。その言い方が怖くて、私は何度も謝った。母は「別に怒ってないよ」と言いながら、その晩はほとんど喋らなかった。


 怒られた方がまだ楽だったと、その頃から思っていた。


 怒られるなら、何を悪いと思えばいいのか分かる。でも母は、悲しそうな顔をして黙る。私はそのたびに、自分がどれだけひどいことをしたのかを勝手に大きく想像して、勝手に怯えた。


 たぶん今でも、私はその延長線上にいる。


 洗面所の鏡に映る自分は、青白くて、ひどく頼りなく見えた。二十四にもなって、家を出るだけでこんな顔をしているのかと、自分で自分が情けなくなる。


 顔を洗っていると、もうひとつ記憶が浮かんだ。


 大学に入って少しした頃、サークルの飲み会で帰りが遅くなったことがあった。終電には間に合ったし、事前に連絡もしていた。それでも家に着くと、母は玄関で起きて待っていた。怒ってはいなかった。ただ、「何かあったらどうするん」と言って、それからしばらく私の顔を見なかった。


 心配してくれているのだと分かっていた。だから私は反論できなかった。二十歳を過ぎていても、帰宅時間が遅いだけで母を傷つけるのだと、そのとき改めて覚えた。


 居間へ行くと、テーブルの上に紙袋が置いてあった。付箋に丸い字で書かれている。


『朝ごはん食べる時間ないやろうし、おにぎり入れとくね』


 中を見ると、ラップに包まれたおにぎりが二つ入っていた。梅と鮭。たぶん私の好きな組み合わせを考えて作ったのだろう。


 私は紙袋の持ち手をつまんだまま、しばらく動けなかった。


 こういうところなのだ、と思う。


 母はいつも先回りする。私が困らないように、忘れないように、失敗しないように。風邪を引けば薬を持ってきて、帰りが遅ければ何度も連絡をして、疲れていれば甘いものを買ってくる。生活の細かいところを整えて、私が転ばないように手を添え続けてきた。


 だから私は、母を簡単に悪者にできない。


 嫌いになれたら、どんなに楽だろうと思う。嫌いなら、怒って出ていける。恨んで切れる。でも私には、母が本気で私を大事に思っていることが分かってしまう。


 ただ、その大事にするということの中に、いつも「あなたは一人ではちゃんとできない」という前提が混ざっていた。


 母は「好きにしたらいい」と言うことがあった。けれど、本当に私が自分で何かを決めると、少し傷ついたような顔になる。その顔を見ると、それ以上進めなくなる。


 そうやって私は、ずいぶん長いこと、母の表情の中で暮らしてきた。


 父は、そのことに気づいていないわけではなかったと思う。


 けれど父はいつも、「お母さんも心配してるだけや」「悪気はないんやから」「そこまで言わんでも」と言って、場を丸く収める方を選んだ。私の味方をしたことが一度もないわけではない。でも、母の不機嫌を真正面から受けるほどの本気は、父にはなかった。


 父はたぶん、私が黙ることを知っていた。母が少し傷ついた顔をすれば、私の方が引くことも知っていた。だから放っていた。私を庇うより、母を刺激しない方が家の中は静かで済む。父はいつも、静かな方を選んだ。


 そういう意味で、父もまた、この家の側の人間だった。


 私が異動願いを出したのは、逃げるためだった。


 もちろん表向きの理由はちゃんとある。今の部署の仕事を続けるなら、どこかで異動経験は必要になるし、今回の配属先は条件も悪くなかった。けれど、それはあくまで説明できる理由でしかない。


 本当は、ここから離れたかった。


 できるだけ、遠くへ。


 通える距離では意味がない。休日に気軽に来られる場所でも駄目だ。終電を逃したら泊まりに来いと言える範囲では足りない。車でふらっと様子を見に来られない場所。思い立ってもすぐには会えない距離。そういう遥かさが必要だった。


 そうでなければ、私はまた戻されると思った。


 異動の話をした日のことを、私はよく覚えている。


 夕飯のあと、食卓で転勤願いが通ったことを話した。母は最初、聞き間違いかと思ったみたいに目を丸くした。それから少し笑って、「冗談やろ」と言った。私が黙っていると、その笑みがゆっくり消えた。


