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独立短編連作『遥か』  作者: リフェリア


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春へ向かう列車

この連載は、『遥か』という一つの題から発想した独立短編連作です。

各話ごとに登場人物・設定は異なり、続き物ではありません。


第一話は、いちばんまっすぐな「遥か」です。

旅立ちの朝の話になります。

お読みいただけましたら幸いです。

 目が覚めたとき、天井が少しだけよそよそしく見えた。


 見慣れているはずの白い天井だ。子どもの頃から何度も見上げてきたし、中央に小さな染みがあることも知っている。けれど、その朝の天井はもう自分のものではないような気がした。


 枕元のスマホを見ると、まだ六時前だった。カーテンの隙間から、春の白っぽい光が細く差し込んでいる。二度寝をする気にもなれず、俺はしばらく布団の上でぼんやりしていた。


 部屋は妙に広かった。


 机の横に積んであった参考書は、必要なものだけ段ボールに詰めてある。棚に並んでいた漫画も半分以上なくなって、日焼けした跡だけが残っていた。制服は昨夜のうちに袋へしまったし、ベッドの下に押し込んでいたサッカーボールも、もう物置へ移されている。


 自分の部屋なのに、どこか仮の部屋みたいだった。


 起き上がって机の引き出しを開けると、奥に古いシャープペンが一本転がっていた。中学の頃に使っていたやつで、何度も落としたせいで先の金具が少し曲がっている。受験のときには新しいものばかり使っていたから、こんなところに残っていたのをすっかり忘れていた。


 隣には、小さな紙箱があった。風邪薬と頭痛薬の箱だ。開けると、半端に余った錠剤がシートごと入っている。前に熱を出したとき、母が置いていったままになっていたものだろう。


 さらに奥には、止まったままの目覚まし時計があった。去年、一度落として壊したのを父が分解して直してくれたものだ。結局そのあともスマホのアラームばかり使って、この時計は引き出しの奥にしまわれたままだった。


