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第29話 神器がいなくても壊れない水門を作れば、もう誰も奴隷にしなくて済みます

 契約書の改竄が判明した翌朝、四村の代表者たちは、誰一人として帰らなかった。


 ネフェルを連れ戻す権利がないとわかっても、水門が壊れかけている事実は残る。八日後に大雨が来るという予測が出た以上、結論を先延ばしにしている余裕もなかった。


 そこで俺たちは、フェルム地下の中央管制室へ場所を移した。


 アリアが投影した水門の立体図が、円卓の上で青白く光っている。傷んだ部分は赤く表示されていたが、全体の半分近くが赤いため、見ているだけで気が重くなった。


「完全修復に必要な期間は、現在の人員だけで作業した場合、最短で百二十六日です」


「八日後に雨が来ると言っただろう」


 オルム村長が苛立った声を出す。


「私は現状を提示しています。残り期間に合わせて事実を縮めることはできません」


「それで、どうするんだ。百二十六日かかるから諦めろと言うつもりか?」


「最後まで聞いておくれ」


 ハンネ村長がオルムの前へ木の椀を置いた。


「まず茶でも飲みな。昨日から怒鳴りすぎて、声が潰れてるじゃないか」


「今は茶など飲んでいる場合では——」


「飲まずに倒れたら、あんたの代わりまで話を聞くことになる。それは面倒だから飲みな」


「相変わらず命令が多い婆さんだ」


「村長同士、似たようなものだろう」


 オルム村長は不満そうに茶を口へ運び、すぐに顔をしかめた。


「苦い」


「薬草茶だよ。喉に効く」


「薬草を入れれば、どんな味でも許されると思っていないか?」


「文句が言えるなら、まだ元気だね」


 円卓の反対側では、バルドが水門の立体図を睨んでいた。


「ラウル。お前は、どこまで直すつもりだ?」


「全部だ」


「百二十六日かかるって聞いた直後に、よくその答えが出るな」


「だから、人を増やして——」


「人間を十倍にすりゃ、日数が十分の一になると思ってるなら、職人を名乗るのはやめろ」


 バルドが赤く表示された開閉板を指した。


「狭い場所へ何百人連れていっても、作業する場所を奪い合うだけだ。技術のない奴に主歯車を触らせれば、直すより壊すほうが早い。八日で全体を元通りにするのは無理だ」


「でも、応急修理だけでは次の雨に耐えられない」


「元通りにすることと、雨に耐えさせることは別だ」


 バルドは水門の両脇へ伸びる、細い水路を指でなぞった。


「アリア。この四本は何だ?」


「旧式の緊急排水路です。現在は上流側の三本が土砂によって閉塞。残る一本も通水能力が三十二パーセントまで低下しています」


「主水門へ全部の水が集まるから、開閉板が耐えられなくなる。だったら、先にこっちを開ける」


「排水路を復旧した場合、主水門へかかる水圧は最大四十四パーセント低下します」


「それだけ下がれば、今の開閉板でも持つか?」


「接合部を補強し、鎖を恒久固定具へ交換すれば、次回降雨への耐久率は八十七パーセントまで上昇します」


「十三パーセントは壊れるってことじゃないか」


 オルム村長が言う。


「壊れないと断言できる修理なんざ、百二十六日かけても無理だ」


 バルドは冷たく返した。


「地震が来るかもしれねえ。予測より雨が強いかもしれねえ。誰かが整備をさぼるかもしれねえ。絶対を欲しがるなら、神にでも頼め」


「その神に頼った結果が、昨日の契約書だろう」


 オルム村長が皮肉を言う。


 バルドは少しだけ口元を上げた。


「だったら、今度は自分たちの手を使え」


 完全な修理を目指すのではなく、まず四本の排水路を復旧し、水門へ集中する力を分散させる。開閉板の大きな亀裂は俺が直し、村の職人たちには固定具や足場を作ってもらう。


 それなら七日間で、次の雨に耐えられる状態まで持っていける可能性がある。


「必要物資を算出します」


 アリアが立体図の横へ、資材の一覧を表示する。


「角材百二十本。板材三百四十枚。固定具用の鉄材二・八トン。土嚢八百袋。石材は最低でも二十二トン。運搬用荷車十二台。作業人員は、熟練職人二十名、補助作業員百二十名が必要です」