「そんな遠くまで行かんでも、こっちで探せばよかったやん」


 責める声ではなかった。本当に、理解できないという顔だった。


「もう決まっとる」


 私がそう言うと、母はしばらく黙った。それから、小さく笑って言った。


「まあ、もう決めたんやろうけど」


 その言い方は、許しているようで、少しも認めてはいなかった。


「お母さん、あんたがそこまで遠くに行きたくなるほど、何かしたつもりないんやけどね」


 その一言で、私は何も言えなくなった。


 責められているわけじゃない。むしろ本当に、不思議そうだった。だから余計に、私の苦しさの方が間違っているみたいに思えた。


 父はそのとき、「本人が決めたなら仕方ないやろ」と言った。でもその声には、私を庇う強さはなかった。面倒な話が長引かなければいいという、ただそれだけの声色だった。


 その日から引っ越しまで、母は露骨に反対しなかった。代わりに、新しいタオルを買い足し、収納ケースを揃え、洗剤の使い方まで説明した。まるで私の選択を受け入れているみたいだった。


 でも時々、ふいに言うのだ。


「そんな遠くに行かんでもよかったのにね」


「お母さん、何か悪いことした?」


「別に。あんたがそうしたいなら、そうしたらいいよ」


 その「そうしたらいいよ」は許可ではなく、私が勝手に家を出ていく人間なのだという事実を、静かに撫でるための言葉みたいだった。


 私はそのたびに、自分がひどく親不孝なことをしている気持ちになった。


 でも、その罪悪感の中で暮らし続けるくらいなら、本当に親不孝でもいいと思ってしまったのだ。


 玄関にスーツケースを出したとき、背後で廊下がきしんだ。


 私は心臓が跳ねるのを感じながら振り向いた。母が立っていた。カーディガンを羽織って、寝起きの顔のまま、でももう目は覚めている。


「もう出るん?」


「うん」


「こんな早く? もう少ししてからでもよかったやろ」


 その言い方は引き止めというより、私の出発の時間まで当然自分の相談の中にあるものとして扱っている響きだった。


「混む前に行こうと思って」


「そう……」


 母はスーツケースと私の顔を見比べた。


「お父さん起こそうか」


「いい。寝かせといて」


「でも、見送りくらい」


「いいって」


 思ったより強い声が出た。母の目が少しだけ揺れる。


 私はすぐに「朝早いし」と付け足した。昔からこうだ。自分の本音だけでは言葉を終われない。必ず相手が傷つかない理由を後から足してしまう。


 母は黙って、玄関の壁に軽く手をついた。


 その沈黙が怖い。怒鳴られるより怖い。何を考えているのか分からない数秒のあいだに、私は頭の中で自分の言い方を何度も反芻してしまう。きつかっただろうか。もっと柔らかく言うべきだっただろうか。今からでも謝った方がいいだろうか。


