12.第三章 雄一さん エピソード2
まるが帰ってこなくなった。一週間ほど前の朝、私と一緒に出たきり。それまでにも帰ってこないことはあったが、これほどの長い時間は初めてだった。
もしかして、事故に遭ったのかも……嫌な予感が頭を過る。齢を重ねたまるは動きが緩慢になっていたから、車が走ってきてもとっさに逃げられないのだ。そう思ったらいてもたってもいられなくて、私は毎晩のように家のまわりを探した。猫が行きそうな駅近くの狭い路地裏や、ねぐらにしていそうな資材置き場の中も。だけど、どこを探しても、まるは見つからなかった。
途方に暮れていたとき、ふと私が立っているそばの電柱に目が行った。『この子を探しています』と大きく手書きされた迷い犬のポスター。それを見て、私もポスターを作ってみようと思った。まるの写真なら、スマホの中に何枚も保存してあったので、コンビニの複合機でプリントしてみよう。
早速、私は、ポスター作りに取りかかった。A4の白い紙に手書きで、『まるを探しています』と見出しを書いて、まるの体の色とか人慣れしている様子とか、知っていることを全部書いた。コンビニで、まるの写真を十枚ほど印刷した。まるが私にすり寄ってきたときを狙って撮った写真。雨に濡れないように、百円ショップで買ってきた透明ビニールに入れてしっかり封をする。
どこに貼ろうかと迷ったが、とにかく人目につくところの方がいいだろうと思って、まるが立ち寄りそうな場所を考えて、その近くの通りの電柱に貼った。
「大丈夫、まるのことをこれだけたくさん書いたんだもん。まるを見つけた親切な人が、きっと連絡をしてきてくれるわ」
最後のポスターを貼り終わった私は、そう自分に言い聞かせると、とぼとぼと部屋に戻った。
戻った途端に、スマホが鳴った。
「えっ? もしかしてまるが見つかったの、こんなに早くに?」
はやる気持ちを抑えて、スマホの画面を表示させてみる。『美里』の文字が表示されていて、「なんだ、美里かぁ」と、肩を落とす。何も、こんなときにかけてこなくてもいいのにと思ったけど、出なかったら出なかったで、私が電話を取るまで何度もかけてくることが目に見えていたから、しぶしぶと言った感じで、電話に出た。
「真理、こないだはありがとう。私、すっかり酔っちゃってさ」
「ありがとう」と言われて、その意味がすぐにはわからなかったが、酔ったというフレーズで、美里と飲みに行ったことをとっさに思い出す。
「えっ、うん……気にしないで」
声のトーンを下げたのは、まるのことが心配だったことに加えて、美里と飲んだことが、公園で見つけたあの仔猫のことを思い出すきっかけになっていたから。今の私の頭の中は、猫のことでいっぱいなのだ。
「どうしたのよ、真理。なんだか、元気がなさそうじゃない」
「えっ、うんん、なんでもないよ」
なんでもないことはないのだが、まるのことを今は話したい気分ではなかった。
「なんでもないことないじゃない。真理の言葉が、何かあることを語っているよ。ほら、私に話してみてよ」
美里はなおも、私が何を考えているのかを聞き出そうとしている。私が、なんでもないことをどれほどアピールしたとしても、この美里にはそれが通用しないことは、これまでに長く付き合ってきたのでわかっている。私は、どうしようかと視線を彷徨わせてから、
「あのね、転職って、どう思う?」
と、訊いた。いや、自分の意思でそうしたというよりも、口が勝手に喋ったといった感じ。自分の口でそう言っておきながら、言ってから「しまった」と悔いてしまった。
当然、それを聞いた美里は、
「えっ、真理、転職を考えているの?」
と声を大にして訊き返してきたが、私が、「うん……ちょっとね」と自信なさげに呟いた後に美里が放った言葉は、ある意味で私の心の中のざわめきを鎮めるものになった。
「何があったのかはわからないけど、私は転職には賛成するよ」
「えっ、そっ、そうなんだ……」
「賛成する」なんて言葉が、美里の口から出るとは意外だった。いつもなら「何があったのかはわからないけど、小さなことにクヨクヨしていちゃ駄目」って即断されるところだが、なんとなくいつもの美里とは調子が違うように感じた私は、思い切って今の仕事のことを打ち明けることにした。仕事に面白みを見出せずにいることや、失敗ばかりしていて意欲を失いかけていることも、正直に話した。
