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第30話 役に立つためではなく、自分で選んで雨を降らせます

「ネフェル、俺の声が聞こえるか!」


「聞こえてる……でも、脚が……!」


 ネフェルの身体が、見えない糸に引かれるように水門の方角へ向かっていく。


 ガルドが前へ回り込み、その両肩を押さえた。ネフェルの足は止まったものの、胸元へ浮かんだ銀色の杭が強く光り、修理したばかりの関節から嫌な軋みが鳴る。


「ラウル、早くしろ! 俺が止めるほど、こいつの身体が壊れる!」


「力を緩めてくれ。ただし転ばないよう支えるだけにしてくれ!」


「注文が難しいんだよ!」


 ネフェルの十二本の弦が、同じ旋律を繰り返していた。


『帰還せよ。守護対象を最優先せよ。自己の損傷を顧みず、指定された役目を遂行せよ』


「嫌……!」


 ネフェルは両耳を塞いだ。


 しかし、声は外から聞こえているわけではない。天候核の内側へ埋め込まれた命令が、彼女自身の声を使って響いている。


「私は戻らない! 水門は、みんなで直すって決めたの! 私が戻らなくても、壊れないようにするって……!」


『守護対象の生存を優先。個体意思を停止します』


「私の意思を勝手に止めないで!」


 銀色の杭が、さらに深く胸元へ沈んだ。


 ネフェルの目から表情が失われていく。


「まずい」


 セラがネフェルの前へ膝をついた。


「命令術式が、彼女の人格共鳴部を切り離そうとしています。このままでは、身体を動かすための機能だけが残ります」


「契約書の術式は切ったはずだ」


「これは別の術式です。契約書を介さず、天候核へ直接命令を送っています」


「送り元はどこだ?」


 アリアの投影が、ネフェルの胸元を走る魔力を解析する。


「村内から微弱な術式反応を検出。発信地点は、集会所付近です」


「司祭か」


 ガルドの声が低くなる。


 彼がネフェルを支えたまま顔を上げると、工房へ続く道の向こうから、マティアス司祭が走ってくるのが見えた。


「止めてください!」


 マティアスは息を切らしながら叫んだ。


「術式が、私の想定より強く起動しています!」


「てめえがやったのか!」


 ガルドがネフェルから片手を離し、司祭の胸倉を掴んだ。


「止めるために来た顔をしてんじゃねえ! お前が始めたんだろうが!」


「……はい」


 マティアスは否定しなかった。


「教区本部から、第二拘束術式を使うよう命令されました。従わなければ水門修理用の支援をすべて止め、四村への救恤金も打ち切ると」


「だからネフェルを売ったのか?」


「違うと申し上げたい。しかし、私がしたことは、そう呼ばれても仕方がない」


「ふざけるな!」


 ガルドの拳が上がる。


「ガルド、今は殴るな!」


「今じゃなきゃ、いつ殴るんだ!」


「術式を止めてからだ!」


「あとなら殴っていいんだな?」


「俺に聞くな!」


 マティアス司祭は抵抗せず、銀色の小さな鍵を差し出した。


「これが起動鍵です。ただし、一度起動すると、鍵だけでは解除できません」


「自分で始めておいて止められないのかよ!」


「緊急帰還術式は、命令を受けた神器本人が水門へ戻るか、天候核の内部から命令杭を除去するまで止まりません」


 俺はネフェルの胸元へ浮かぶ銀色の杭を見る。


 保護環の内側。


 修理の際、ネフェルの許可が得られず、俺が手を触れなかった場所だった。


「ネフェル」


 彼女の頬へ手を添える。


「胸の保護環を開かなければならない。中の命令杭を取る」


 返事がない。


 ネフェルの瞳から光が失われかけている。


「ネフェル、聞こえるなら答えてくれ。勝手には開けられない」


「こんなときまで許可を待つのですか!」


 マティアス司祭が声を上げる。


「今すぐ開かなければ、人格が消えるかもしれないのですよ!」


「だからって、本人が一番触られたくない場所を勝手に開けば、助けても同じことになる!」


「彼女が答えられなくなったら、どうするおつもりです!」


「答えられるうちに聞いてるんだ!」