 数字が増えるたび、四村の代表者たちの顔が曇っていった。


「無理だ」


 最初に声を上げたのは、上流側にあるハルン村の代表だった。


「うちの村は今回の増水で橋を一本失っている。石切場はあるが、水門まで運ぶための荷車が三台しかない。男手も橋の修理に取られている」


「ミルト村なら、板材と水車大工を出せます」


 リナが言う。


「ただし、木材を出せば冬に直す予定だった水車小屋が後回しになります。村へ戻って相談しなければ、私一人では決められません」


「ローデ村は、これ以上出せん」


 オルム村長が腕を組む。


「毎年、教会へ水門維持費を納めてきた。契約書が改竄され、水門の修理もされていなかったのなら、まず教会が不足分を出すべきだ」


 全員の視線が、マティアス司祭へ向く。


「ご指摘は当然です」


 彼は疲れた顔で答えた。


「教区管理倉庫を確認し、保管されている水門用資材をすべて提供します。現時点で確認できているのは、鉄材六百キロと角材二十本、土嚢用の麻袋三百枚です」


「毎年、四村から金と穀物を集めて、それだけか?」


「残りの使途については調査中です」


「八日後の雨は、調査が終わるまで待たんぞ」


「わかっています。私個人の権限で、教会の救恤金も工事費へ回します」


「いくらだ?」


「金貨四十二枚です」


「少なすぎる」


「地方司祭一人の権限で動かせる上限です」


「なら本部へ言え」


「昨夜、早馬を出しました。しかし、返答を待っていては間に合いません」


「結局、また俺たちが出すのか!」


 オルム村長の声が大きくなる。


「うちは払った! 四百年も払ったんだ! それを教会の誰かが懐へ入れたから、もう一度出してくださいでは、村の者に説明できん!」


「オルム村長の言うことは間違っていません」


 リナが静かに言った。


「私たちも維持費を納めてきました。水車小屋には、子供の頃から水門税という箱がありました。父は収穫が悪い年にも、税だけは遅らせるなと言っていた。それが使われていなかったなら、納めた側も騙されたことになります」


「では、何も出さないのかい?」


 ハンネ村長が尋ねる。


「出したくないのではありません」


「結果は同じだよ。腹が立つから出さない。前に払ったから出さない。その気持ちはわかるけれど、今、水門に必要なのは気持ちじゃなくて木と鉄と人手だ」


「だから、騙された側へもう一度負担しろと言うのですか?」


「言ってるよ」


 ハンネ村長は、少しも目を逸らさなかった。


「理不尽だと思うかい?」


「思います」


「私もそう思う。だけどね、理不尽だからって水に文句を言っても、流されるだけなんだよ」


「納得できません」


「納得しなくていい。腹を立てたまま出しな。その代わり、教会が使い込んだ分は、あとで必ず取り戻す。誰がいくら納め、どこへ消えたかも調べる。今出した分と二重払いになったなら、教会から返させる。その約束を紙に残す」


「教会が返さなかったら?」


「そのときは、四村とうちで教区本部へ乗り込むよ」


「婆さん一人でか?」


「一人のほうがいいなら、一人でも行くけどね」


 オルム村長は、苦虫を噛み潰したような顔をした。


「そのときは、俺も行く」


「素直じゃないねえ」


「金を取り返すためだ。あんたに付き合うわけじゃない」


「理由は何でもいいよ」


 話し合いは、そこからさらに揉めた。


 村ごとに人口も、畑の広さも、水門が壊れた場合の被害も違う。最下流のローデ村は人口が多い一方、高台へ逃げる道がある。ミルト村は人口こそ少ないが、川沿いの水車と製粉所を失えば、四村すべての食料事情に影響する。


