7.第二章 まる エピソード1
疲れて帰った私を、唯一出迎えてくれているのが、まるだった。まるは、私が部屋に帰ってくる時間を覚えているのか、私が玄関の扉を開けると、玄関の上がり框にちょこんと座って、私の帰りを待ってくれている。
そんな姿を見て、私は思わずまるを抱きしめてあげる。「ただいま、今帰ったよ」と言いながら……。
そんなまるが最近になって、外に出たがることがある。ここに来たときは、部屋から離れるのを嫌がっていたが、部屋の中に飽きてしまったのか、ベランダの窓の外を見上げるように見つめたり、玄関の扉を前脚で引っかいたりするのだ。
「犬と違って、猫は気ままな性格」とか、「誰にも気兼ねすることなく、単独行動をする動物」だとか、どこかで聞いたことがあったけど、まるに関しても同じだろう。
あの日、雨に濡れた猫を連れて帰ろうと、私がとっさに思ったのは、そんな猫の性格に憧れていたからかも知れない。まわりのことを気にすることなく、もっと自分らしく自由に生きてみたいという願望の表れ。もちろん、この世の中が、自分が思っているほど甘くはないことはわかっているつもり。苦労の連続かも知れないし、誰かを恋しく思うことだってあるかも知れない。だけど、猫のように自分の気持ちに正直に生きていたら、大切な何かに出会えるような気がする。
いろいろネットで調べてみたけれど、まるが外に出たがっている理由はわからなかった。ストレスが異常行動や病気を引き起こすことがあると書かれていたから、私は急に怖くなった。だから、ベランダの窓を少し開けて、まるを外に出してやることにした。その前に、万が一の事故に備えて、まるの首輪に私の連絡先と私の名前をマジックで書いた。そうすれば、もしもまるに何かあっても、親切な誰かが知らせてくれるだろうから。
まるは、待ちわびていたかのように外に飛び出して行った。いつ帰ってくるかわからないので、私が部屋にいる間は、ベランダの窓を少し開けておいた。
そうやって、初めてまるを外に出した日の夜、私はまるの帰りをずっと待っていたが、徐々に瞼が重たくなって、ついに眠ってしまった。開いた隙間から、冷たい空気が入り込んでくるので、厚手の布団にくるまって。
そうして、いつしか夢を見ていた。誰かの優しい視線を浴びている夢。とても広い場所だった。私は、揺れる何かに乗っている。隣には誰かがいて、ずっと私のことを見守ってくれている。私は、頬を赤らめながら、心臓が高鳴るのを感じている。何か、大きなものに抱かれた私は、ふわっと浮くような心地よい感覚に襲われた。遠い昔、どこかで体験したような不思議な夢だった。
窓の外が白み始めた。早起きの鳥たちが、朝の到来を告げているかのようにさえずっている。私は、ふと目を覚ました。身体の中に残っている温かい感覚に、夢を見ていたことに気づいた。
枕もとの目覚まし時計は、あと少しでアラームが鳴るところだった。少し早いけれど、そろそろ起きようかと思って、布団の中でゴソゴソと動き出したとき、私の左手が温かい何かに触れた。毛布のようにふかふかの毛並みを持ったそれは、まるだった。
やけに鳥たちのさえずりが大きく聞こえたのは、窓が少し開いていたから。そうか、夕べまるを外に出したのだ。それで、夜中のうちにまるが戻ってきて、私の布団の中に入って寝ていたのだろう。
まると一緒に寝たのは初めてではなかったけれど、気づかないうちにまるが布団の中にもぐり込んでいて、なんだか不思議な気分だった。
私は、まるを起こさないように、そっと布団から抜け出ると、朝の支度を始めた。仕事に行っている間は物騒なので、窓を閉めた。まるのために、水とキャットフードを用意した。
いつの間にかまるが起きていて、私が部屋を出るのを、何事もなかったかのように見送ってくれた。
「まる、行ってくるね」
そう言って、まるをギュッと抱きしめると、私は玄関を出た。晩秋の空気は、身体全体を突き刺すように冷たかったけど、私の心の中はほのかに温かかった。




