第3話 修理屋が聖剣を握った結果
「魔物だ! お母さん、魔物が来た!」
子供の悲鳴を聞いた瞬間、ラウルは鍛冶場を飛び出した。
村の中央を通る道に、七、八歳ほどの少年が立っていた。片方の靴が脱げ、泥だらけの足で必死に走っている。少年の背後には、崩れかけた民家の間から次々と黒い獣が姿を現していた。
狼に似ているが、普通の狼より二回りは大きい。背中には灰色の骨が鎧のように浮き出し、口からは長い牙が覗いている。
「灰牙狼か。しかも、十二……いや、まだ後ろにいるな」
ラウルは少年へ駆け寄り、その身体を抱き上げた。
「おい、怪我はないか?」
「は、離せ! お母さんが、まだ家にいるんだ!」
「分かったから暴れるな。どの家だ?」
「あそこ! 屋根の半分がなくなってる家!」
「半分なくなっている家ばかりだろ。この村、屋根が無事な家を捜す方が難しいぞ」
「煙突が曲がってるところ!」
「煙突もだいたい曲がってるな……もういい、指差せ」
少年が泣きながら一軒の家を指差した。
見た目には無人の廃屋だ。だが、よく見ると窓の内側に布が張られ、屋根の穴も外から目立たないよう板で塞がれている。
この村には人がいた。
それも、最初からラウルに見つからないよう息を潜めていたらしい。
「ラウル、後ろです」
セラフィナの声に振り返る。
一頭の灰牙狼が飛びかかってきていた。
ラウルが身構えるより早く、セラフィナが前へ出る。彼女が片手を振ると、白銀の光が細い線となって走った。
灰牙狼は空中で身体を二つに裂かれ、ラウルの足元へ落ちた。
斬撃を放ったセラフィナ本人は、自分の手を見つめて首を傾げている。
「今、何をした?」
「斬りました」
「それは見れば分かる。剣を持っていないのに、どうやって斬ったのか聞いているんだ」
「わたし自身が剣ですから、人の姿でも斬撃は放てます。ただ、効率が悪いですね。本来の一割ほどしか力を出せません」
「今ので一割なのか……」
「いいえ。先ほどのは一割の状態から、さらに一分ほどです。村の中でしたので、家を壊さないよう抑えました」
「それを先に言ってくれ。お前を直したことで、俺はとんでもないものを世に放ってしまった気がしてきた」
「失礼です。わたしは何百年もの間、とんでもないものとして人間を守ってきました」
「胸を張るところなのか、それは」
「褒めていただいて構いません」
こんな状況でなければ、もう少し詳しく話を聞きたかった。
しかし、灰牙狼は一頭ではない。仲間を殺された群れが唸り声を上げ、村の中央へ集まってくる。
ラウルの腕の中で少年が震え始めた。
「兄ちゃんたち、逃げて」
「お前の母親がいるんだろ」
「でも、あいつら、たくさんいる。村のおじさんたちじゃ勝てない。前にも来て、そのときはハンスおじさんが腕を……」
「分かった。もう説明しなくていい」
「何が分かったんだよ」
「お前が怖くて仕方ないのに、それでも俺たちに逃げろと言える子供だってことが分かった」
ラウルは少年を抱いたまま、指差された家へ走った。
扉を叩く前に、内側から開く。
やせた女性が飛び出し、ラウルの腕から少年を奪うように抱きしめた。
「ニコ! あれほど外へ出るなって言ったでしょう!」
「だって、水がなくなって、お母さんが困ってたから……井戸を見てくるだけだったんだ」
「水よりあんたの命の方が大事なの! どうして、それくらい分からないのよ!」
「分かってるよ! でも、お母さん、昨日から何も飲んでないじゃないか!」
「それでもよ!」
母親は少年を抱きしめたまま、声を上げて泣いた。
怒っているのか、安心したのか、おそらく本人にも分かっていないのだろう。少年も「ごめんなさい」と言いながら泣き、しかし手には小さな木桶を握ったままだった。
ラウルが何と声をかければよいか迷っていると、家の中から年老いた女性が現れた。
白髪を後ろで束ね、曲がった背で杖をついている。年齢は七十を過ぎているように見えるが、鋭い目だけは若者にも負けていなかった。
「あんた、誰だい」
「ラウル。旅の修理屋です。昨夜、この村を無人だと思って鍛冶場を借りました」
「炉に火を入れたのも、あんたか」
「そうです」
「なら、灰牙狼が来たのはあんたのせいだね。煙の匂いで、ここに人間がいると気づかれたんだ」
「おばあちゃん、この人がニコを助けてくれたのよ」
「助けたからって、原因を作ったことまでなくなるわけじゃないよ。感謝と責任は別の話さ」