 俺はネフェルへ呼びかけ続けた。


「俺だ。ラウルだ。胸を開いて、命令杭を取ってもいいか?」


「……ラ、ウル……?」


「聞こえるか?」


「私……戻りたく、ない……」


「戻さない。そのために胸元の保護環を開く。天候核は取らない。命令杭だけを外す」


「怖い……」


「ああ」


「また、胸を開いたら……核を取られるかもしれない……」


「怖いなら、俺の手を見ていてくれ。少しでも違うことをしたら止めろ」


「止めてって、言えなくなったら?」


「セラとアリアにも見てもらう。俺一人では触らない」


 ネフェルの視線が、そばにいるセラへ動いた。


「セラ……」


「ここにいます」


「ラウルが、私の核を取ろうとしたら……」


「私が斬ります」


「そこは手を止めさせるくらいにしてくれ」


「状況に応じて判断します」


「斬らないと約束してくれ」


「今はネフェルと話しています」


「……開けて」


 ネフェルが震える声で言った。


「命令杭を取って。私の身体を、また私に返して」


「わかった」


 俺はネフェルを工房の作業台へ運んだ。


 ガルドはマティアス司祭から起動鍵を取り上げ、そのまま彼の腕を後ろへ回す。


「逃げるなよ」


「逃げません」


「信用できると思うか?」


「できないでしょう。私自身、今の自分を信用できません」


「そういう言い方をすれば、反省してるように見えると思うなよ」


「思っていません」


「なら、もっと言い訳しろ。黙って罪人みたいな顔をされると、殴りにくいだろうが」


「ガルド、殴ることから離れてくれ!」


 ヘスティアが小さな炉へ火を入れ、セラがネフェルの天候核を安定させるため、十二本の弦を一本ずつ押さえる。


 アリアは保護環の構造を工房の壁へ拡大投影した。


「保護環内部に、全長六・二センチの異物を確認。製造年代は約百十七年前。先端が人格共鳴部へ接続しています」


「一気に抜けば?」


「共鳴部の一部が命令杭と共に剥離します。人格損傷率は六十八パーセントです」


「周囲を直しながら押し出す」


「推奨します。ただし、命令術式がネフェル本人の守護衝動を経由しているため、本人が帰還命令を受け入れた場合、復元に抵抗が生じます」


「私が……受け入れているの?」


 ネフェルが尋ねる。


「意識上は拒絶しています。しかし、『自分が水門へ戻れば四村を救える』という認識が、術式の侵入経路として利用されています」


「助けたいと思っただけなのに……」


 銀色の杭から、再び命令が響く。


『守護者は自己を犠牲にせよ。それこそが存在価値である』


「違います!」


 セラの声が工房へ響いた。


 彼女は十二本の弦を押さえたまま、ネフェルをまっすぐ見つめていた。


「その声は、あなたの声を真似ていますが、あなた自身の言葉ではありません」


「でも、私が水門へ戻れば……みんなは安心できる」


「そうでしょうね」


「では、戻ったほうが——」


「ネフェルが戻れば、ラウルたちは水門を直さなくなるかもしれません。四村も、教会も、またあなたがいることを前提に暮らし始める。そして次に壊れたとき、もっと強い拘束具が必要だと言うでしょう」


「それでも、今の人たちは助かるわ」


「今の人を助けるために、未来のネフェルを犠牲にするのですか?」


「……わからない」


「わからないなら、命令されている最中に決めてはいけません」


「でも、役に立たなければ、私は何のために直してもらったの?」


「その考えこそ、命令杭が利用しています」


 セラは自分の胸元へ手を置いた。


「私も、聖剣として役に立てなければ、存在する意味がないと思っていました。斬れない聖剣、勇者へ従わない聖剣など、壊れた道具と同じだと教え込まれていたからです」


「今は違うの?」


「今でも、時々そう思います」


 セラの答えに、ネフェルが目を瞬かせた。


「まだ思うの?」


「契約環を外しただけで、考え方まで急に自由になるわけではありません。ラウルが危険な場所へ行けば、守らなければと思う。その気持ちが私の意思なのか、長く使われた結果なのか、わからなくなることもあります」


