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第5話 壊れた防壁と、聖剣の初めての夕食

 井戸の底から広がった白銀の光は、ほんの一瞬で消えた。


「今、光ったよね?」


 ニコが井戸を覗き込みながら尋ねた。


「僕、見たよ。水の中がぴかって光って、それから地面の下を何かが走った」


「水面に日が反射したんでしょう」


 ミラは息子の服を後ろからつかみ、井戸から引き離した。


「ほら、あまり身を乗り出さないの。せっかく井戸が直ったのに、あんたが落ちたら今度は人間を引き上げなきゃならないでしょう」


「落ちないよ。ちゃんと気をつけてる」


「朝もそう言って勝手に外へ出たでしょう。今のあんたが言う『気をつける』ほど信用できない言葉はないわ」


「でも、本当に光ったんだって。ねえ、セラフィナ姉ちゃんも見たよね?」


 ニコに尋ねられ、セラフィナは困ったようにラウルを見た。


 見たというより、彼女だけは明らかに何かを感じ取っていた。


「光が走る前、誰かが寝返りを打ったような音がしたと言ったな」


「はい。ただし、井戸の底から聞こえたわけではありません。もっと深いところです。わたしにも距離は分かりませんが、村全体の地下から響いてきたように感じました」


「地下水の流れが変わって、地盤が鳴った可能性もある」


「それでしたら、わたしが感じた魔力を説明できません」


「魔力があったのか?」


「ごくわずかですが、わたしと似た性質の魔力でした。けれど、同じではありません。よく知っているような気もするのですが、思い出そうとすると霧がかかったようになります」


「また壊れた魔力回路があるのかもしれないな」


 ラウルが言うと、セラフィナの表情が硬くなった。


「申し訳ありません」


「なぜ謝る」


「完全に直していただいたと思っていました。それなのに、まだ思い出せないことがあるのは、わたしに何か欠陥が――」


「待て。今のはお前の欠陥という意味じゃない」


「ですが」


「記憶というものは、魔力回路を直せば全部戻るほど単純じゃない。人間だって、昨日食べたものを忘れるだろう」


「ハンナは特に忘れるそうです」


「聞こえているよ」


 少し離れた場所にいたハンナが、杖で地面を叩いた。


「年寄りの耳が遠いと思って、好き勝手なことを言うんじゃない。昨日食べたものくらい覚えているさ」


「何を食べたのですか?」


 セラフィナが素直に尋ねた。


「……干した豆を煮たやつだよ」


「一昨日も同じでは?」


「豆は毎日食べても豆だろう。余計なことを覚えている聖剣だね」


「つまり、昨日食べたものを正確には覚えていないのですね」


「セラフィナ、それ以上追及しない方がいい」


「なぜです?」


「老人は自分が間違っていると分かるほど意地になるからだ」


「そこの修理屋も聞こえているよ」


 今度は杖がラウルの脛を叩いた。


「痛い」


「直せばいいだろう」


「生き物の怪我は直せないと言ったじゃないですか」


「なら、その減らず口を少しは慎みな」


 周囲から笑い声が上がった。


 まだラウルとセラフィナを警戒している者もいたが、先ほどより空気は柔らかくなっている。


 黒角狼を一撃で倒した力より、ハンナに杖で叩かれて文句を言う姿の方が、村人たちにとっては信用できる材料になったらしい。


「地下のことは、今すぐ調べるのかい?」


 ハンナが井戸を覗き込んだ。


「いいえ。先に防壁を見ます」


「随分あっさりしているね。正体不明の光が走ったんだろう?」


「だからこそです。何があるか分からない地下へ入るより、村を守れる状態にする方が先でしょう。井戸が光っても、今のところ水は出ています。防壁は壊れたままです」


 バルドが満足そうにうなずいた。


「ようやく俺の番か」


「その前に今日は休みます」


「何だって?」


「昨日の朝から寝ていません。灼熱竜と戦ったあとで山を下り、夜通し聖剣を修理して、灰牙狼を倒してから井戸を直しました。このまま働いたら、明日は俺の修理が必要になります」


