第10話 勇者が来るので村を出ようとしたら、「勝手に恩人になるな」と叱られました
夜逃げというものは、もっと静かにやるものだと思っていた。
少なくとも、工具箱を足の上に落として、声にならない悲鳴を噛み殺すようなものではない。
「……何をやってる、ラウル」
背後から声をかけられ、俺は片足を押さえたまま固まった。
振り返ると、工房の戸口にバルドが立っていた。寝間着の上から古い外套だけを引っかけ、義手の指で扉の枠を掴んでいる。眠そうな顔をしているくせに、目だけは少しも笑っていなかった。
「片付けです」
「ほう。旅鞄に着替えを詰めて、水袋を満たして、保存食まで持ち出す片付けがあるとは知らなかった。俺も長いこと職人をやってきたが、まだまだ世の中には知らん仕事があるらしいな」
「嫌味が長いですよ」
「逃げる奴を捕まえたんだ。これくらい言う権利はある」
否定できず、俺は視線を逸らした。
神造炉ヘスティアに刻まれていた封印が壊れた瞬間、空へ白い光が立ち昇った。遠く離れた場所からでも見落としようのない、教会の追跡術式だ。
さらにアギスが、街道をこちらへ向かう複数の騎馬を感じ取っている。
誰が来るのかなど、考えるまでもなかった。
「ここにいたら村を巻き込みます。目的はセラとヘスティアでしょう。俺たちが村を出れば、戦う理由はなくなる」
「それは誰が決めた?」
「誰って……状況を考えれば」
「聞き方が悪かったか。お前が出ていくことを、セラたちは承知しているのか。ハンネ婆さんには話したのか。村の連中に、勇者が来るから俺は消えますと説明したのか」
「今から起こして説明して、それで引き止められたら、出発が遅くなるじゃないですか」
俺なりに正直に答えたのだが、バルドの眉間の皺は深くなった。
「つまりお前は、話し合ったら反対されると分かっていた。分かっていたから、みんなが寝ている間に勝手に決めた。それを世間じゃ、気遣いじゃなくて独りよがりと言うんだ」
「独りよがりでも、村が無事なら構いません」
「構うんだよ。お前は昔から、自分が損をすれば丸く収まるって顔をするがな、その計算には周りの気持ちが入っていない。恩を返したい奴もいれば、何も返せないまま追い出したことを後悔する奴もいる。怖いから出ていってほしい奴だっているだろう。そいつらが自分で悩んで、自分の口で答えを出す権利まで、お前が勝手に取り上げるな」
「……俺に出ていってほしい人の意見まで、聞けって言うんですか」
「当然だ。まさかお前、全員から好かれてると思ってたのか?」
「そこまでは思ってませんけど、もう少し言い方がありませんかね」
「夜逃げする馬鹿に使う、優しい言葉の在庫を切らしてるんだ」
バルドは工房へ入ると、俺がまとめていた旅鞄を義手で持ち上げた。そのまま棚の上へ載せようとして、思ったより重かったのか、顔をしかめて右手も添える。
「だいたい、何をこんなに詰めた?」
「必要な工具です」
「金床まで持っていくつもりだったのか」
「小型です」
「重さの話をしてる。大きさの話じゃない」
呆れたように吐き捨てたあと、バルドはふいに真顔になった。
「ラウル。勝手に恩人になろうとするな。助けて、何も言わせず姿を消して、それで自分だけ納得するんじゃねえ。そういう綺麗な別れ方はな、残された側にとっては案外たちが悪いんだ」
返す言葉を探しているうちに、工房の外で杖が地面を叩いた。
「まったく、そのとおりだよ」
ハンネが立っていた。
頭には寝癖がついたままで、片手には杖、もう片方の手には空の鍋を提げている。なぜ鍋なのかは分からない。
「ハンネさん。いつから聞いてました?」
「金床を持って逃げようとしていた辺りからだね。薄情者のくせに荷物だけは重いんだから、世話が焼けるよ」
「薄情と言われる筋合いは……」
「ある。村長である私に何の相談もなく、村を守ったつもりになって消えようとした。朝になったら空っぽの工房だけ残っていて、私たちが『仕方なかったね』と納得するとでも思ったのかい?」
「納得はしなくても、安全ではいられます」
「安全にさえしてやれば、何を奪ってもいいって考え方は、あんたの嫌っている教会とどう違うんだろうね」
痛いところを、まるで狙っていたように刺してくる。
俺が黙ると、ハンネは鍋の底で俺の脛を小突いた。
