4.第一章 真理 エピソード3
そんなとき、母からの電話が鳴った。普段、あまり電話をかけてこない母だったので、不思議に思って電話に出てみると、親戚からお米をもらったので、少し分けてくれるのだという。私の仕事が忙しいだろうからと、母は、今度の週末にこのアパートまで来ると言った。
それには、私は一人焦ってしまった。動物嫌いの母が、何も知らずにこの部屋にやって来たら、まるを見つけて腰を抜かしてしまうと思った。その拍子に、何かに頭をぶつけでもしたら大変。だから、週末に私が実家に帰ることにした。
私が今、住んでいる場所とは違って、実家のまわりにはまだ田畑が残っていて、昔ながらの景色が広がっている。そんな古い町並みの一角に、私が生まれ育った家はあった。
玄関の扉に手をかけてみると、横にスライドするはずの扉が閉まっている。
「ただいま、お母さん、帰ったよ」
今度は、庭の奥に向かって声をかけてみる。しかし、応答はない。私が帰ることは伝えていたが、どこかに買い物にでも出かけているのだろうか。
いかにも、マイペースな母らしいと思った。母は昔ながらそうなのだ。どんなに大切な約束をしていたとしても、何か気になることがあれば、約束していたことをそっちのけで出て行ってしまう。私なんて、一度約束してしまったら、そのことばかりが気になってしまって、逆に他のことが目に入らなくなるというのに……。
あれは、小学校五年生のときの参観日だっただろうか。クラスで劇を披露することになって、私はナレーター役に抜擢された。抜擢されたというよりも、他に誰もやりたくなかったものだから、担任の先生から無理にあてがわれたのだったが。
ナレーターと言うと、主役と並んで長い時間、舞台の上で過ごすことになる。私は、母の前で頑張っている姿を見せようと、毎日遅くまで教室に残って必死に練習した。
そうして迎えた参観日、私は体育館の舞台の上から、母の姿を探した。仕事で見に行けない父の分まで、私が活躍する姿を目に焼きつけるからと、母は意気込んでいたから。
だけど、いつまで経っても、母は客席に現れなかった。いや、もしかしたら、私が気づいていないだけで、母はどこかで見ていてくれていたのかも知れない。きっとそうだと、思った。そして、家に帰って、クラスの劇がどうだったかと感想を訊いたとき、母は思いもよらないことを口にした。
「ごめんね。見に行こうと思っていたんだけど、今朝、お母さんの高校時代の友達から急に電話があって、卒業した日以来に会わないかって言うのよ。その友達、ずっと海外にいて、ようやく帰って来たみたいだったから、お母さん懐かしくなっちゃってね。それで……」
そう、母の言い訳が延々と続いた。
ようやく母の話が終わったとき、私の目に涙が込み上げてくるのを感じた。母に自分の活躍する姿を見てもらえなかった寂しさと言うよりも、約束を守ってもらえなかった悔しさからくる涙。子供心ながらに、
「私のあの必死の頑張りは何だったの? お母さんにとっての私って一体……」
と、心の中で叫んでいた。
結局、後になって、母のその友達は、ちょうどその日のうちに海外に戻らないといけなかったことを知ったのだが、参観での出来事は、母との間に溝を感じた瞬間でもあった。
そうそう、そんなことがあったと、私は、庭にポツンと残された子供用の赤い自転車を見つめながら、回想している。そう、嫌なことがあったら、いつもそれにまたがって、街を駆け抜けていた、私の相棒のような自転車。
あの日も、この自転車に乗って、寂しさや悔しさをひた隠すように、必死にペダルを漕いでいた。どこをどう走ったのかは覚えていなかったが、小学校を超えて街の向こう側まで走ったときに、公園を見つけたのだったかな。
見たこともない、広い公園だった。隣に建っているのは、中学校だろうか。入口を入ってすぐのところにブランコがあって、私は自転車をそのそばに停めると、ブランコに揺られた。
奥の方では、男の子たちがサッカーをしていて、賑やかな声が聞こえてくる。私がいる遊具のそばには、ときおり犬の散歩をさせる人が通りかかるだけで、他に子供の姿はなかった。
「どうしたの? 嫌なことでもあった?」
突然、誰かの声が聞こえたような気がして、ブランコを漕いでいた私は、慌ててあたりを見まわした。地面に足をこすりつけてブランコを止めた私の横に、一人の男の子が座っていた。
「えっ、あっ、私……」
なんだか、答えにならないようなことを言ったような気がする。
「なんだか、悲しそうな顔をしているよ。何か、辛いことでもあった?」
そう訊いた男の子は、初めて見かける顔だった。ほっそりとした身体に、はっきりした目鼻立ちの彼は、見た感じ私とそれほど齢が離れていないように思えた。私の通っている小学校は、一学年で四クラスもある大きな学校だったので、他のクラスの生徒だろうか。
「えっ、うん……」
またもや、あいまいに答える私の頬は、赤くなっていた。まわりの音が聞こえなくなり、全身が脈打っている。生まれて初めての感覚だった。
「よかったら、何があったか、僕に話してくれない?」
男の子は、そう言って穏やかな視線を向けてくる。私は、どちらかと言うと人見知りをする方だったが、不思議にもこのときは、この見知らぬ男の子に、自分の気持ちを素直に打ち明けたくなった。
男の子は、優しく微笑みながら、私の話に耳を傾けてくれている。母に参観をすっぽかされたことを、私は夢中で話していた。
そして、私が心の中のもやもやを全部出し切った後、男の子は解けるような甘い声で、私に囁いた。
「大丈夫、大丈夫だよ。何にも心配いらないよ。君は、君のままでいいんだよ」
身体の中に、電流が走ったときのように、私ははっと肩を大きく上げる。でも、次の瞬間には、私の身体がふわっと浮き上がり、何か大きなものに抱きかかえられているような、そんな感覚に陥っていた。
どれほどの時間、私が意識を飛ばしていたのかはわからない。ふと、我に返ってみると、私が座っている隣のブランコには男の子の姿はなくて、奥のグラウンドでサッカーを楽しむ人たちの声だけが、響きわたっていた。
私は、停めてあった自転車にまたがると、もと来た道を帰り始める。初めて通った道だったけれど、なんとなく私の身体がここに来るまでの道を覚えていて、気がつけば小学校を通り越して、見慣れた景色の場所にたどり着いていた。
「あら、真理、もう来てたの。こんなところで、ぼんやりしちゃって、どうしたのよ」
いつしか、私は縁側のテラスに座って呆然としていたらしく、買い物袋を提げた母が、不思議そうに見つめていることに、ようやく気がついた。
「あぁ、お母さん」
とっさに声を出してみるも、母は、
「真理、ごめんね。こんなに早く来るとは思っていなかったから、お母さん、ちょっとそこまで買い物に出かけていたのよ。ほら、見て。このアジの開きが三枚で百円だったのよ」
と言って、悪びれる様子もなくパック詰めされたものを見せてくる。
「あっ、そうだったの」
と、私はまるで感情の籠らない声を出してしまったのだった。