「自分で無理をするなと言ったばかりだったな」


「はい。だから休みます」


「そこまで堂々と言われると、何も言えない」


「言っても働きません」


「本当に言い切るんだな」


 バルドは呆れながらも笑っていた。


 ハンナが村人たちへ振り返る。


「それなら、今日はここまでだ。狼を解体して、食べられる肉は保存するよ。皮と骨は捨てるんじゃない。修理屋が何かに使えるかもしれないからね」


「骨まで使うんですか?」


 ミラが尋ねた。


「灰牙狼の骨は丈夫です。防壁の補強材にできるかもしれません。牙や角には魔力が残っているので、街へ持っていけば売れます」


「街へ持っていくのは……」


 ミラの表情が曇った。


 ラウルはその変化に気づいたが、あえて問いたださなかった。


 この村の住民たちが、外から見つからないよう息を潜めていたことと関係があるのだろう。


「それでは、牙と角は俺が預かります。今後、修理に必要な材料と交換できるかもしれません。勝手には売りません。売る場合は、誰の取り分にするのか先に決めましょう」


「全部あんたが持っていけばいいじゃないか」


 バルドが言った。


「狼を倒したのは、あんたとセラフィナさんだ。俺たちは見ていただけだぞ」


「村へ来た狼だから、村の物だと考える人もいるでしょう」


「そんなことを言うやつがいるか?」


「人間は、金にならないときは押しつけ合い、金になると分かった途端に自分の物だと言い出します。俺は何度も見てきました」


「勇者パーティーでか?」


「勇者パーティー以外でもです」


「嫌な経験だけは豊富なんだな」


「修理屋をしていると、壊れた理由を聞くことになりますから。そこで大抵、持ち主同士の醜い言い争いも聞かされます。夫が勝手に使った、妻が手入れしなかった、息子が落とした。俺が知りたいのはどこへどれくらいの力がかかったかだけなのに、一族三代の不満まで説明されることもあります」