「朝になったら集会を開く。全部話しな。聖剣がどうして壊れたのか。あんたがどうして追放されたのか。あの子たちが何者で、誰が迎えに来るのかもね」
「話したら、村が割れますよ」
「人が集まって暮らしてるんだ。意見くらい割れる。割れない村なんてのは、誰かが黙らされている村だけだよ」
ハンネはそこで大きな欠伸をすると、持っていた鍋を俺に押しつけた。
「それと、夜食を作ろうと思ったんだけどね。バルドに火を使うなと言われた」
「賢明な判断です」
「二人とも、そこへ座りな。夜が明けるまで、私の料理のどこが悪いのか話し合おうじゃないか」
「俺、やっぱり今すぐ村を出てもいいですか?」
「駄目だ」
バルドとハンネの声が、腹立たしいほど綺麗に重なった。
◇
翌朝、集会所には村で動ける者のほとんどが集まった。
椅子が足りず、壁際に立っている者もいる。子供たちは普段と違う空気を察し、親のそばで口を閉じていた。
俺の隣にはセラが立ち、その反対側にはアギスが腕を組んでいる。ヘスティアは俺の上着の裾を掴み、時折、不安そうに窓の外を見ていた。
最初に口を開いたのはハンネだった。
「先に結論から言うよ。今日の昼前には、王都の勇者一行がこの村へ来る」
ざわめきが広がった。
「勇者って、あのユリウス様か?」
「どうしてこんな辺境に……」
「魔物が出たんじゃないのか。だったら助けに来てくれたんだろ?」
期待を含んだ声さえあった。
王都から遠いこの村でも、勇者ユリウスの名は知られている。教会に選ばれ、聖剣を授かり、魔王討伐の旅に出た英雄。国中へ伝わっているのは、そういう物語だ。
ハンネはざわめきが収まるまで待ってから、俺を見た。
「ラウル。あんたの口から話しな」
逃げたくなった。
昨夜、村を出ようとしたときよりも、今のほうがよほど逃げたかった。工具なら壊れた箇所を見つければいい。人間を相手にすると、自分のどこを見せれば壊れずに済むのかさえ分からない。
「俺は以前、勇者パーティーで武器の修理を担当していました」
「勇者様の仲間だったのか?」
「仲間と呼ばれていたかは分かりません。少なくとも、食事の席はいつも別でした」
何人かが、笑っていいのか迷った顔をした。
「聖剣セラフィナが壊れたとき、俺はその責任を負わされ、パーティーから追放されました。ですが、俺が壊したわけではありません。ユリウスが俺の警告を聞かず、刃こぼれしたまま無理に使い続けた結果です」
空気が変わった。
すぐに信じる者はいなかった。それでいい。むしろ、そのほうが普通だ。
壁際にいた痩せた農夫が、遠慮がちに手を上げた。
「悪いけどよ、俺たちには本当かどうか分からん。ラウルには世話になってる。うちの犂だって直してもらったし、疑いたくはない。だが、向こうは国中で知られた勇者様だ。どっちを信じるかと急に聞かれても、俺は……子供が二人いるんだ。あんたに恩があるからって、家族まで危険に晒していいとは思えん」
「そのとおりだと思います」
俺が答えると、ハンネが杖で床を叩いた。
「すぐに理解のある顔をするんじゃないよ」
「でも、実際に正しい意見です」
「正しいことと、あんたが傷つかないことは別だ。相手が言いにくいことを口にした途端、『分かります』と先回りしてやれば、相手は楽だろうさ。けれど、あんたのほうには何も残らない。たまには腹が立った、悲しい、納得できないくらい言いな」
全員の視線が集まってしまった。
俺はしばらく迷い、農夫の顔を見た。
「では、正直に言います。俺がこの村でやってきたことより、会ったこともない勇者の肩書のほうが信用できると言われた気がして、少し傷つきました。あなたの事情は分かりますが、それでも、あまり嬉しくはありません」
農夫は気まずそうに首の後ろを掻いた。
「ああ……悪かった。ただ、意見を変えられるかは、まだ分からん」
「それで構いません。俺も、言ったら少し楽になりました」
「そうか。なら、その……犂のこととは別にして、話は最後まで聞く」
ひどく不器用なやり取りだった。
だが、昨夜一人で村を出ていたら、この気まずさすら残らなかったのだろう。
セラが一歩前へ出た。
「ラウルの話が信じられないのであれば、わたくしが証言いたします。わたくしは聖剣セラフィナ。ユリウス様が使用していた剣、そのものです」