「それでは、どうしているの?」


「わからないまま、自分で選び直しています」


「毎回?」


「はい。大変面倒です」


「……本当に、面倒ね」


「ですが、誰かに選ばされるよりはよいでしょう」


 ネフェルの弦から、命令の旋律とは違う音が一つ鳴った。


「私は、四村を助けたい」


「はい」


「でも、水門には戻りたくない」


「どちらも、あなたの意思です」


「両方選んでもいいの?」


「そのために水門を直すのです」


 ネフェルは目を閉じた。


 荒い呼吸を繰り返し、胸元へ浮かぶ銀色の杭へ自分の手を重ねる。


「私は、水門へ戻らない」


『守護対象を最優先せよ』


「守るかどうかも、どう守るかも、私が決める」


『存在価値を放棄するな』


「私の価値を、あなたが決めないで」


 十二本の弦が一本ずつ光り始める。


「ラウル。今よ」


「始める」


 保護環へ手を触れた。


 命令杭を中心に、百十七年前の記憶が流れ込んでくる。


 ネフェルの天候核を持ち去ろうとした修理師が、保護を装って銀色の杭を打ち込んでいた。


『今は抜かない。次に必要となったときのためだ』


『契約書だけでは、また逃げようとするかもしれない』


『神器の自由など、災害の前では認められない』


 命令杭は、彼女を守る部品ではない。


 完全な異物だ。


「ヘスティア、環の外側から熱を入れてくれ。ネフェルの核には流すな」


「わかった。熱かったら言って」


「熱いわ」


「まだ火を入れてないよ」


「これから熱くなると思うと、もう熱い気がするの」


「じゃあ、もっと熱くなる」


「怖がらせないで」


「嘘をつくよりいいでしょ?」


「ヘスティアまで、ラウルに似てきたわね」


 ヘスティアの火が保護環を温める。


 セラが弦の共鳴を整え、アリアが人格共鳴部の状態を読み上げる。


「命令杭の接続率、七十八パーセント。原型復元による排出を確認。残り六十一パーセント」


『水門へ戻れ』


「戻らない」


『人間を見捨てるのか』


「見捨てない。でも、自分も捨てない」


『役に立たない神器に、居場所はない』


 ネフェルの呼吸が止まりかけた。


 工房の外から、別の声が聞こえる。


「そんなことは言わん!」


 オルム村長だった。


 四村の代表者たちとハンネ村長が、工房の入口に立っている。


「ネフェル。私は今でも、お前が水門へ戻れば安心できると思っている」


「オルム!」


 ハンネ村長が睨む。


「最後まで言わせろ。だからこそ、もう戻れとは言わん。私が安心したいから、お前を縛ってよいことにはならない。それは昨日、嫌というほどわかった」


「村長……」


「水門は我々が直す。今まで払った分も、今回出す分も、必ず教会から取り返す。石も人も出す。だから、勝手に戻って話をややこしくするな」


「言い方があるだろうに」


 ハンネ村長が呆れる。


「優しく言ったら、頼んでいるように聞こえるかもしれんだろ」


「十分優しく聞こえたわ」


 ネフェルが泣きながら笑う。


 リナも、息子の手を握って前へ出た。


「私も、戻ってほしいと思いました。今も怖い気持ちは消えていません」


「ええ」


「でも、この子を守るために、あなたの身体を奪うことはしません。次の雨が来たら、避難の準備をします。夫にも、村の人たちにも話します」


「家を失うかもしれないわ」


「失いたくありません。水車も畑も、何一つ失いたくない。それでも、失いたくないと言うことと、あなたを水門へ戻せと言うことは別です」


 リナの息子が、母親の陰から顔を出す。


「僕も、土嚢を作る」


「あなたには、まだ重いわ」


「じゃあ、袋を運ぶ」


「それならお願いするかもしれないわね」


 少年はネフェルを見た。


「水門様も来る?」


「ネフェルよ」


「あ……ネフェルさんも、手伝う?」


 ネフェルは少し考えてから答えた。


「行くわ。でも、私にできることだけ。嫌になったら休む」


「僕も疲れたら休んでいい?」


「お母さんに聞いて」


「そこは自分で決めていいって言わないの?」


「子供のことは、私にはまだよくわからないもの」