「壊れた物より、人間を直す方が難しそうだ」


「人間は直せないので、最初から諦めています」


「その割に、いちいち話を聞くんだな」


 ラウルは答えなかった。


 直せないからといって、聞かずにいられるわけでもない。


 それを自分の美点だと思ったことはなかった。むしろ余計なものまで抱え込み、手放せなくなる悪い癖だと考えている。


 村人たちが灰牙狼の解体を始めると、ラウルは鍛冶場へ戻った。


 奥にある居住部屋を確認したところ、ハンナの言った通り、屋根に大きな穴が空いていた。寝台も一つだけ残されていたが、藁の詰め物は湿気を吸い、布は鼠にかじられている。


「これは、寝る前に直す必要があるな」


「わたしが見張っていますので、ラウルだけ眠ってください」


 セラフィナは寝台の前へ立った。


「お前は眠らなくていいのか?」


「必要ありません。剣の姿へ戻れば、休息も不要です」


「人の姿だと眠くなる可能性は?」


「分かりません」


「なら、試してみた方がいい」


「ラウルと一緒にですか?」


「なぜそうなる」


「寝台が一つしかありません」


「お前は寝なくてもいいと言ったばかりだろ」


「ですが、試してみた方がよいとラウルが言いました」


「床に藁を敷く。俺がそっちで寝るから、お前は寝台を使え」


「お断りします」


 即答だった。


「どうしてだ」


「主を床へ寝かせ、自分が寝台を使う剣など聞いたことがありません」


「人の姿で寝る剣自体、聞いたことがないんだよ。それに俺は主になると承諾していない」


「臨時の主です」


「あれは灰牙狼と戦うときだけの話だ」


「終了の宣言を聞いていません」


「今、終了を宣言する」


「却下します」


「主の命令を剣が却下するのか?」


「ラウルは主ではないとおっしゃいました」


「こういうときだけ話を利用するな」


「自分のことは自分で決めてよいとも言われました」


「それも便利に使うな」


 セラフィナは表情をほとんど変えていない。


 しかし、青い瞳だけは楽しそうだった。


 剣だった頃に抑え込まれていた反動なのか、彼女は少しずつ自己主張を覚えている。それ自体は悪いことではないが、相手をするラウルにとっては、かなり面倒だった。


「とにかく、寝台を直してから考える。今はそこをどいてくれ」


「わたしも手伝います」


「寝台を直した経験はあるのか?」


「過去の所有者の中に、宿屋の息子がいました」


「勇者にもいろいろいるんだな」


「彼は剣の腕より、寝台を整える方が得意でした」


「どうして勇者に選ばれたんだ」


「わたしも知りたかったのですが、聞けませんでした」


 二人で寝台を分解し、傷んだ部分を確認した。


 使えない藁を捨て、残っていた木枠へ別の板を継ぎ足す。修理を終える頃には、日が傾いていた。


 扉の外からニコが顔を覗かせる。


「兄ちゃん、セラフィナ姉ちゃん。ご飯だって」


「分かった。すぐ行く」


「今日は狼の肉だよ。ハンナ婆ちゃんが煮てる」


「ハンナさんが?」


 ラウルは昨日の食事に関する会話を思い出した。


 靴底を煮た味がする。


 亡くなった夫からそう評されたスープを作る人物である。


「どうしました?」


 セラフィナが不思議そうに尋ねる。


「いや。疲れているから、何を食べてもおいしいと思う」


「食べる前から自分に言い聞かせていませんか?」


「そんなことはない」


「目をそらしました」


「聖剣は細かいことを気にするな」


 夕食は、村の中央にある少し大きな家で振る舞われた。


 住民全員が一度に入れる建物はそこだけらしく、長い卓の左右に木の椅子や箱を並べて座っている。


 大鍋の中では、灰牙狼の肉と干し豆が煮込まれていた。


 見た目は悪くない。


 香りも、少し薬草が強いものの食欲をそそる。


 ハンナが木の器へ煮込みをよそい、ラウルの前へ置いた。


「さあ、食べな」


「いただきます」


 肉を一切れ口へ運ぶ。


 噛んだ瞬間、ラウルの歯が跳ね返された。


 硬い。


 獣肉だからという水準ではない。


 何時間煮れば、この肉をここまで硬く保てるのだろう。むしろ一種の技術ではないかと思った。


 味は塩辛く、薬草の苦みが舌に残る。そのあとから豆の甘さが追ってきたが、すぐに正体不明の酸味に邪魔された。


「どうだい?」


 ハンナが尋ねた。


 卓を囲む村人たちの視線が、ラウルへ集まる。


 皆、黙々と食べている。おそらく長年、この味に耐えてきた者たちだ。ここでラウルだけが余計なことを言えば、今後の人間関係に響く可能性がある。


「肉の歯応えが、しっかりしていますね」


「硬いってことかい?」


「噛むほど味が出ます」


「最初から味がないってことかい?」


「薬草の風味が独特です」


「苦いんだね?」


「ハンナさん。褒められるのが嫌なら、最初から感想を聞かないでください」


 ラウルが観念して言うと、村人たちが一斉に笑い出した。


「ごめんなさい、ラウルさん」


 ミラが笑いをこらえながら言った。


「ハンナさんの料理は昔からこうなの。私たちも交代で作ろうとしたんだけれど、自分が村長なのに人へ仕事を押しつけられないって聞かなくて」