 上流のハルン村には石切場があるものの、現金がない。


 逆に、商人の多いセオル村は金を出せるが、危険な水門作業へ人を送りたがらなかった。


「同じ戸数ごとに負担を決めればいい」


 セオル村の代表が言う。


「五戸につき一人。資材も家の数で割る。それなら平等だ」


「何が平等だ!」


 ハルン村の代表が机を叩く。


「そっちは人を出す代わりに金を払うつもりだろう。うちには金がないから、働き手を二十人も出すことになる。石を切るのも、運ぶのも、危険な場所で働くのも、全部こっちへ押しつける気か!」


「金だって必要だ。職人を雇い、食料を買うには金がいる」


「水門の近くへ行かない奴が、一番安全な場所から平等だと言うな!」


「うちの商人がいなければ、その食料も届かんぞ!」


 また声が大きくなる。


 ネフェルは部屋の隅に置かれた椅子へ座り、黙って話を聞いていた。


 以前の彼女なら、揉めるくらいなら自分が戻れば済むと言ったかもしれない。


 今も、背中の弦へ触れる指には迷いがある。


「ネフェル」


 声をかけると、彼女は小さく首を振った。


「まだ大丈夫。戻るとは言わないわ」


「苦しくなったら外へ出てもいい」


「わかっている。でも、聞いておきたいの。今まで私が水門にいたから、話さずに済んでいたことなのでしょう?」


「ああ」


「なら、最後まで聞く」


 円卓の反対側で、デニスが四村の人口と畑の面積を書き出していた。


「家の数だけで割るのは無理だ」


 彼が口を開くと、代表者たちが一斉に振り返る。


「では、どうしろと?」


「水門が壊れた場合に守られる人数と、畑の面積。それから、それぞれの村が実際に出せる物を合わせて考える」


「豊かな村へ多く出せと言うのか?」


「出せる村には出してもらう。ただし、金を出したから人を一人も出さなくていいことにはしない。危険を金で全部押しつければ、次から誰も一緒に働こうとしなくなる」


「何を基準に決める?」


「まず、水門から受ける利益に応じた基本負担を決める。その上で、現金、資材、人手を同じ価値に換算する。石材一トンなら何点、熟練職人一日なら何点、荷車一台なら何点という具合に」


 アリアがすぐに表を投影した。


「換算表の作成が可能です。危険作業については通常作業の一・五倍から二倍の評価を推奨します」


「危険な作業ほど点が高いのか」


「当然だろ」


 デニスが答える。


「金を払う側が一日分だと思っても、命綱をつけて水門へ降りる側は同じ一日だと思わない」


「しかし、それでは現金を出す村の負担が——」


「重くなる。嫌なら自分たちも人を出せばいい」


 セオル村の代表が顔をしかめる。


「ずいぶん勝手なことを言うな。お前はどこの代表だ?」


「俺は、この村の農家だ」


「村長でもない者が口を出すのか?」


「村長じゃないから言ってる。あんたたち村長だけで決めた負担を、実際に背負うのは俺たちみたいな普通の村人だ」


 デニスは書きかけの紙を円卓へ置いた。


「俺には子供が二人いる。危険な作業へ行けと言われたら、正直、断りたい。でも誰も行かなければ、洪水で畑が流される。だから行くなら、その危険をなかったことにされたくない。『みんな同じだけ負担しました』なんて言葉で、金を出した奴と水門へ降りた奴を同じにするな」