 工房の空気が、ほんの少し緩む。


 命令杭の光が弱まった。


「接続率二十三パーセント。術式の抵抗が低下しています」


「ネフェル、そのまま自分の音を鳴らしてくれ!」


「どの曲を弾けばいい?」


「誰にも命じられていない曲だ!」


「急に言われても困るわ!」


「修理したときは、優しい雨を選んだだろ!」


「また同じでいいの?」


「同じ曲でも、今選び直したならネフェルの曲だ!」


「……わかった」


 十二本の弦へ、ネフェルの指が触れる。


 雨の音に似た、柔らかな旋律が工房へ満ちた。


 水門を守るための音ではない。


 誰かに命じられた音でもない。


「私は、雨を降らせる」


 ネフェルは、命令杭へ向かって告げた。


「役に立たなければ捨てられるからではなく、私が雨を好きだと思ったから。私の雨を必要だと言う人に、私が届けたいと思ったから」


『帰還せよ』


「断るわ」


 最後の命令へ、ネフェルははっきりと答えた。


「——《原型復元》!」


 保護環が本来の形へ戻る。


 銀色の命令杭が、天候核からゆっくりと押し出されていく。


 床へ落ちた杭は、甲高い音を立てて二つに割れた。


 同時に、マティアス司祭が持っていた起動鍵も砕け散る。


 ネフェルの身体から、銀色の拘束線が消えた。


「術式接続、完全消失。天候核および人格共鳴部は正常です」


 アリアの報告を聞き、俺は作業台へ手をついた。


 全身から一気に力が抜ける。


「終わったの?」


 ネフェルが尋ねる。


「ああ。もう帰還命令は残ってない」


「本当に?」


「少なくとも、天候核の中にはな」


「また別の場所から出てきたりしない?」


「フェルムへ戻ったら、全身をもう一度確認する。ただし、ネフェルの許可を得ながらだ」


「今度は私も、触られたくないからといって、確認まで拒まないようにするわ」


「無理に慣れる必要はない」


「慣れたいの。嫌なことを断るのと、怖いから全部拒むのは違うでしょう?」


「……そうだな」


 ネフェルはゆっくりと身体を起こした。


 保護環へ自分の手を当て、天候核の鼓動を確かめる。


 その前へ、マティアス司祭が進み出た。


「ネフェル様」


「様はいらない」


「……ネフェル。私はあなたへ、許されないことをしました」


「どうして、途中で止めようとしたの?」


「起動した直後に、あなたの人格が消される可能性へ気づいたからです」


「人格が消えず、水門へ戻るだけなら止めなかった?」


 マティアスは答えられなかった。


「正直に言って」


「……おそらく、止めなかったでしょう」


「そう」


「申し訳ありません」


「今は許さないわ」


「はい」


「もしかすると、ずっと許せないかもしれない」


「それも当然です」


「そうやって何でも受け入れる顔をされると、私が怒る意味までなくなる気がして腹が立つ」


 マティアスは困ったように顔を上げた。


「では、どうすればよいでしょう」


「自分で考えて。私へ聞かないで」


「……わかりました」


「ただし、水門修理の知識はあるのでしょう?」


「教会で水利管理を学びました。現場経験もあります」


「なら働いて」


「私を、工事へ参加させるのですか?」


「許したわけではないわ。あなたの罪と、今必要な仕事は別。逃げずに働いて、そのあとで怒られて」


 ハンネ村長が満足そうに頷く。


「いい裁きだね。アギス、工事が終わるまで司祭を見張りな。逃げようとしたら捕まえておくれ」


「殴っていいか?」


「逃げたらね」


「先ほどから、私への暴力が軽く扱われていませんか?」


「自分で言える元気があるなら大丈夫だろう」


「大丈夫ではありません」


「なら逃げるんじゃないよ」


「逃げません」


 マティアスは肩を落とした。


 その横へガルドが立つ。


「俺を勇者パーティーへ戻すって話だが、断る」


「ラウル殿と相談したのですか?」


「した。でも、ラウルに言われたから断るんじゃねえ。自分で決めた」


「故郷への支援金は止まったままになります」


「わかってる。それは別の方法を考える。教会に戻れば村を助けてやる、戻らなければ飢えさせるってのは、ネフェルへやったことと同じだ」


