第28話 四百年前の契約書には、「七日間だけ」と書かれていました
ネフェルの足が、本人の意思に逆らって一歩前へ出た。
「嫌……」
銀色の拘束線が両腕から肩へ伸び、十二本の弦を強く震わせる。
「私は戻らないって言ったでしょう! 止まって!」
それでも身体は止まらない。
二歩目を踏み出したところで、アギスが前へ回り込み、ネフェルの両肩を掴んだ。
「落ち着け。行かせねえから」
「放して!」
「何でだよ!」
「新しく直したところが壊れる! 身体だけ止めたら、拘束線に引き裂かれるわ!」
アギスが慌てて力を緩める。
その隙に、ネフェルの身体がまた一歩、契約書へ向かって進んだ。
「司祭、止めろ!」
俺が怒鳴ると、マティアス司祭は青ざめた顔で首を振った。
「私には止められません。先ほど申し上げたとおり、私は何の術式も起動していない」
「契約書を閉じろ!」
「今、下手に閉じれば、契約の反発がネフェルの天候核へ流れる可能性があります」
「可能性の話をしてる場合か!」
「だからこそ、軽率には触れられないと言っているのです!」
嘘をついている顔には見えなかった。
司祭自身、この反応を予想していなかったらしい。
「ラウル!」
セラの声に振り返る。
彼女はネフェルの腕に浮かんだ銀色の線を見つめていた。
「この術式は、私の契約環に刻まれていたものと似ています。契約対象が指定範囲から離れた場合、本人の意思を上書きして帰還させる強制命令です」
「切れるか?」
「おそらく。ただし、契約書と天候核が直接繋がっています。切断した反動がどちらへ流れるかは、わかりません」
「ネフェルへ流れたら?」
「人格共鳴部が再び損傷する可能性があります」
修理したばかりの身体が、細かく震えている。
無理に引き止めることも、簡単に切ることもできない。
「契約へ従わせれば、反動は起こりません」
マティアス司祭が言った。
「まず水門へ戻り、そこで契約内容を再確認すればよい。契約が誤っていると証明された場合は、教会が正式な解除手続きを——」
「どれくらいかかるんだ?」
「審査がありますので、通常は半年から一年ほどです」
「その間、ネフェルは水門へ繋ぐのか?」
「四村の安全を考慮すれば、そうせざるを得ません」
「ふざけるな!」
「私も、これが最善だとは申し上げていない!」
司祭も声を荒らげた。
「しかし、契約はすでに起動している。無理に切断して彼女を壊すより、一度従ったほうが安全だと言っているのです!」
「水門へ戻れば、また外せなくなる!」
「それは審査の結果を待って——」
「待たない!」
ネフェルが叫んだ。
身体はなおも前へ進もうとしている。彼女は自分の脚を止めるため、床へ指を立てて必死に抵抗した。
「一年なんて待たない。七日が四百年になったのよ。今度は一年が、何年になると思っているの!」
「ネフェル」
セラが彼女のそばへ膝をつく。
「命令線を切ります。ただし、絶対に安全とは言えません」
「切って」
「人格が傷つくかもしれません」
「それでも切って!」
「気持ちだけで答えず、結果を理解したうえで選んでください」
「理解しているわ! 壊れるのは怖い。でも、戻るほうがもっと怖い!」
ネフェルは涙を流しながら、セラを睨んだ。
「私は戻らないって、自分で決めたの。だから、私の身体を私へ返して!」
「承知しました」
銀色の光がセラを包み、一本の聖剣へ姿を変える。
俺はその柄を握った。
『ラウル。銀色の線だけを斬ります。ネフェルの身体へ刃を触れさせないでください』
「わかってる」
『それから、迷わないでください。途中で止めれば、命令線が二重に食い込みます』
「……わかった」
ネフェルの腕から契約書へ伸びる銀色の線。
普通の目には触れられない光だが、セラの刃なら契約術式そのものへ届く。
「ネフェル。斬るぞ」
「早くして!」
刃を振り下ろした。
硬い金属同士がぶつかるような音が、集会所に響く。
銀色の線が一度大きく伸び、それから弾けた。
「ネフェル!」
彼女の身体が崩れ落ちる。
アギスが今度こそ抱き止めた。十二本の弦は激しく鳴っていたが、天候核の光は消えていない。
「アリア、状態を見てくれ!」
「人格共鳴部に軽度の揺らぎを確認。緊急修復が必要な損傷ではありません。自律制御は維持されています」
「ネフェル、聞こえるか?」
「……聞こえているわ」
ネフェルはアギスに支えられながら、自分の両腕を確かめた。
銀色の拘束線は消えている。
「動かせる」
「気分は?」
「最悪よ。胸が痛いし、頭の中で鐘が鳴っているみたい。でも、自分で動かせる」
「座ったほうがいい」
「今度は、座ると自分で決める」
「わかった」
アギスが長椅子へ運ぼうとすると、ネフェルは少しだけ抵抗した。
「歩く。支えてくれる?」
「ああ。今度は勝手に抱えねえよ」
アギスの腕を借り、ネフェルが長椅子へ座る。
その様子を見届けてから、セラを人の姿へ戻した。
「セラは大丈夫か?」
「多少魔力を消耗しましたが、問題ありません」
「契約環を外した直後だ。無理はするな」
「ラウルに言われたくありません」
「今は俺の話じゃない」