「金を軽く見るな。商人だって損をする」


「軽く見てない。だから点に入れると言ってる。金も必要だし、人も必要だ。どっちかだけが偉い話にするな」


 セオル村の代表は何か言い返そうとしたものの、言葉が出なかった。


「デニスの案を使おう」


 ハンネ村長が言った。


「ただし、守られる人数だけで負担を決めると、貧しい家ほど払えなくなる。最低限の生活を壊すほどは取らない。その不足分は、余裕のある村と教会、それからフェルムで補う」


「それのどこが公平なんだ?」


 オルム村長が尋ねる。


「全員が同じだけ出すことが公平だと思ってるのかい?」


「少なくとも、わかりやすい」


「わかりやすく人を潰す仕組みは、悪い仕組みだよ」


「では、あんたにとって公平とは何だ」


 ハンネ村長は少し考えた。


「全員が、自分だけ得をしたとは思えないことだね」


「全員が不満になる制度か?」


「不満の理由を説明できて、それでも次も一緒にやれる制度だよ」


「随分と後ろ向きだな」


「人間は、きれいな気持ちだけで毎年水門を直せないからね」


 完全に納得した者はいなかった。


 それでも、負担の換算表を作ることには全員が同意した。


 ハルン村は石材と石工を出す。ミルト村は板材と水車大工。セオル村は現金と荷車を多く負担する代わりに、若い作業員も最低十人は派遣する。ローデ村は土嚢作りと、作業者の食料を担当する。


 フェルムからは俺、バルド、ヘスティアが現地へ向かう。アリアは遠隔で水門の構造を分析し、アギスは村と結界を守るため残ることになった。


「私の仕事は?」


 ネフェルが尋ねる。


「天候の観測を頼みたい」


「それだけ?」


「工事中に危険な風や雨が来るなら知らせてほしい。でも、ネフェルの力で雨を止めることを前提にはしない」


「二時間なら、雨を逸らせるわ」


「二時間以上は?」


「今の弦では、次の日まで動けなくなるかもしれない」


 オルム村長が立ち上がった。


「二時間だけでは足りん。工事は日の出から日暮れまで続くんだぞ」


 ネフェルの肩が揺れる。


「無理をすれば、四時間くらいなら——」


「二時間でいい」


 俺が遮った。


「でも」


「無理をしたら、また水門にいた頃と同じになる」


「作業が遅れたらどうするの?」


「雨が降っている間は、できる作業をする。資材を加工したり、足場を組み直したりだ。最初からネフェルの二時間を当てにして、八時間分の仕事を入れない」


「そこまで余裕はないだろう!」


 オルム村長が言う。


「余裕がないから、本人が壊れるまで使うのか?」


「そうは言っていない!」


「今、四時間使えるなら使えと言おうとしただろ」


「村が流されるかもしれないんだ!」


「だからといって、ネフェルをもう一度壊していい理由にはならない!」


「二人とも待って」


 ネフェルが立ち上がった。


「私が決める。最初に二時間だけと決めて、余裕がある日は、もう少し手伝うかもしれない。でも、それはその日に私が決める。前の日から予定には入れないで」


「二時間分の作業を組みます」


 アリアが答える。


「追加の協力は、計画上存在しないものとして扱います」


「存在しないと言われると、少し寂しいのだけれど」


「期待されないほうがよいのでは?」


「役に立たなくてもいいと言われたい気持ちと、役に立ったら喜んでほしい気持ちは、両方あるの」


「矛盾しています」


「人間に近づくと矛盾が増えるみたい」


「参考情報として記録します」


「記録しなくていいわ」


「すでに記録しました」


 ネフェルが諦めたように息を吐く。


 ハンネ村長は新しい羊皮紙を一枚取り出した。


「では、今決めたことを書いておこう。ネフェルの協力は一日二時間まで。本人の同意がある場合だけ延長できる。断ったことを理由に、居場所や食料を取り上げない。工事計画は、ネフェルの力がなくても完成する内容にする」