「教区本部は、そうは認めないでしょう」


「認めさせる。俺一人じゃ無理なら、ここにいる面倒な連中にも手伝ってもらう」


「勝手に決めるなよ」


 俺が言うと、ガルドは笑った。


「嫌なら断ってもいいぞ。怒るけどな」


「それ、断れる頼み方じゃないだろ」


「まだ練習中なんだよ」


     ◇


 翌朝、水門へ向かう旧街道は、人と荷車で埋まった。


 ハルン村からは石工と石材。


 ミルト村からは水車大工と板材。


 セオル村からは十二台の荷車と鉄材。


 ローデ村の者たちは、土嚢用の袋と、八日分の食料を運んできた。


 フェルムからも、働ける村人の多くが参加した。


「百二十人どころではありません」


 アリアが人数を数える。


「現時点で、補助作業員百八十三名。熟練職人二十七名です」


「多いほうが早く終わるだろ」


 オルム村長が言う。


「作業区域へ入れる人数には限界があります。余剰人員は、資材運搬、食事、休憩所整備へ振り分けます」


「水門を直しに来たのに、飯を作れと言われたと怒る奴が出るぞ」


「空腹の職人へ働かせるより、食事を作ったほうが水門修理への貢献度は高い場合があります」


「それを本人に説明してやってくれ」


「承知しました」


 説明を受けた男は実際に怒った。


「俺は力仕事をするために来たんだ! 女みたいに鍋をかき回せるか!」


 ハンネ村長がその男へ大鍋の柄を渡した。


「じゃあ交代するかい。私が石を運ぶから、あんたが百八十人分の飯を作りな」


「できるわけないだろ!」


「なら、できる人間を女みたいだと馬鹿にするんじゃないよ。あんたは薪割り。それならできるね?」


「……それなら」


「返事は?」


「できます」


「最初からそう言いな」


 作業は、計画どおりには進まなかった。


 二日目には、ハルン村から届いた石材の三分の一が規格より小さいことが判明した。


 三日目には、セオル村の荷車が一台、ぬかるみへ沈んだ。引き上げるために六人が半日取られ、そのうち二人が腰を痛めた。


 四日目には、排水路の奥から記録にない岩盤が見つかった。


「誰だ、こんな場所へ岩を詰めた奴は!」


 バルドが怒鳴る。


 マティアス司祭が古い水利記録をめくった。


「百九十年前の改修です。排水路から農地へ水が流れ込むとの訴えがあり、当時の教会が閉鎖を許可しています」


「一つの畑を守るために、水門へ全部の水を集めたのか?」


「その当時は、ネフェルが水圧を支えていたため、問題がないと判断されたのでしょう」


「またネフェル頼みか」


 バルドは舌打ちした。


 排水先を変えるため、新しい溝を掘る必要が生じた。


 予定より半日遅れる。


「私が雨を止めれば、夜も掘れるわ」


 ネフェルが申し出た。


「今日の二時間は、もう使っただろ」


 俺が答える。


「まだ動ける」


「今夜使えば、明日動けなくなるかもしれない」


「でも、半日遅れているのよ」


「人を増やす。夜の作業は松明と交代制で続ける」


「私なら、もっと簡単に——」


「ネフェルさん」


 リナが呼びかけた。


 彼女は泥だらけの服で、土嚢を縛っている。


「休んでください」


「あなたも、私にもっと働いてほしいと思っているでしょう?」


「思っています」


 リナは正直に答えた。


「雨を止めてもらえれば、工事は早く進む。息子を安心させられる。だから、頼みたいと思っています」


「なら——」


「でも、頼みません。二時間までと決めたでしょう?」


「少しくらいなら大丈夫よ」


「その少しを、今まで四百年積み重ねたんです」


 リナは結び終えた土嚢を立てた。


「私は、また同じことをしそうになります。自分の子供のためなら、少しくらいお願いしてもいいと思ってしまう。だから、ネフェルさんが断る前に、私が止める練習をします」


「私も断る練習中なの」


「では、今日は二人とも練習ですね」


「……わかった。休むわ」


「ありがとうございます」


「休むのに礼を言われるのは変な気分ね」


「私も、何と言えばいいのかわからなくて」