年老いた女性は、容赦なく言った。
少年の母親が困ったようにラウルを見た。
「申し訳ありません。この人は村長のハンナです。言い方がきついだけで、悪い人では……」
「フォローするなら、もう少し褒めるところを見つけな。言い方がきついのは自覚しているよ」
「だったら直してくださいよ」
「この歳で直すくらいなら、最初からそうなっていない」
ハンナは鼻を鳴らし、ラウルへ視線を戻した。
「それで、修理屋。どうするつもりだい」
「灰牙狼を追い払います」
「どうやって?」
「今、考えています」
「考えているうちに、あんたを囲む狼が増えているけどね」
ハンナの言う通りだった。
村の道には、二十頭を超える灰牙狼が集まっている。家々の扉が少しずつ開き、粗末な槍や斧を持った住民が姿を見せ始めた。
十六人ほどいるが、まともに戦えそうな者はいない。片腕の男性、腰の曲がった老人、顔に大きな火傷痕を持つ女性。武器も農具を無理に改造したものばかりだった。
「出てくるんじゃない!」
ハンナが杖で地面を叩いた。
「家に隠れていろと言っただろう!」
「ここで隠れていたって、家に入られたら終わりだ」
片腕の男性が、錆びた剣を構えながら答えた。
「前に襲われたときは、三頭だった。それでもハンスが腕を食われ、羊を全部持っていかれた。今回は二十頭以上だ。戦って駄目なら、せめて女と子供が逃げる時間くらい作る」
「その身体で何ができるんだい、バルド」
「何もできなくても、立っているくらいはできる」
「それで死んだら、残された妻と娘はどうする」
「死んだ後のことまで、俺に面倒を見ろっていうのか。生きている間のことだけで手いっぱいだ」
「格好をつけるんじゃないよ。あんたは昔から、ろくに考えずに前へ出る」
「考えているさ。考えて、どうしようもないから出るんだよ」
バルドと呼ばれた男の声は震えていた。
恐怖を隠すために怒鳴っているのが、ラウルにも分かった。
ラウルは戦士ではない。
勇者パーティーにいた三年間も、後方から予備武器を渡し、傷んだ装備を直すことが仕事だった。小型魔物と戦った経験はあるが、二十頭を超える群れを相手にできるほどの技量はない。
灰牙狼の向こうから、さらに低い咆哮が聞こえた。
群れが左右へ分かれる。
現れたのは、馬ほどの巨体を持つ黒い狼だった。額からねじれた角が生え、身体を覆う骨の鎧には無数の傷がついている。
「灰牙狼の上位種、黒角狼……」
ラウルは思わず呟いた。
勇者パーティーでも、黒角狼を討伐したことがある。
ただし、あのときはユリウス、ガルド、ヴァレッタの三人がかりだった。マリエルが負傷者を治療し、ラウルが武器を交換しながら、ようやく仕留めた相手だ。
バルドたちの顔から血の気が引いた。
「ハンナ婆さん。悪い。あれは無理だ」
「分かっているよ」
「俺たちが引きつける。その間に裏山へ逃げろ」
「だから、そんな身体で何を――」
「できるできないの話じゃない!」
バルドの声が裏返った。
「俺だって怖いんだよ! 本当は家の床下に隠れて、誰かがどうにかしてくれるのを待っていたい! でも、俺より前へ出られるやつがいないんだから、仕方ないだろ!」
恥じるように吐き出した言葉に、誰も何も答えなかった。
人間は、物語の英雄のようにきれいには覚悟を決められない。
逃げたいと考え、なぜ自分がと腹を立て、それでも他に誰もいないから前へ出る。勇気というものは、もっと格好のよい感情だと思われがちだが、実際はこういうみっともないものなのかもしれない。
ラウルはバルドの前に立った。
「俺がやります」
「修理屋が?」
「正直に言うと、俺も逃げたいです。昨日パーティーを追放されたばかりで、食事も睡眠も足りていない。命を懸けてまで、この村を守る理由があるのかと聞かれれば、ないと思います」
「それなら――」
「でも、ニコを助けてしまった」
母親に抱かれた少年を見る。
「一度抱き上げた子供を、今さら狼へ返して逃げるのは寝覚めが悪い。それに、俺が炉へ火を入れたことが灰牙狼を呼んだ原因なら、感謝と責任は別だと村長に言われましたから」
「年寄りの嫌味なんて、真に受けるんじゃないよ」
ハンナが苦い顔をした。
「今さら遅いです。昔から、客の苦情をいちいち真に受けるから商売に向いていないと言われていました」
「だけど、あんたに何ができる。腰の剣も短剣一本じゃないか」
「それは俺にも分かりません。ただ――」
ラウルは隣に立つセラフィナを見た。