 なんでもない物ばかりなのに、見ていると妙に手が止まる。


 昨日までなら、何も思わなかったはずなのに。


 階下から味噌汁の匂いが上がってきた。鍋のふたが触れ合う小さな音がする。もう母は起きているらしい。俺は引き出しを閉めて、顔を洗いに部屋を出た。


 洗面所の鏡に映る自分は、思っていたより普通の顔をしていた。もっと緊張しているかと思っていたのに、ただ少し寝起きなだけだった。


 今日から一人暮らしで、県外の大学へ行く。


 そう頭の中で言葉にしてみても、まだ実感は薄い。


「お兄ちゃん、起きとる?」


 廊下の向こうから妹の声がした。


「起きとる」


「今日、ほんとに行くん?」


「行くよ」


 今さら何を、と思いながら返すと、妹は「ふうん」とだけ言って階段を下りていった。その返事が妙に小さくて、少しだけ気になった。


 食卓には、焼き鮭と卵焼きと味噌汁が並んでいた。いつもと同じ朝飯だ。母はエプロンの紐を結び直しながら、「ご飯、大盛りでよかった?」と聞いてきた。


「うん」


 父はもう席について新聞を広げていたが、ページをめくる手が遅い。普段ならざっと見て終わるのに、その朝はいつまでも同じ面を眺めていた。


 妹は牛乳を飲みながら、俺の足元に置かれたスポーツバッグをちらちら見ている。


「向こう、朝晩はまだ寒いかもしれんし、上着ちゃんと出しや」


 母が言った。


「うん」


「洗濯ネット入れた? あんた、そのまま突っ込むやろ」


「入れたって」


「シャンプーは?」


「入れた」


「歯ブラシは?」


「それも」


 何を答えても、母は安心したような、まだ足りないような顔をする。たぶん忘れ物の確認なんて半分どうでもよくて、何か喋っていないと落ち着かないのだろう。


「足りんもんがあったら、着いてから買えばいい」


 新聞の向こうで父が言った。


「ほら、お父さんはそうやってすぐ雑に言う」


「雑じゃないやろ。今どき何でもある」


「あるのと、最初から持たせとくのは違うわ」


 母がむっとすると、父は新聞を畳んで黙った。俺と妹は顔を見合わせて、小さく笑った。


 ほんとうに、いつも通りの朝だった。


 それなのに、みんなが少しずつ無理をして、いつも通りの顔をしているのが分かった。


「次いつ帰ってくるの?」


 妹が箸を止めて聞いた。


「盆かな」


「夏、長いな」


「そうでもないやろ」


「長いって。誕生日もあるし」


「その頃には帰るって」


 そう答えると、妹は納得したようなしないような顔で卵焼きを口に運んだ。母は味噌汁のお椀を持ったまま少しだけ目を伏せ、父は「まあ、帰りたくなったら帰ってくりゃいい」と言った。


 その言葉に、なぜか少しだけ胸が詰まった。


 朝飯を食い終わって荷物を玄関へ運ぶ。段ボールは先に送ってあるから、今日持っていくのはスポーツバッグとリュックだけだ。たったそれだけなのに、それを持つと急に、家を出るんだという感じがした。


 靴を履いていると、母が後ろから「ちょっと」と言って近づいてきた。何かと思ったら、パーカーのフードが中に折れ込んでいるのを直したかっただけらしい。


「あんた、そういうとこ昔から雑なんよ」


「別にええやろ」


「よくない。みっともない」


 言いながら母はフードを整え、肩のあたりを軽く払った。それで満足したように、「よし」と小さく言う。


 なんだか小学生みたいで、少し照れくさかった。


 駅までは父の車で送ってもらうことになっていた。母と妹も一緒に乗る。車に乗り込むと、見慣れた柔軟剤の匂いがした。


 家を出てしばらくは、誰もあまり喋らなかった。


 通学で毎日見ていた道を、今度は逆向きに走っていく。小学校の前を通り、川沿いの土手を過ぎ、中学へ向かう坂道が見える。春休みで静かなグラウンドの向こうに、校門脇の桜だけがやけに目についた。


 あの坂道を、自転車を押しながら何度上っただろう。


 部活で足を痛めた日のことを思い出す。試合で負けて、帰り道ずっと機嫌が悪かった日だ。家に帰っても母に当たり散らして、放っておいてくれと言った。父は何も言わず、晩飯のあとで「ちょっと来い」とだけ言って、近くのラーメン屋へ連れていった。カウンターで並んで味噌ラーメンを食いながら、父は試合のことも、悔しかった理由も聞かなかった。ただ、「替え玉するか」とだけ言った。


 あのとき、それがありがたかったくせに、礼も言わずに帰った気がする。


「着いたら連絡しなさいよ」


 前を向いたまま母が言った。


「うん」


「ほんとに。どうせ忘れるんやから」


「忘れんって」


「忘れる」


「あるな」


 父まで言うので、俺は「なんで二人とも決めつけるん」と言った。妹がくすっと笑い、母もつられて少し笑った。


 その笑い声で、受験の日の朝を思い出した。


 家族全員、妙なくらい静かだった。母はいつもより少し薄味の朝飯を出して、父は「忘れ物だけすんな」と言い、妹は珍しくテレビの音量を下げていた。俺はそんなことにまで気づいていたくせに、緊張で余裕がなくて、結局ろくに「行ってくる」も言わずに家を出た。


 今になって考えれば、あれも見送られていたんだ。


 駅に着くと、朝のホームは思ったより人が多かった。通勤のスーツ姿に混じって、大きな荷物を持った学生らしいやつも何人かいる。みんな同じような顔をしている気がした。眠そうで、少し不安で、それを隠して平気なふりをしている顔。


 父が車からバッグを下ろしてくれた。自分で持つと言う前に、もう肩から外していた。母は「こっち持てる?」とリュックのファスナーを確かめ、妹は手持ち無沙汰そうに俺の靴先ばかり見ていた。