「食べられるんだから問題ないだろう」


 ハンナが不満そうに言った。


「腹へ入れば同じだよ」


「同じではありません」


 セラフィナが、真剣な顔で煮込みを見つめていた。


 初めての食事を前に緊張しているらしい。匙で豆をすくい、何度か角度を変えて観察している。


「毒は入っていませんか?」


「入れていないよ。少なくとも、あたしにはそのつもりはない」


「その答えは不安になります」


「セラフィナ。少しずつ食べればいい」


 ラウルが声をかけると、彼女は覚悟を決めて口へ運んだ。


 ゆっくりと噛む。


 青い瞳が大きく見開かれた。


「おいしいです」


 卓から笑い声が消えた。


 ハンナが目を細める。


「本当かい?」


「はい。温かくて、塩辛くて、苦くて、少し酸っぱくて、いろいろな感覚がします。水とは違います。口の中が、とても忙しいです」


「最後の方は褒めているのか分からないね」


「ですが、好きです」


 セラフィナはもう一口食べた。


 今度は狼肉を選び、何度も何度も噛み続ける。


「これは、いつ飲み込めばよいのでしょうか」


「無理なら出していいぞ」


「いえ。負けたくありません」


「食事に勝ち負けはない」


「先ほどから、肉が『噛めるものなら噛んでみろ』と言っています」


「武器以外の声まで聞こえるようになったのか?」


「例えです」


「例えを使えるようになったのか。直した影響が予想以上だな」


 セラフィナはようやく肉を飲み込み、満足そうに息をついた。


「ハンナ。お代わりをいただけますか?」


「もちろんだよ!」


 ハンナは途端に上機嫌になり、器からあふれそうなほど煮込みをよそった。


「遠慮せず食べな。まだたくさんあるからね」


「待ってください。初めて食事をするんです。急に食べすぎると、どうなるか分かりません」


 ラウルが止める。


「食べられると言っているんだから、好きにさせればいいだろう」


「ハンナさんは、自分の料理を褒めてくれる相手を逃したくないだけでしょう」


「そうだよ。悪いかい?」


「開き直らないでください」


 セラフィナは大盛りの器を両手で抱え、ラウルを見た。


「自分のことは自分で決めてよいのでしょう?」


「こういうときだけ、その言葉を出すな」


「お代わりを食べることに決めました」


「腹が痛くなっても知らないぞ」


「そのときは、そばにいてください」


「だから、俺は生き物を直せないと――」


「直してほしいのではありません。そばにいてほしいのです」


 ラウルは返す言葉を失った。


 セラフィナ本人は深い意味を込めた様子もなく、二杯目の煮込みを食べ始めている。


 周囲の村人たちは、面白そうに二人を見ていた。


「ずいぶん好かれているじゃないか」


 向かいに座ったバルドが言った。


「出会ってから、まだ一日も経っていません」


「時間は関係ないだろう。長く一緒にいても分からない相手はいるし、会ってすぐ気を許せる相手もいる」


「お前が言うと、妙に重いな」


「妻に逃げられた経験があるからな」


「結婚していたのか?」


「昔の話だ。腕を失って仕事ができなくなったら、ある朝、荷物をまとめて出ていった。手紙もなかった」


 バルドは淡々と話したが、器を持つ右手には力が入っていた。


「恨んでいるか?」


「最初はな。裏切られたと思ったよ。けど、あとで共通の知り合いから、あいつが俺の看病で借金を作っていたと聞いた。俺が自暴自棄になって酒ばかり飲むから、借金まで背負わせられないと逃げたらしい」


「それでも、黙っていなくなる必要はないだろう」


「そうなんだよ。あいつは俺のためだと思って黙って出ていった。俺は黙って出ていかれたことで、余計に傷ついた。人間は善意だけでも、人を傷つけるらしい」


「探さなかったのか?」


「探して何を言う? 戻ってきてほしいのか、謝ってほしいのか、それとも俺が謝りたいのか、自分でも分からなかった。そのうち時間だけが過ぎた」


 バルドは苦笑した。


「修理屋。壊れたものは、早いうちに直した方がいいぞ。放っておくと、どこが最初に壊れたのかも分からなくなる」


「肝に銘じておく」


 ラウルはスープを一口飲んだ。


 塩辛くて、苦くて、酸っぱい。


 やはりおいしいとは言えなかったが、先ほどよりは食べやすく感じた。


 食後、ハンナが村の事情を話してくれた。


 フェルム村は、かつて近隣の鉱山で栄えていた。しかし二十年前に鉱脈が枯れ、若者が次々と村を出た。残った住民も、魔物の増加と領主の重税に耐えられず、十年前にほとんどが土地を捨てたという。


「それでは、皆さんは元からこの村にいた人ではないんですね」


「あたしと、あと二人だけは元の住民さ。ほかは戦や飢饉で行く場所をなくした連中だよ」


「領主は、このことを?」


「知らない。知れば税を取りに来る」


「収穫もほとんどないように見えますが」


「何もなくても取るのが税さ。払えなければ、代わりに働けと言う。男は鉱山、女は領主の屋敷、子供は町の工房へ売られる。ここへいるのは、それが嫌で逃げた連中ばかりだよ」