美里は、途中で口を挟むことなく最後まで私の話を聞くと、少し間を取ってから口を開いた。
「私はね、今の仕事が自分に合っていると思うんだ。そりゃ、保育士の仕事は毎日忙しいし、しんどいことも多いけど、私が頑張った分、園の子供たちが喜んでくれたり笑っていてくれたりする。だから、また頑張ろうと思えるって感じかな。そうやって、私が頑張っているうちに、私にできることが少しずつ増えていって、それが自分の成長にもつながっていく。私ね、仕事って、初めは誰かのためにやるものだと思うんだ。私の場合は、その誰かっていうのが、園の子供たちかな。その子供たちに一生懸命向き合っているうちに、スキルアップしていく自分がいることに気づいて、もっと私にできることがあるんじゃないかって、考えている自分がいたんだ。それを考えるのがなんだか楽しくてさ。そういうのを、働きがいと言うのかな。いつの間にか、私は自分自身のために仕事をしていたんだって、ある日気づけたんだ」
「自分のためかぁ……」
「そうだよ、自分のため。真理は、今、病院に勤めているでしょ。病院なら、真っ先に考えないといけない相手は、患者さんだよね。でも、真理が今やっていることが、患者さんのためになっていると思えないのなら、その仕事は真理にとって、楽しくなくて当然だよ。だって、頑張ったことが真理に返ってきていないんだから……」
「うん……確かにそうかも……」
そう呟きながら、自分の働き方に考えを巡らせてみる。確かに、美里の言う通りだった。私は病院に勤めているけど、患者さんの顔が見えない部署にいるので、私の頑張りが患者さんと直接つながっている訳ではない。だから、患者さんが元気になって退院していく姿を見かけることもないし、感謝されることだってない。
でも、私がやっている経理の仕事って、誰かがやらないといけない仕事でもある。地味だけど、私の働きによって、病院がまわっているとも考えられる。だけど……。
「ほら、中学三年生のときの先生が、言ってたじゃない。人生は一度限りだから、後悔するなみたいに……」
「えっ?」
中学三年生のときの先生の話が出て、私はドキッとした。『転職』を考え始めたときに、ふと思い出した言葉だった。
「私さ、あの先生は苦手だったけど、先生が言ったその言葉だけは心に残っているんだ。だから、後悔しないように、今の私にできることを一生懸命頑張ろうって……」
その言葉に、今度ははっと肩を上げる。今の私って、一生懸命になれているのだろうかと、考えてみた。確かに、言われたことはそれなりにこなしている。お金を扱う部署だから、慎重にも慎重を重ねて。だけど、自分にできることを一生懸命考えているかと訊かれれば、そうではないような気がする。そりゃ、仕事なんだから軽い気持ちでやっている訳ではないけれど、私に何ができるのかが見えない。いや、探そうとしていなかったのかも知れない。
「転職って、勇気がいると思うんだ。見知らぬ場所に飛び込んでいく訳だから。でも、もしかしたら、その先に真理がやりがいを感じて、自分らしく働ける場所が待っているかも知れないじゃない。だから、私は、迷ったら転職はアリだと思うよ。いろいろなことをやってみるのも一つだと思うし……」
「えっ、うん……そうだよね。ありがとう。ちょっと、自分で考えてみるよ」
私がそう答えたところで、電話越しにチャイムが聞こえた。
「あっ、真理、ごめんね。宅配便が届いたんだ。また、電話するね」
慌てたように電話を切る美里。待ち受け画面に戻ったスマホをぼんやり見つめながら、私はベッドの上から動けずにいた。でも、美里に話を聞いてもらったことで、なんとなく気持ちが楽になり、目の前の暗闇に、ほんの少しの光が差したような気がする。
「ところで、美里は、何か用事があって電話をかけてきたんじゃなかったのかな?」
なんだか私のことばかり話してしまって申し訳ない気持ちになったが、美里のことだから、何かあればまた電話をかけてくるだろうと思って、考えないようにした。