「彼女なら、何とかできるそうです」
村人たちの視線が、初めてセラフィナへ集まった。
あまりに現実離れした美しさのせいで、混乱のなかではまともに認識できていなかったらしい。白銀の髪と光を織った衣を見て、何人かが息を呑む。
セラフィナは村人たちには目もくれず、ラウルだけを見つめていた。
「ラウル。わたしを使ってください」
「使うという言い方は、あまり好きじゃない」
「では、力を合わせてください」
「その前に聞いておく。無理はしていないか?」
セラフィナが目を瞬いた。
「直ったばかりだ。魔力回路が身体に馴染んでいない可能性もある。さっきは一割の力を出せると言ったが、それも過去の状態を基準にしているんだろう。今の自分がどこまで耐えられるか、分かっていないんじゃないか?」
「それは……そうですが」
「なら、やめると言ってもいい。俺はお前の主になると承諾した覚えもないし、お前に村を守る義務もない」
「わたしを使うのが怖いのですか?」
「怖い。直したそばから壊したら、今度こそ修理屋を名乗れなくなる」
「ご自分が傷つくことではなく、わたしが壊れることを心配しているのですね」
「どちらも心配している。俺だって怪我はしたくない」
「そこは格好よく否定するところでは?」
「人間味のある正直な男なんだ」
「ものは言いようですね」
セラフィナは小さく笑った。
初めて見る笑顔だった。
「大丈夫です。無理はしません。ユリウスに振るわれていたときと違い、今のわたしは自分の意思で戦えます。痛ければ痛いと言えますし、嫌なら嫌だと言えます」
「本当に言うか?」
「言います」
「格好をつけて我慢しないか?」
「あなたこそ、出会ったばかりの子供を助けるために格好をつけているではありませんか」
「俺の話はいい」
「よくありません。これから一緒にいるのですから、お互いに無理をしていないか確認するべきです」
「いつの間に、これからも一緒にいることが決まったんだ」
「先ほど決めました」
「お前一人で決めただろう」
「自分のことは自分で決めてよいと、ラウルが言いました」
「そこを利用するのか。直った途端、ずいぶん口が達者になったな」
「あなたが直しました」
「修理のやり直しは利くか?」
「返品はお断りします」
黒角狼が咆哮を上げた。
遊んでいる時間はないらしい。
セラフィナがラウルへ右手を差し出した。
「握ってください」
「手を?」
「わたしを剣の姿へ戻すには、主との接続が必要です」
「だから、まだ主になったとは――」
「では、臨時の主で構いません」
「臨時なんて制度があるのか?」
「今、作りました」
ラウルは呆れながら、その手を握った。
柔らかな指が絡む。手を握っただけなのに、セラフィナの記憶と感情が流れ込んでくるような、不思議な感覚があった。
白銀の光が二人を包んだ。
次の瞬間、ラウルの手の中に一本の聖剣が現れる。
折れる前と同じ剣ではなかった。
刀身に刻まれた七つの紋様が青白く輝き、柄にはラウルが溶かした古銀貨の紋章が刻まれている。それは、彼の修理を受けた証のように見えた。
『聞こえますか、ラウル』
セラフィナの声が頭の中へ響く。
「ああ。それより、ずいぶん軽いな」
『重量はラウルに合わせました』
「俺に剣術の才能はないぞ」
『知っています』
「即答するな。少しくらい気を遣え」
『ですが、問題ありません。剣の振り方は、わたしが導きます。ラウルは何を守りたいかだけを考えてください』
黒角狼が地面を蹴った。
巨体からは想像できない速度で迫ってくる。その後ろから、灰牙狼の群れも一斉に走り出した。
住民たちの悲鳴が上がる。
ラウルは両手で聖剣を握った。
怖くないわけではない。足は震え、喉は乾いている。勇者パーティーの後ろで何度も戦場を見てきたが、自分が先頭に立つのは初めてだった。
「セラフィナ」
『はい』
「さっきの約束を忘れるな。痛かったら、すぐに言え」
『ラウルも、怖ければ言ってください』
「怖い」
『早いですね』
「言えと言っただろ」
『では、一緒に怖がりながら戦いましょう』
セラフィナの声は笑っていた。
『右足を半歩前へ。肩の力を抜いてください。大きく振る必要はありません。わたしを信じて、横へ払うだけで十分です』
「どれくらい力を出す?」
『まずは一分です』
「さっき一分で一頭を斬っただろ。二十頭以上いるぞ」
『今は、ラウルが握っています』
聖剣から膨大な魔力が流れ込む。
