9.第二章 まる エピソード3
あれは、確か、中学三年生の秋のことだっただろうか。部活の手芸部を引退して、受験勉強に打ち込んでいたある日の学校の帰り、美里と一緒に並んで帰っていると、風に乗って鳴き声が聞こえてきた。「ミャア ミャア」と鳴く、今にも消えてなくなりそうなか弱い声。
互いに顔を見合わせた私たちは、声が聞こえる公園の方に足を進めた。そこに公園があることは知っていた。小学生の頃に自転車に乗って、一度だけ行ったことがあったから。だけど、中学生になった私の目には、そこは通学路の途中にある単なる一風景でしかなかった。
目を凝らして見てみると、どうやらその声はブランコのそばにポツンと置かれた、段ボール箱の中から聞こえてくるようだった。足音を忍ばせながら、そこに近づく私たち。
蓋の開いた段ボール箱の中には、一匹の仔猫が入っていて、上から眺める私たちのことを、身体を震わせながら見上げている。
「かわいい、生まれたばかりかな」
そう言って、美里がその子を抱き上げた。掌に乗ってしまうような小さな猫で、
「真理も抱っこしてあげたら」
と、美里に言われて、恐る恐る腕を伸ばしたのを覚えている。
それから、私たちは顔を突き合わせて悩んだ。
「この子、このままでは死んでしまうよ、きっと」
「うん……そうだよね……」
美里が言った「死んでしまう」という言葉が妙に私の心に刺さって、私は顔をしかめた。
「真理のうちで飼ってあげたら。私の家はマンションだから、ペットを飼ってはいけない決まりになっているの」
「えっ? 私の家?」
そう答えながら、私の目の前に両親の困った顔が浮かんでは消えた。母は、生き物が大嫌いで、家の中でゴキブリを見つけようものなら、パニックになってしまうほどだった。父は父で、幼い頃に実家で飼っていた犬に腕を噛まれたとかで、それ以来動物を受け付けない身体になっている。
このまま、私たちが立ち去ってしまったら、美里が言った通り、この子はすぐに死んでしまうかも知れない。どうしようかと悩んだ挙句、私は駄目もとで、その子を家に連れて帰ることにした。
家に連れて帰ってからのことは、私が帰り道で想像していた通りだった。母は、段ボール箱の中の猫をひと目見るなり、パニックになって家じゅうを逃げ惑った。今すぐにでも、家からこの子を出さないことには大変なことになると思った。
「ごめんね、やっぱり私の家では飼ってあげられないの」
私は、不安げに見つめるその子に言うと、涙目になりながらとぼとぼと元の公園へと歩き始めた。家から持ち出した、牛乳を入れたプラスチック製の容器と、ソーセージ二本を箱の中に入れて。
段ボール箱を元あった場所に戻して、別れ際に私はその子と約束した。
「明日も、食べ物を持ってくるから、ここで待っていてね」
猫は、悲しそうな顔を浮かべていたが、私の言葉にほんの少し安心したのか、私が立ち去るときに、「ミャア」と優しく鳴いた。
そんなことがあったなと、私は振り返っている。美里は、酔いがまわってきたのか、カシスオレンジをお替りして、何かをぼやいている。私は、残りのビールを一気に飲み干すと、再び頬杖をついて、目を細める。
次の日が来るのが、私は気が気でなかった。学校の帰りに、学校の前にあるパン屋さんで、小学校の給食に出てくるような紙パックの牛乳と、ソーセージパンを買った。買い食いしてはいけないと、先生たちからうるさく言われていたから、人目を忍ぶようにお店を出たけれど、もしも仮に誰かに見つかったとしても、事情を話せば許してもらえるだろうか。
走って公園に行くと、昨日と同じ場所に箱が置いてあって、中に猫がいた。白くて、背中に灰色の円い模様がある仔猫。私の顔を見て、「ミャア」と、昨日よりも元気に鳴いていたので、私は、「よかった」と口にしながら、ホッと胸を撫で下ろす。空になった容器に牛乳を入れてあげて、ソーセージパンのソーセージだけを取り出してあげた。お腹を空かしていたのか、その子はすぐに牛乳を飲み始めたので、それを見守りながら私は残りのパンを食べる。
その子にとっては大切なご飯の時間だったが、私にとってはおやつタイム。私は、その子が牛乳を飲み切って、ソーセージをほんの少しかじる様子を見て、「やったぁ、食べてくれた」と、強張った頬を緩めた。
そうやって、何日か餌をやり続けたのだが、雨が降る日があった。前もって天気予報を確認していたので、雨に濡れないように前の日に傘をかぶせていたのだが、放課後に急いで行ってみると、傘をかぶせた箱の中にその子の姿はなかった。前の日にあげたソーセージの残りと、空になった容器だけがポツンと残されている。汚れた服のようなものが底に敷かれているのは、誰かが仔猫のために敷いてあげたのだろうか。
あんなに小さな身体なのだ。まさか、自分の力で箱から這い出た訳ではないだろうけど、心配になった私は、雨に濡れながら夢中で探した。グラウンドの脇の、私の背丈ほどの茂みの中も全部。だけど、あの子の姿はどこにもなかった。
私は、肩を落としながら、段ボール箱のそばまで戻ってみる。箱の中に残されたものをぼんやり見つめながら、心の中で言った。
「きっと、優しい誰かが、雨の中にいるあの子を拾って、家に連れて帰ってくれたんだわ」
地面に当たって飛び跳ねた雨水で濡れた箱が、やけに寂しく感じられた。
「大丈夫だってば。きっとあの子は、優しい人に拾われて、今頃温かい部屋で過ごしているよ。子猫を連れて帰るくらいだから、動物が好きな人なんだよ、その人は。だから、そんなに落ち込まないで」
心の中の私がそう囁いて、私を納得させる。
次の日から、そこを通るたびに気になって、公園の中を探してみたが、いつしかあの子が入っていた段ボール箱が撤去されていて、あの子の姿を見かけることもなかった。そして、次第に受験勉強が忙しくなり、私の意識の中からそんなことがあったこと自体、消えてなくなってしまっていた。
「ねぇ、真理、聞いているの。真理ったら……」
その声にはっとなった私は、正面から訝しげな視線を送ってくる美里に気づいて、再び肩を大きく上げた。
「あっ、美里、ごめんね。ちょっと考えごとをしていたんだ」
作り笑いをして見せる私。
「真理ったら、私がさっきからずっと呼んでいるのに、あの子がどうしたとか、独りごとを言っているんだから……。私、もう自分の分を食べちゃったよ。あっ、グラタンを頼んでもいいかな。ここのグラタン、美味しいってネットで評判なんだよ」
真理のその言葉に、テーブルの上を見てみると、私が食べる分の料理が雑然と残されている。私は、
「うん、何でも好きなものを頼んで」
と答えて、美里が残したものを口に運び始めた。