村人たちの視線が、彼女の銀色の髪に集まる。
「わたくしを壊したのはラウルではありません。彼は何度も損傷を警告し、休ませるよう求めました。しかしユリウス様は聞き入れず、最後には力ずくで魔力を注ぎ込みました。折れたわたくしを修復したのがラウルです」
「でも、聖剣は勇者の持ち物なんだろう?」
別の村人が尋ねた。
「それならラウルが持ってきたのは、盗んだことにならないのか?」
「折れた剣は報酬の代わりに引き取ったんです。未払いの給金がありましたから。ただ、正式な書類はありません」
俺が答えると、再びざわめきが起こった。
「書類がないなら、向こうからは盗んだと言われるんじゃ……」
「言われる余地はあります」
「ありません」
強い声で遮ったのはセラだった。
「ラウル、どうしてあなたは、いつも相手の言い分ばかり先に認めるのですか」
「事実として、書類がないのはまずいだろ」
「では、わたくしの意思は書類より軽いのですか?」
「そういう意味じゃない」
「同じです。あなたはわたくしを庇っているつもりで、わたくしから証言する機会を奪おうとしている。昨夜もそうでした。何も言わずに村を出ようとしたのでしょう?」
バルドが余計な告げ口をしたらしい。目を向けると、素知らぬ顔で天井を見ていた。
セラは俺から村人たちへ視線を戻した。
「わたくしはユリウス様を選んでおりません。教会の儀式によって声と記憶の一部を封じられ、拒むことができないまま契約を結ばされました。壊れたあと、ラウルに修復されたことで、ようやく自分の意思を取り戻したのです」
「セラ。それは君の責任じゃない」
「分かっています。ですが、何も言えなかった自分を、わたくしはまだ許せないのです。あのとき一言でも声を届けられていたなら、ラウルが罪人として追放されることはありませんでした」
「だから、君が悪いんじゃない」
「あなたはそう言って、また話を終わらせようとする」
セラの声がわずかに震えた。
「悪くないと言われれば、苦しまなくなるわけではありません。仕方なかったと言われれば、悔しくなくなるわけでもないのです。わたくしは道具ですが、心まで都合よく扱わないでください」
返事ができなかった。
正しい言葉を選ぼうとすること自体が、彼女の気持ちを片付ける行為になる気がした。
「……分かった。まだ全部は分からないけど、分かったことにして話を終わらせるのはやめる」
「はい。それで結構です」
セラは澄ました顔に戻ろうとしたが、少しだけ目元が赤かった。
そのとき、俺の上着を掴んでいたヘスティアが、おずおずと手を上げた。
「わたしも、話していい?」
「もちろんだよ」
ハンネに促され、ヘスティアは村人たちを見回した。大勢の視線を浴びるのが怖いらしく、裾を掴む指に力が入る。
「わたしは、武器を作りたくないって言ったから、箱の中に閉じ込められた。教会の人は、神器は人間の言うことを聞けばいいって言った。でも、ここでは鍋を直させてもらった。ご飯はしょっぱかったけど、仕事は楽しかった」
「しょっぱかったは余計だね」
ハンネが口を挟んだが、誰からも異論は出なかった。
「わたし、まだこの村にいたい。明日のご飯も食べたいし、バルドに炉の使い方も教えてほしい。だから、勇者が怖いから逃げなさいって言われるのも、嫌。わたしが怖がって、自分で逃げるって言うならいい。でも、誰かに決められるのは、もう嫌」
アギスが大きな手で、ヘスティアの頭を撫でた。
「アタシも残る。理由は単純だ。この村の壁になると、自分で決めたからな。勇者だろうが教会だろうが、門をくぐるなら村長に挨拶くらいはしてもらう」
「戦う気か?」
村人の一人が不安そうに尋ねると、アギスは首を横に振った。
「相手次第だ。アタシは盾であって、喧嘩屋じゃない。ただし、誰かが嫌がる相手を無理やり連れていこうとするなら、少々話が変わる」
最後にハンネが立ち上がった。
「村として決めるよ。ラウルたちを今すぐ村から出すべきだと思う者は、手を上げな」
ためらいながら上がった手は、七つあった。
先ほどの農夫も手を上げている。だが、目を逸らしはしなかった。
「では、本人たちの意思を勇者へ伝え、その答えを聞くまでは村に留めるべきだと思う者」
今度は二十を超える手が上がった。どちらにも手を上げなかった者もいる。