「最後に、所有権を主張しないと書いて」


 ネフェルが付け加える。


「ああ。四村、教会、フェルムのいずれも、ネフェルの所有権を主張しない」


「契約書にするの?」


「これは、あんたを縛る契約じゃない。私たちが何をしないかを約束する確認書だよ」


「破ったら?」


「全員の前で、破った奴を責められる。紙が勝手に身体を動かすような術式は入れない」


「それなら署名する」


 ネフェルは、今度は文章を最初から最後まで自分で読んだ。


「もう一度読まなくていいのかい?」


 ハンネ村長が尋ねる。


「読む。前はトアを信じて、細かいところまで確かめなかったから」


「トアが騙したわけじゃない」


「わかっている。でも、自分で読むことと、相手を疑うことは違うのでしょう?」


「そうだね」


 ネフェルが内容を確かめ終えるまで、誰も急かさなかった。


 やがて彼女は、自分の意思で共鳴印を押した。


 銀色の竪琴の印が羊皮紙へ浮かび上がる。


 今度は、彼女の身体を縛る線は一本も現れなかった。


     ◇


 話し合いが終わったのは、日が傾き始めた頃だった。


 明日の早朝、第一陣が水門へ向かう。それぞれの代表者は村へ戻り、夜のうちに人員と資材を集めることになった。


 俺が工房で工具を選んでいると、入口にガルドが立った。


「少しいいか?」


「手伝ってくれるなら」


「そうじゃなくて、話がある」


 妙に真剣な顔をしている。


 俺は工具箱から手を離した。


「何かあったのか?」


「教会から、戻らないかと言われた」


「どこへ?」


「勇者パーティーへだ」


 胸の奥が、わずかに冷えた。


「誰に言われた?」


「マティアス司祭だ。正確には、あいつが持ってきた教区本部からの書状だな」


「条件は?」


「フェルムで起きたことを教会へ報告し、今後は異端者と行動を共にしない。そうすれば、勇者パーティー離脱の件も、偽聖剣を持ち出した件も不問にする。元の地位へ戻し、故郷への支援金も再開するそうだ」


