16.エピローグ1
年が明けて、また仕事が始まった。疲れた顔を浮かべながら部屋に帰ってくると、まるが玄関の上がり框に座って、私を出迎えてくれていた。
「ただいま。今日も頑張ったよ」
そう私が話しかけると、まるは満足したように、「ミャア」と鳴いた。
猫って、実に気ままな生き物。最近になって、まるの行動ターンがまた変わった。一日おきに、私の部屋と雄一さんの部屋に交互に入り浸っている。そう、今日は私の部屋で過ごす日だった。
まるに、スーパーで買った猫用のシーフード缶を開けてあげた。少し値が張ったけど、まるにはまだまだ元気でいてもらいたい。何しろ、私が中学三年生のときに仔猫だった子なので、人間で言うとおじいちゃんなのだ。母心ならぬ、飼い主心からかな。
そんな私の今夜のメニューは、半額で買ってきたチキン南蛮とサラダ、そして炊飯器で炊いたご飯。普段の生活を少し変えてみたくて、毎日ご飯を炊くようにしている。それまでの冷たくて硬いご飯に代わって、ふっくらとした温かいご飯は、やっぱり美味しい。この調子で、少しずつおかずも作っていこうかなと思っている。
夕食を終えたときに、スマホが鳴った。雄一さんからかなと思って出てみると、美里からだった。
「なんだ、美里かぁ」
「なんだはないでしょ。心配して、電話をかけたのに……」
不貞腐れたように美里が言ったので、私は慌てて謝る。母からの電話を待っていたと、嘘をついて。
「あの話、どうなったかが気になって、電話したんだけど……」
「あの話って?」
「えっ、真理、自分のことなのに忘れちゃったの? ほら、転職を考えているって話していたこと」
『転職』いうフレーズを聞いて、私は美里に相談していたことを思い出した。どう答えようかと、ほんの少し迷いつつ、私はこう答えた。
「ごめんね、心配かけてしまって。あれから色々考えてみたんだけど、やっぱり今の仕事をもう少し頑張ってみようと思うの」
それを聞いた美里は、「そうなんだ……」と、驚くでも慌てるでもないような口ぶりで答えた。
「ほら、美里、私に話してくれたでしょ。誰かのために仕事を頑張るって話を」
「えっ、そうだったかな」
と、あいまいに返事する美里。きっと美里のことだから、前に私に電話をくれたときに、だいぶ酔っていたのかな。頑張った自分へのご褒美とか言って、毎晩お酒を楽しんでいると、前に話していたから。
「うん、そうだよ。美里の話を聞いて、私、今の仕事を続けながら自分にできることを探してみようと思ったの」
そう話したところで、今日あった出来事のことを続けようかと思ったが、やめた。自分でも、それが、美里が言った誰かのために仕事をすることにつながっていると、まだ自信を持って言えなかったから。
今日、職場の病院で、たまたまオフィスを出て病棟に行くことがあって、たまたますれ違った患者さんに、「笑顔が素敵ですね」と声をかけた。何があったのかはわからなかったけど、にっこり笑ったおばあちゃんだったので、ふと声をかけてみたくなったのだ。そしたら、その患者さん、「あら、嬉しいわ。そんなことを言ってもらったの、随分久しぶりだから、なんだか若返るような気がするわ」と、目に涙を浮かべながら答えてくれた。きっと、単調な入院生活を送る中で、ちょっとしたことでも心が動かされるのだろう。
その様子を見た私は、はっと我に返った。私にできることって、案外近くにあるのかも知れないと。私がやったことはごく些細なことだが、その患者さんがその日一日を元気で過ごしてくれたなら、私が声をかけたことは意味があったということ。毎日、たくさんの患者さんに声をかけることで、明るい気持ちになってくれたら嬉しいし、他にどんなことができるかを考えるモチベーションにもつながる。
縁あって、この病院に勤めている訳だし、ここで働くからには、私らしく働いていたい。だから、毎日、まわりの様子をしっかり見て、私にしかできないことを考えていこうと思う。そして、いつかこの仕事が、私の『天職』になればいいなと思っている。
美里は、とりあえず私が今の仕事に留まることを聞いて安心したのか、それ以上は触れなかった。それよりも、美里が次に言った言葉に、私は飛び上がりそうなほど驚いた。
「ところで、ねぇ、真理。私ね、実は結婚するの」
「えっ、結婚? 美里、おめでとう」
なんとなくわかっていたけれど、思わず自分のことのように喜んでしまった。
「そのことで、私、真理に聞いてもらいたいことがあって、前に電話をかけたんだけど、なんだか話すタイミングを逃しちゃって……」
前の電話とは、私が美里に、転職のことを相談したときのことを指しているのだろう。そんな人生で一番幸せな日の前に、何か悩んでいることでもあったのだろうか。それとなくそのことを訊いてみたが、美里は、
「うんん、大したことじゃなかったの。ただ、結婚を決める前に、どうしても真理の声が聞きたくなって……」
と、語尾を幾分弱めながら話した。
なんとなく、美里の言いたいことがわかるような気がした。もしかしたら、私に背中を押してもらいたかったのかも知れない。そう、私がこれまでに何度も、「そんなことでクヨクヨしていちゃ駄目。なんとかなるよ」と、言ってもらっていたみたいに。
私は、人生の門出を前にしている美里に、どんな言葉をかけてあげようかと考えた。ふと、思いついた言葉があって、スマホを耳に当てながら優しく微笑むと、できるだけ穏やかな声で言った。そう、あの人が私の耳元で囁いてくれたみたいに……。
「大丈夫、大丈夫だよ。何にも心配いらないよ。美里は、美里のままでいいんだよ」
「えっ、私のままでいいって、どういうこと?」
とっさに訊き返す美里。
「結婚しても、美里らしく過ごしていて欲しいと思って……」
「えっ、うん……それはそうだけど……ねぇ、美里。私たち、これからもずっと友達でいようね。約束だよ」
不安げに話す美里に、私はとびきりの笑顔を作った。
「もちろんだよ。これからもずっと友達」