 そうやって私は、ずっと母の感情の後始末をしてきた。


「ご飯、ちゃんと食べんといかんよ」


 母が言った。


「うん」


「向こう行っても、夜更かしばっかりしたら駄目やし」


「うん」


「困ったことあったら、変に一人で抱えんと、ちゃんと言うんやよ」


「うん」


 母はそこで少し笑った。


「あんたは昔から、親を困らせん子やったからね。お母さん、あんたにはずっと安心させてもらっとったんよ」


 褒められているはずなのに、胸の奥が冷たくなった。


 手のかからない子。心配をかけない子。空気を読んで、機嫌を損ねないように動く子。


 そうしていれば、この家の中では丸く収まった。その代わり、私の輪郭は少しずつ薄くなっていった。


「荷物、持とうか」


 母が手を伸ばしかける。


「大丈夫」


 私はほとんど反射みたいにそう言って、先に持ち手をつかんだ。


 母の手が宙で止まる。その一瞬の寂しそうな顔に、また罪悪感が刺さる。


 それでも、ここでその手に甘えたら駄目だと思った。たぶん私はまた、母に心配される娘のままで終わってしまう。


 母は私を不幸にしたかったわけじゃない。ただ、自分の手の届くところに置いて守ることが、愛することだと本気で信じていただけだ。


 でも私はもう、その愛され方の中では大人になれなかった。


 玄関の扉を開けると、まだ夜に近い朝の冷たさが頬に当たった。外は薄暗く、東の空だけがかすかに白んでいる。


「着いたら連絡してね」


 母が言う。


「うん」


「ちゃんと返事してよ。お母さん、返ってこんかったら気になって何も手につかんから」


「……うん」


「困ったことあったら、無理せんと帰ってきたらいいんやし」


 その言葉に、胸の中で安堵と不安が同時に揺れた。


 もう毎日この声を聞かなくていい。帰宅時間を気にしなくていい。誰の機嫌も読まずに、部屋の電気をいつまで点けていてもいい。休日の予定を説明しなくてもいい。


 そのことに、たしかにほっとしている。


 でも同時に、誰にも見られていない場所で自分はちゃんと暮らせるのかという不安もあった。今まで管理されてきたぶん、自分で決めることに慣れていない。自由は欲しかったはずなのに、その手触りは思ったより心細い。


「じゃあ、行くね」


 私はそれだけ言った。


 「行ってきます」とは言えなかった。その言葉を口にしたら、今日のこれはいつもの外出と同じになってしまう気がしたからだ。


 母は少し間を置いてから、「気をつけて」と言った。


 玄関灯の下に立つ母は、可哀想なくらい普通の母親に見えた。世話焼きで、心配性で、少し過保護で、娘が遠くへ行くことを寂しく思っている人。


 そこだけ切り取れば、私はひどい娘なのかもしれない。


 でも私は、その人の顔色を見ながら生きる自分を、もうやめたかった。


 振り返らずに歩き出す。スーツケースの車輪がアスファルトの上で小さな音を立てる。背中に母の気配を感じたまま、私は一度も後ろを見なかった。


 駅へ向かう道の途中で、ようやく深く息を吸った。冷たい空気が肺に入る。少し痛い。それでも、家の中で吸う息よりずっと軽かった。


 始発に近い電車は空いていた。窓際の席に座って、私は手袋をしたまま指先を握り込んだ。指が冷たいのか、緊張しているのか、自分でもよく分からない。


 町がゆっくり後ろへ流れていく。よく行ったスーパー、通い慣れた道、信号の角のコンビニ。どれも見覚えがあるのに、少しずつ距離が開いていく。


 そのことが、思っていた以上にほっとした。


 スマホが震えた。


 母からだった。


『もう乗った?』


 少し間を置いて、また震える。


『おにぎり入れとるから、お腹空いたら食べなさい』


 さらにもう一通。


『着いたらすぐ連絡してね。返事ないと心配で何も手につかんから』


 私は画面を見つめたまま、しばらく動けなかった。


 その文面だけ読めば、ただの愛情だ。優しい母親の、当たり前の心配だ。たぶん本当に、母はそれ以上のつもりなんてない。


 でも私は、その当たり前に溺れそうになっていた。


 連絡を返さなかったら、また心配させる。心配させれば、今度は私が悪いことになる。そんな考えが、息をするみたいに自然に浮かぶ。その反射の速さに、私は少しぞっとした。


 まだ、支配は簡単には抜けない。


 この距離だけで全部が変わるわけじゃない。たぶん向こうへ行っても、しばらくは私は母の機嫌を想像しながら暮らすだろう。電話が鳴れば身構えるし、返信が遅れれば罪悪感も覚える。


 それでも、距離はいる。


 まずはそれだけでいい。


 私は返信欄を開いて、短く打った。


『乗った。着いたら連絡する』


 送信して、すぐに画面を伏せる。


 窓の外では、夜明けが少しずつ町の輪郭をほどいていた。遠くの空が白くなり、線路の先が光り始める。


 私はまだ不安だった。自分で生活を回せるのかも、自分で自分の機嫌を引き受けられるのかも、正直よく分からない。


 でも、分からないままでいいと思った。


 誰にも管理されない朝が、こんなふうに心細くて、こんなふうに軽いのだと、これから少しずつ覚えていけばいい。


 まっすぐ伸びる線路の先にある朝だけが、今はたしかに、私のものだった。


ここまでお読みいただき、ありがとうございました。


第二話は、離れることそのものが自立の始まりになる関係を書いてみました。

同じ「遥か」でも、第一話とは少し違う景色になっていれば嬉しいです。


次話も独立した短編ですが、また別の形の「遥か」を描きます。

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