「故郷への支援金を止められていたのか?」


「俺がここに来てからな」


「どうして言わなかった」


「言えば、お前は自分のせいだと思うだろ」


「実際、俺たちと行動したことが理由じゃないか」


「そういうところだよ」


 ガルドは作業台へ腰を預けた。


「教会は、俺の故郷へ金を出してた。勇者パーティーに選ばれた者の村への褒賞って名目でな。あの金で井戸を掘り、冬の穀物を買ってた。それが止まれば、困る奴はいる」


「戻りたいのか?」


「わからねえ」


「ユリウスのところへ戻ることになるぞ」


「わかってる。でも、俺が戻れば村への金は出る。パーティーに残ってるマリエルやヴァレッタが、教会から責任を押しつけられるのも防げるかもしれない」


「二人を心配してるのか?」


「そりゃするだろ。あいつらにも腹は立ってる。でも、一緒に旅をした時間まで全部なくなるわけじゃねえ」


 ガルドは床へ視線を落とした。


「それに、俺が戻れば内部のことを調べられる。契約書を改竄した奴や、ネフェルの核を狙った修理師の記録も見つけられるかもしれない」


「教会には、そのつもりで戻ると伝えるのか?」


「伝えるわけねえだろ」


「なら、見つかったときは?」


「処刑されるかもしれねえな」


「駄目だ」


「即答かよ」


「そんな条件で戻るのは認められない」


「俺の選択は俺に決めさせろって、最近ずっと話してたんじゃなかったのか?」


「決めるのはガルドだ。でも、俺は反対だ」


「……そう言うんだな」


「何だよ」


「お前なら、『ガルドが決めたなら止めない』って言うと思ってた」


「言ったほうがよかったか?」


「いや。反対だと言われて、少し安心した」


「どっちなんだよ」


「自分で決めたい。でも、誰にも引き止められないのは寂しい。人間ってのは、そういう面倒なもんなんだよ」


「最近、そればかり聞いてる気がする」


「神器が増えるたびに、俺たちの面倒な部分まで増えてるからな」


 俺は少し考えた。


「残ってほしい」


「水門の工事が終わるまで?」


「その先もだ。ただ、ずっととは今すぐ言えない。ガルドがここにいたいと思っている間は、いてほしい」


「慎重だな」


「できない約束はしたくない」


「お前らしいよ」


 ガルドは小さく笑った。


「返事はまだしてない。戻るつもりも、今のところはない。ただ、迷ったことまで隠したら、また前と同じになると思って、お前へ話した」


「ありがとう」


「礼を言うな。余計に居心地が悪い」


「じゃあ、明日の荷物を運んでくれ」


「その扱いのほうが楽だ」


「一番重い箱はやめておけ。肩を痛めてるだろ」


「まだ覚えてたのか」


「忘れるわけないだろ」


 ガルドは返事をせず、工具箱を一つ持ち上げた。


 その口元には、わずかな笑みが残っていた。


     ◇


 同じ頃。


 集会所に一人残ったマティアス司祭は、教区本部から届いた書状を何度も読み返していた。


 羊皮紙には、水門の緊急工事へ協力する許可も、改竄された契約書を調査するとの返答もなかった。


 記されていたのは、短い命令だけだった。


『風雨琴を直ちに水門へ帰還させよ。拒絶する場合、第二拘束術式の使用を許可する』


「契約が無効だと、報告したはずなのに……」


 書状の末尾には、教区長の印だけでなく、勇者を管理する聖務院の印も押されている。


 命令へ背けば、司祭職を失うだけでは済まない。


 四村へ支給されている救恤金も打ち切られる。水門修理用の資材も、教会本部からは一切届かなくなるだろう。


 マティアスは懐から、小さな銀色の鍵を取り出した。


 契約書の強制命令とは別に、百十七年前の修理師がネフェルの天候核へ埋め込んだ、緊急帰還術式を起動する鍵だった。


 ラウルがネフェルを修理した際も、天候核の保護環だけには触れていない。


 ネフェルが胸を開くことを拒んだからだ。


「今すぐ戻すわけではない」


 マティアスは、自分へ言い聞かせた。


「工事が終わるまでだ。八日後の雨を越えれば、必ず解除する。彼女一人の自由より、四村の命を優先するのは……間違いではない」


 それでも、手は震えていた。


 自分が昨日まで非難していた、四百年前の人々と同じ言葉を口にしていることに気づいていたからだ。


 銀色の鍵を戻そうとした、そのとき。


 窓の外から、子供の声が聞こえた。


「お母さん、村は流されない?」


「大丈夫よ。司祭様も、修理師様もいるもの」


 リナと、その息子の声だった。


 マティアスは目を閉じた。


「……申し訳ありません」


 誰へ向けた謝罪なのか、自分でもわからないまま、銀色の鍵へ魔力を流した。


     ◇


「っ……!」


 工房の外で、何かが倒れる音がした。


 俺とガルドが飛び出すと、道の中央でネフェルが膝をついていた。


 十二本の弦が、誰も触れていないのに激しく鳴っている。


「ネフェル!」


「来ないで!」


 彼女の胸元から、銀色の細い杭が浮かび上がった。


 天候核を囲む保護環の内側。


 俺が本人の許可なく触れなかった場所に、もう一つの拘束術式が隠されていた。


「身体が……また、勝手に……」


 ネフェルの脚が立ち上がろうとする。


 彼女は地面へ爪を立て、必死に抵抗した。


「嫌……私は決めたの! 戻らないって決めたのに!」


 銀色の杭から、冷たい声が響く。


『緊急帰還命令を受理。風雨琴ネフェルは、直ちに指定水門へ帰還せよ』


 ネフェルの十二本の弦が、助けを求めるように鳴り響いた。

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