 二人は顔を見合わせ、不器用に笑った。


 五日目、四本の排水路が開通した。


 六日目には、三本の鎖が恒久固定具へ交換された。


 七日目の夕方、最後の開閉板が主歯車へ接続される。


「試験閉鎖を行います」


 アリアの声が、水門全体へ響いた。


「全員、指定位置から離れてください」


 俺が復元した主歯車が回り、四村の職人たちが作った開閉板を引き上げる。


 重い音とともに、左右の板が中央で噛み合った。


「閉鎖率九十八・七パーセント。残存する漏水量は許容範囲内です。四本の排水路も正常に作動しています」


「では、できたのか?」


 オルム村長が尋ねる。


「次の降雨を受けるまでは、完成とは判断できません」


「最後まで安心させない奴だな、お前は」


「誤った安心は提供できません」


 翌朝、ネフェルの予測どおり雨が降り始めた。


 四村では前夜から避難準備を整え、子供や老人を高台へ移している。


 水門の上には、俺たちと四村の作業員が残った。


 雨は次第に強まり、上流から濁った水が押し寄せる。


「水圧、想定値の七十パーセント」


 アリアが読み上げる。


「主歯車、正常。固定具一番から十二番、変形なし」


 ネフェルは水門から少し離れた丘に立っていた。


 四百年間いた場所が目の前にある。


 それでも、彼女の身体を繋ぐ物はない。


「水圧、九十二パーセント。第三排水路の流量が低下しています」


「土砂が詰まったか!」


「作業班を送る!」


 オルム村長が五人を連れ、第三排水路へ走る。


「ネフェル、雨を弱められるか?」


 尋ねたあとで、自分の言葉に気づく。


「悪い。命令するつもりじゃ——」


「いいわ」


「本当に?」


「今、私がやりたいと思った」


 ネフェルは十二本の弦へ手を置いた。


「でも、水門のためだけに雨を止めるのは嫌」


「では、どうする?」


「下流の畑は、しばらく雨が少なかったのでしょう?」


 リナが頷く。


「この雨が全部一度に降れば流されます。でも、弱い雨なら畑には必要です」


「なら、強い雨雲を山の西側へ流す。四村には、土を流さない程度の雨を降らせるわ」


「そんな細かいことができるのか?」


「十二本しかないから、長くはできない。でも、今は自分で選んで弾くもの」


 ネフェルが最初の弦を鳴らした。


 雨音に溶けるように、柔らかな旋律が広がっていく。


 水門の上を覆っていた黒雲が、ゆっくりと西へ流れ始めた。


 激しかった雨が細くなり、下流の四村へ、静かで優しい雨が降り注ぐ。


「第三排水路、復旧しました!」


 作業員の声が響く。


「水圧、低下。固定具に異常なし。水門は正常に機能しています」


 ネフェルが弦から手を離しても、水門は立ち続けていた。


 誰か一人の身体に支えられるのではなく、石と鉄と木、そして大勢の手によって。


「……私がいなくても、壊れない」


 ネフェルが呟いた。


「ああ」


「嬉しいのに、少し寂しいわ」


「必要とされなくなった気がするか?」


「ええ。でも、それだけじゃない。水門の音を四百年も聞いていたから、急に私と関係がなくなったようで……自分から離れたかったのに、勝手ね」


「関係がなくなるわけじゃない。ネフェルが手伝って直した水門だ」


「でも、私の水門ではない」


「それでいいだろ。四村全員の水門だ」


 オルム村長が、濡れた服のまま歩いてくる。


「ネフェル」


「何?」


「水門は持った。お前が戻らなくても」


「ええ」


「私はまだ、心のどこかで、お前が水門にいたほうが安全だと思っている」


「あなたは本当に、余計なことまで正直に言うのね」


「嘘をつけば顔へ出ると、婆さんに言われた」


「事実だよ」


 後ろからハンネ村長が答える。


 オルム村長は顔をしかめたが、話を続けた。


「だが、もう戻れとは言わん。次に水門が壊れたら、我々が直す。直せなければ、直せる者へ頭を下げて頼む。お前一人へ押しつけることはしない」


「その言葉を、今度は忘れない?」


「忘れそうになったら、この七日間働いた者が思い出させる。私が死んでも、記録を残す」


「契約にするの?」


「我々を縛る契約なら、必要だろう」