「これ」


 父が財布から一万円札を差し出した。


「いらんって」


「持っとけ」


「足りるし」


「足りんくなった時の分や」


 断ろうとしたけれど、父は半ば無理やり俺の手に押し込んだ。俺は仕方なく受け取って、財布にしまった。


「あとで返す」


「返さんでいいわ」


 父はそう言って笑った。


 ホームへ上がる階段の前で、母がまた「洗濯物ため込まんように」と言いかけて、途中でやめた。少し間を置いてから、「ちゃんと食べるんやよ」と言い直した。


「分かっとる」


 それ以上、何を言えばいいのか分からなかった。


 ホームの端に並んで立つ。線路の向こうには、朝の光を受けた屋根がずっと向こうまで続いていた。ここから見える景色なんて今まで何度も見てきたはずなのに、今日は全部がやけにくっきりして見える。


 そのとき、ふいに思った。


 ちゃんと「行ってきます」を言ったことなんて、ほとんどなかったかもしれない。


 学校へ行く朝も、部活へ向かう夕方も、「じゃ」「うん」「いってくるわ」みたいな曖昧な声で済ませてきた。帰る場所があることを、毎日当然だと思っていたからだ。


 けれど今日は違う。


 今日の「行く」は、本当に離れていくということなんだ。


 遠くで列車の来る音がした。アナウンスが流れ、人が少し前へ詰める。


 母が俺の袖を軽く引いて、「体に気をつけて」と言った。


 父は少しだけ間を置いて、「困ったら戻ってこい」と言った。


 その言葉で、胸の奥のどこかが、はっきりと動いた。


 ああ、と思った。


 俺は追い出されるんじゃない。送り出されるんだ。


 列車がホームに滑り込んできた。風が吹いて、母の前髪が揺れる。ドアが開く。乗らなきゃいけない。何か言わなきゃいけない。


 ありがとう、が最初に浮かんだ。


 でも、その一言は重すぎて、喉の奥で引っかかった。言ってしまえば、たぶん全部崩れる気がした。


 だから結局、口から出たのはそれじゃなかった。


「……行ってきます」


 自分でも少し驚くくらい、ちゃんとした声だった。


 一瞬だけ、母の目が丸くなる。すぐに笑って、「行ってらっしゃい」と言った。父も短く、「おう」とうなずく。妹は口をへの字にしながら、「ちゃんとお土産買ってきてよ」と言った。


「何を偉そうに」


 そう返したら、少しだけいつもの空気が戻った。


 俺は列車に乗り込んで、ドアの近くに立った。発車ベルが鳴る。窓越しに三人の姿が見える。母は小さく手を振り、妹もそれを真似していて、父は手こそ振らなかったけれど、まっすぐこっちを見ていた。


 列車が動き出す。


 ホームが後ろへ流れ、三人の姿が少しずつ小さくなる。見えなくなる、そのぎりぎりまで目で追ってしまった。


 胸の奥が、じわじわ熱くなる。


 毎日食卓に飯が並んでいたこと。風邪を引けば薬が出てきたこと。夜遅くなれば玄関の電気が点いていたこと。受験前に家の中が妙に静かだったこと。負けた日に何も聞かずラーメンを食わせてくれたこと。


 そんなもの、ずっと勝手にそこにあると思っていた。


 でも違った。


 あれは全部、誰かが手をかけてくれていた毎日だったんだ。


 席が一つ空いたので、俺は窓際に座った。ホームはもう見えない。町の建物が後ろへ流れ、やがて見慣れた景色も少しずつ形を変えていく。


 ポケットの中のスマホが震えた。母からだった。


『乗れた?』


 たったそれだけのメッセージに、思わず笑ってしまう。もう乗ったところを見ていただろうに、それでも確認したいんだろう。


 家族のグループを開いて、何か打とうとしてやめる。ありがとう、と書けばいいのかもしれない。けれど、まだそれはうまく言えそうになかった。


 代わりに母との画面へ戻って、


『乗れた。着いたら連絡する』


 とだけ打って送る。


 すぐに既読がついた。


 車窓の向こうで、春の光が少しずつ明るくなっていく。


 遠ざかっていく町は、思っていたよりずっと、やさしい色をしていた。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。


この連載では、同じ「遥か」という題から生まれた別々の物語を書いています。

次話は、同じく「家を出る」場面を扱いながらも、第一話とは少し違う感情の「遥か」になります。


独立した短編ですので、この一話だけでも完結していますが、読み比べるように楽しんでいただけましたら嬉しいです。

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