「決まりだね。ただし、反対した者を臆病者扱いすることは許さない。残ると決めた者も、戦う義務はない。子供や怪我人は南の貯蔵穴へ避難させる。門へ出るのは私とラウル、それから神器たちだけでいい」
「俺も行く」
バルドが言った。
「義手の調子を見るには、実地が一番だ」
「戦うための腕じゃありませんよ」
「分かってる。だからお前がまた勝手にどこかへ行こうとしたら、襟首を掴むのに使う」
「ずいぶん用途が限定されていますね」
「職人の道具なんてのは、必要な仕事に使えればそれでいい」
集会が終わると、村は慌ただしく動き始めた。
武器を揃えるのではなく、子供たちを避難させ、火災に備えて井戸水を汲み、荷車の車輪を確かめる。ヘスティアに槍を作れないかと尋ねた者もいたが、バルドが「この子の最初の仕事を血で汚すな」と追い返した。
俺は壊れかけていた南門の蝶番を修理した。
戦う準備をしているのか、逃げる準備をしているのか、自分でも分からない。たぶん、どちらにも対応できるようにするのが、今の俺にできる仕事なのだ。
「ねえ、ラウル兄ちゃん」
工具を片付けていると、避難する前のニコが近づいてきた。
「勇者って、悪い人なの?」
ミラが慌てて息子の肩を抱く。
「ニコ、今それを聞かなくても」
「いいですよ」
俺は少し考えてから、ニコと目線を合わせた。
「勇者っていうのは、魔王を倒す役目を任された人のことだ。だから、勇者だから何をしても正しいわけじゃないし、一度間違えたから全部が悪い人になるわけでもない。ユリウスは……俺を追い出した。それは許せない。でも、あいつが魔物から助けた人もいる。人間は、ひとつの言葉だけじゃ、なかなか決められないんだ」
「よく分かんない」
「そうだよな。俺もよく分からない」
「七歳の子供に、そんな面倒な答えを返さないでください」
ミラに呆れられ、俺は頭を掻いた。
「簡単に言うと、会って話して、それから考える」
ニコはしばらく考えたあと、俺の小指を握った。
「じゃあ、ちゃんと帰ってきてね。帰ってきたら、勇者がどんな人だったか教えて」
「前に会ったことはあるんだけどな」
「今日の勇者のこと」
子供は、ときどき大人よりも面倒なことを言う。
昨日までと今日では、同じ人間でも違う。だから今日会った相手がどんな人間だったのか、自分の目で確かめてこいということなのだろう。
「分かった。約束する」
ニコたちが南へ向かって間もなく、北の街道に土煙が上がった。
先頭を走ってくるのは、白い外套をなびかせた金髪の男。
勇者ユリウスだった。
その後ろには、大剣を背負ったガルド、神官のマリエル、魔術師のヴァレッタが続いている。さらに距離を置き、教会の紋章を掲げた騎士が八人。
修復した北門の前には、ハンネが立っていた。
「ここから先へ入るのは、勇者一行の四人だけだよ。教会の兵は外で待たせな」
「我々は王命を受けている。辺境の村長ごときが条件を――」
「ここは王都の大通りじゃない。フェルム村だ。人の家を訪ねたなら、まず馬から降りて名乗るものだと、勇者様は教わらなかったのかい?」
騎士が剣の柄に手を伸ばした。
その瞬間、アギスが門柱へ背を預けたまま、ゆっくり目を開く。
「抜くなら止めないが、剣を握ったまま門をくぐれるとは思うなよ」
「やめろ」
低い声を発したのはガルドだった。
「ユリウス。話をしに来たんだろう。兵はここへ置いていけ」
ユリウスは不満そうにガルドを見たが、やがて騎士たちへ待機を命じた。
馬から降り、門を通り抜けた彼の視線が、俺の隣に立つセラを捉える。
その顔に浮かんだのは、驚きでも喜びでもなかった。
なくしたはずの所有物を、ようやく見つけた人間の安堵だった。
「セラフィナ。無事だったか」
ユリウスは当然のように手を差し出した。
「ずいぶん探したんだ。さあ、帰るぞ」
セラの肩が、ほんのわずかに強張る。
俺が一歩前へ出ると、ユリウスはようやくこちらを見た。
「ラウル。盗人として捕らえられる前に、聖剣を返してもらおう」
俺が答えるより早く、セラが前へ出た。
銀色の髪が、冷たい風に揺れる。
「――返す、という言い方はおやめください、ユリウス様」
彼女の声は静かだった。
けれど、その場にいた誰よりも、はっきりと怒っていた。