 ネフェルは少し考え、頷いた。


「それなら、私も立会人になるわ」


 リナと息子もやってくる。


「ネフェルさん」


「何?」


「ありがとうございました」


「雨を降らせたこと?」


「それもあります。でも、水門へ戻らないと言ってくれたことです。あのとき断られなければ、私は自分が何を頼んでいたのか、考えなかったと思います」


「私は、あなたに嫌われると思っていた」


「少し嫌いでした」


「少し?」


「本当は、かなり」


「そこまで正直に言わなくてもいいでしょう」


「でも今は、好きになれるかもしれないと思っています」


「今すぐ好きとは言わないの?」


「人間は、そう簡単に気持ちを変えられません」


「……そうね。私も教会の人を、すぐには信じられないもの」


「それでも、次に会ったときは話してもらえますか?」


「ええ。嫌なことを言われたら怒るけれど」


「私も怒るかもしれません」


「そのくらいが公平ね」


 ネフェルは笑い、もう一度、十二本の弦を鳴らした。


 その音は水門へ縛りつける命令ではなく、雨上がりの空へ自由に広がっていった。


     ◇


 水門が次の雨を耐えきった夜。


 フェルムへ戻った俺たちは、全員が泥と疲れにまみれていた。


「風呂に入りたい」


 ネフェルが中央広場で呟く。


「神器も風呂へ入るのか?」


 ガルドが尋ねる。


「入ったことがないから、入りたいの」


「四百年ぶりじゃなく、初めてなのか」


「水なら嫌になるほど浴びたけれど、自分で湯へ入ったことはないわ」


「なら、ヘスティアに案内してもらえ」


「わたし、石炭を持ち込んで怒られたから、今は入浴禁止」


 ヘスティアが答える。


「どうして風呂へ石炭を持ち込んだの?」


「お湯を沸かすのに使えると思った」


「村の浴場は、外の炉で湯を沸かしているんだ」


「中で沸かしたほうが近いよ」


「湯が灰だらけになっただろ」


「身体を洗う前だったから、ちょうどいいと思った」


「何一つよくない」


「私が案内します」


 セラが名乗り出る。


「ただし、石鹸を口へ入れないでください」


「どうしてそんなことを先に言うの?」


「ヘスティアが食べようとしたからです」


「いい匂いがした」


「私は食べないわよ」


「初めての人は、だいたいそう言います」


「普通は食べないからな」


 ようやく日常へ戻れる。


 そう思ったとき、村の地下から低い警告音が響いた。


 アリアが突然、足を止める。


「どうした?」


「救難信号を受信しました」


「また新しい信号か?」


「新規ではありません。四百十二年前に途絶した、残存救難信号の一つです」


 中央広場の地面へ、フェルム内部の立体図が投影される。


 赤い光が点滅しているのは、村の外ではなかった。


 俺たちの足元。


 長く封鎖された、地下第六収容区画だった。


「第六区画には、何がある?」


 アリアの顔から、表情が消えていた。


「記録が欠損しています。収容人数は二百八十七名。区画閉鎖から四百十二年が経過していますが、現在も二百八十七の生命反応を確認しました」


「全員、生きてるのか?」


「そのようです」


 救難信号へ音声が重なる。


 若い女性の声だった。


『案内人格アリアドネ。聞こえていますか』


「聞こえています。識別名を提示してください」


『第六医療区画管理神器、エイルです』


「救助を要請しますか?」


 長い沈黙があった。


『いいえ』


「では、なぜ救難信号を?」


『誰かが扉を開ける前に、警告するためです』


 声の向こうから、何人もの苦しげな呼吸が聞こえた。


『第六収容区画を開けないでください。ここにいる二百八十七名は生存しています』


「なら、助けられる」


『違います』


 エイルの声が震えた。


『私たちは、病人ではありません。病そのものです』


 地下深くから、巨大な何かが扉を叩く音が響いた。


『私を含め、ここにいる者には、もう救助される資格がありません』

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