「だから、外から来た俺に気づいても隠れていたのか」


「そういうことさ。あんたが役人や奴隷商人と繋がっている可能性もあった」


「俺が炉に火を入れたことで、煙が出た」


「ああ。灰牙狼だけじゃなく、人間に見つかる可能性もある。そういう意味でも、あんたには責任があるよ」


 ハンナの言葉は厳しかった。


 けれど、間違ってはいない。


「分かりました。明日からは煙が外へ出にくいよう、煙突を直します。それから、遠くから村が見えないよう防壁と門も整える」


「村に残るのかい?」


「契約した分は働きます。追手が来ない限りは」


「それでいい」


 ハンナは立ち上がった。


「今夜はゆっくり眠りな。明日から、嫌というほど直す物があるからね」


 鍛冶場へ戻ると、ラウルは修理した寝台へ腰を下ろした。


 食事をしたせいか、急に眠気が押し寄せてくる。


「セラフィナ。お前は大丈夫か?」


「何がでしょう」


「食べすぎただろう。腹は痛くないか?」


「今のところは問題ありません。ただ、身体が温かく、少し重いように感じます」


「眠いんじゃないか?」


「これが眠気ですか」


「たぶんな。寝台を使え」


「ラウルも使ってください」


「狭い」


「詰めれば二人で眠れます」


「そういう問題じゃない」


「では、剣の姿になります。わたしを抱いて眠ってください」


「それも嫌だ。寝返りを打ったとき、自分の身体を斬りそうだ」


「鞘へ入れば安全です」


「そもそも人間は、剣を抱いて寝ない」


「ユリウスは、何度か抱いて眠っていました」


 ラウルは眉をひそめた。


「どういう状況だ」


「戦勝祝いで酒を飲み、わたしを抱えたまま『俺は誰より強い』と繰り返していました」


「思い出した。あのあと俺が、お前を取り上げて手入れした」


「はい。ラウルの手は、とても優しかったです」


「妙な言い方をするな」


「事実です」


 結局、ラウルが寝台、セラフィナがその脇の椅子を使うことになった。


「眠くなったら起こせ。交代するから」


「分かりました」


「本当に起こせよ」


「分かりました」


「返事だけして、我慢するなよ」


「ラウルは心配性ですね」


「お前が我慢する性格だからだ」


「それでは、わたしが心配をかけるせいなのですね」


「責めているんじゃない」


「分かっています。少し嬉しかっただけです」


 ラウルは何か言おうとしたが、眠気に負けて目を閉じた。


 どれくらい眠ったのか。


 夜中に、金属を叩くような音で目を覚ました。


 かん。


 かん。


 遠くから、一定の間隔で響いてくる。


「セラフィナ?」


 椅子は空だった。


 ラウルは身体を起こし、鍛冶場の外へ出た。


 月明かりの下、セラフィナは村の東側を見つめていた。


 崩れた防壁の方角だ。


「何をしている」


「音が聞こえます」


「井戸の底で聞いたのと同じ音か?」


「似ていますが、今度はもっと近いです」


 かん。


 再び、金属音が響いた。


 ラウルにも聞こえた。


 誰かが夜中の工房で、巨大な金槌を振るっているような音だった。


「防壁からだな」


「はい。呼ばれているように感じます」


「誰に?」


「分かりません。ただ……」


 セラフィナは自分の胸元へ手を当てた。


「『遅い』と、怒っているような気がします」


 二人は灯りを持ち、崩れた防壁へ向かった。


 昼間に見たときは、古びた石壁にしか見えなかった場所だ。


 しかし今は、崩れた石の隙間から赤い光が漏れている。


「これは炎の光じゃない」


 ラウルは壁へ近づいた。


「魔力回路が生きている」


「ラウル、そこです」


 セラフィナが瓦礫の一部を指差した。


 数人がかりでなければ動かせない大石を、彼女が片手で持ち上げる。


 その下から現れたのは、黒い金属だった。


 壁の内部に埋め込まれた、巨大な円形の板。


 表面には無数の傷が刻まれ、中央から大きくひび割れている。それでも完全には壊れておらず、弱々しい赤い光を脈打たせていた。


 ラウルはそっと手を触れた。


 その瞬間、頭の中へ女性の声が響いた。


『遅い』


 低く、不機嫌そうな声だった。


『聖剣ばかり先に直して……ずいぶん楽しそうじゃないか』


 ラウルはゆっくりとセラフィナを見た。


「知り合いか?」


 セラフィナは円形の金属板を見つめ、珍しく気まずそうに目をそらした。


「……おそらく、神盾アイギスです」

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