それでも、痛みも重さもなかった。水が低い場所へ流れるように、魔力がラウルの身体を通って自然に循環していく。
『わたしが自ら選んだ主に握られるのは、これが初めてです』
黒角狼が牙を剥いた。
ラウルは、言われた通り聖剣を横へ払った。
白銀の光が、村の道を駆け抜けた。
音はなかった。
黒角狼も、灰牙狼の群れも、何が起きたのか理解できないまま動きを止める。しばらくして、その身体が次々と崩れ落ちた。
家も、道も、村人も傷ついていない。
魔物だけが、すべて一撃で斬り伏せられていた。
「……え?」
最初に声を出したのは、ラウルだった。
「セラフィナ。今のが、一分か?」
『はい。ラウルの身体への負担を考えれば、これくらいが適切かと』
「ユリウスが使っていたときより、明らかに威力が高いぞ」
『当然です』
「何が当然なんだ」
『ユリウスは、わたしの声を一度も聞こうとしませんでした。そのような人へ、どうして全力を貸さなければならないのですか』
「それでも灼熱竜を倒すくらいの力は貸していたじゃないか」
『あれは、竜に罪がないとは言い切れなかったからです。ユリウスのためではありません』
「お前、思っていたより根に持つ性格だな」
『何百年も我慢していましたから』
「そう言われると、何も言えない」
光が集まり、聖剣がセラフィナの姿へ戻った。
彼女はすぐにラウルの手を取り、指先から肩まで触って状態を確かめる。
「痛いところはありませんか?」
「大丈夫だ。それより、お前は?」
「わたしも大丈夫です」
「本当か?」
「はい。少し……嬉しくて、胸が苦しいだけです」
「それを大丈夫と言うのか?」
「痛いのとは違います。初めて、自分が誰かを選んで、その人に握っていただきました」
セラフィナはラウルの手を両手で包んだ。
「これが、剣にとって幸せというものなのですね」
ラウルが返事に困っていると、背後から木の棒が落ちる音がした。
振り返れば、村人全員が呆然とこちらを見ていた。
母親に抱かれたニコが、大きな目をさらに大きくしている。
「兄ちゃん……勇者様なの?」
「違う」
「でも、すごい剣を持ってた」
「剣はすごい。俺は違う」
「じゃあ、兄ちゃんは何なの?」
ラウルは答える前に、少し考えた。
追放された荷物持ち。
聖剣を壊した罪を着せられた無職。
王都へ帰れば、罪人として捕らえられるかもしれない男。
どれも間違いではないが、子供へ名乗るには長すぎる。
「修理屋だ」
「修理屋って、狼も直すの?」
「今のを見て、直したように見えたか?」
「ばらばらになった」
「なら、直してないだろ」
「そっか」
ニコはなぜか納得した。
その母親は、セラフィナを見たあと、無意識に子供を自分の背中へ隠した。ほかの住民たちも感謝より先に、ラウルたちを恐れるような目で見ている。
当然の反応だった。
得体の知れない男女が、黒角狼を含む群れを一撃で全滅させたのだ。助けられたからといって、すぐに信用できるはずがない。
セラフィナの表情がわずかに曇る。
ラウルは彼女の前へ立った。
「俺たちは今日中に村を出ます。勝手に鍛冶場を使ったことは謝ります。狼の素材は村で使ってください。それで、炉の薪代には足りると思います」
「勝手なことを言うんじゃないよ」
ハンナが杖をつきながら近づいてきた。
「村を出て、どこへ行くつもりだい」
「決めていません」
「金は?」
「ありません」
「食べ物は?」
「干し肉が少しだけ」
「寝床は?」
「それもありません」
「それで、よく出ていくなんて言えるね。あんた、修理の腕はあっても、自分の生活は相当壊れているようだ」
「否定できません」
ハンナは地面に倒れた灰牙狼と、壊れかけた家々を見回した。
「借りを作ったまま追い出したとなれば、あたしらも寝覚めが悪い。それに、ここには壊れたものが山ほどある。井戸、風車、家の屋根、それから村の防壁。直せるものが一つでもあるなら、食事と寝床くらいは用意するよ」
「先ほど、狼を呼んだのは俺のせいだと言いませんでしたか?」
「それとこれとは別の話だと言っただろう。あんたに責任があったとしても、村を救ったことまでなくなるわけじゃない。感謝と責任は別だよ」
「便利な言葉ですね」
「長く生きていると、自分に都合のいい理屈をいくつか持つようになるものさ」
ハンナは、深い皺の刻まれた顔で笑った。
「どうだい、修理屋。あんたの腕で、この壊れかけの村を直してみる気はないか?」