「いつもそう言いますね」
「二人とも、あとにしな!」
ハンネ村長の声が飛ぶ。
「まず、その物騒な紙を閉じるよ。マティアス司祭、異論はないね?」
「あります。契約原本へ無断で触れることは認められません」
「その原本が、今しがた一人の身体を勝手に動かしたんだよ」
「だからこそ専門的な処置が必要なのです。教会本部へ持ち帰り、術式管理官に——」
「持ち帰ったあとで、都合の悪いところまで消えたら困る」
バルドが言った。
マティアス司祭の顔が険しくなる。
「私が証拠を隠滅すると?」
「あんたがするとは言ってねえ。あんたが持ち帰った先に、何をした奴がいるかわからねえと言ってる」
「教会そのものを信用できないと?」
「ネフェルの弦を切った修理師も、百年以上戻らなかった。聖剣へ契約環を打ち込んだのも教会だ。今さら、紙だけは無条件で信じろと言われても無理がある」
「過去の者の行為を、現在の私へ押しつけないでいただきたい」
「なら、今のあんたが調べるのを手伝え」
「正式な手続きを経ずに調査すれば、契約書の証拠能力そのものが失われます」
「その正式な手続きとやらを決めるのも教会なんだろ?」
バルドと司祭が睨み合う。
どちらの言い分にも、一理はある。
今ここで勝手に契約書を直せば、教会からは証拠を改竄したと主張される可能性がある。だが、教会へ渡せば、再び俺たちの手が届かない場所へ持ち去られる。
「まず、触れずに記録します」
集会所の床へ、白と青の光が広がった。
地下にある本体から投影されたアリアが、契約書の隣に現れる。移動端末の姿ではなく、紺色の長い髪を編んだ、案内人格としての姿だった。
「羊皮紙、インク、補修材、付与術式の年代を測定します。マティアス司祭にも全工程を確認していただきます」
「あなたは、何者です?」
「移動避難城塞フェルムの案内人格、アリアドネです。現在の人格保全率は三十七パーセント。記録機能の信頼性について疑義がある場合は、検証方法を提示してください」
「城塞の管理機構が、教会へ敵対する者によって修復されたのでしょう。中立性を保証できるとは——」
「では、四村から一名ずつ立会人を選出してください。私は測定数値だけを提示し、判断は皆様に委ねます」
オルム村長がマティアス司祭を見る。
「調べるだけなら問題ないのではないか?」
「しかし——」
「契約が本物なら、何を調べられても変わらんだろう」
今までネフェルを戻せと主張していたオルム村長にそう言われ、司祭は言葉を失った。
「……契約書へ触れないことを条件に認めます」
「承知しました」
四村から一名ずつが机の周囲へ集まり、アリアの投影する数値を確認した。
青い光が羊皮紙の上をゆっくりと移動する。
「羊皮紙本体の作成年代は、推定四百十一年から四百十四年前。下部にある共鳴印も同年代です。ネフェル本人の天候核との一致率は九十九・八パーセント」
オルム村長が息を吐いた。
「やはり、本物ではないか」
「最後まで聞いてください」
アリアの声に、わずかな緊張が混じる。
「本文に使用されたインクは、四種類です。大部分は羊皮紙と同年代ですが、中央部の三行のみ、百十五年から百二十年前の成分と一致します」
「補修しただけでしょう」
マティアス司祭がすぐに答えた。
「四百年も保存されていれば、文字が薄れます。書き直すこと自体は珍しくありません」
「書き直す場合、通常は元の文字をなぞります。しかし、該当箇所では羊皮紙の表面が削られています」
「何?」
オルム村長が身を乗り出す。
「繊維の摩耗を確認。元の文章を刃物で削り、その上から別の文章を書いています」
「そんな……」
マティアス司祭が契約書を見下ろす。
先ほどまでの自信は消えていた。
「私は知りません。この原本は、教区本部の封印庫から受け取ったものです。管理記録にも、改訂されたとの記載はありませんでした」
「本当に知らなかったのかい?」
ハンネ村長が尋ねる。
「誓って、私は何も」
「誰に誓う?」
「神に」
「神の名前を出せば、あんたの心の中まで見えるわけじゃないよ」
「それでも、ほかに証明する言葉がありません」
マティアス司祭は悔しそうに拳を握った。
「私が何を言っても、教会の人間だから信じられないのでしょう」
「逆だよ。教会の人間だからじゃない。あんたのことを今日初めて会ったばかりで、よく知らないから信じきれないんだ」
「同じことでは?」
「違うね。これからの行動で、信用される余地があるってことだよ」
司祭は目を瞬かせた。
すぐに納得した様子ではなかったが、反論もしなかった。
「元の文章は読めないのか?」
オルム村長がアリアへ尋ねる。
「羊皮紙表面の情報だけでは困難です。削られた繊維とインクを復元する必要があります」
全員の視線が、俺へ集まった。
「できるかい?」
ハンネ村長に聞かれ、俺は契約書へ目を向けた。
「触れてみないとわからない」
「触れることは認められません」
マティアス司祭が言う。
「先ほどの話を聞いてなかったのかい?」
「聞いていました。改竄の疑いがあることも理解しています。だからこそ、修復した結果を誰が保証するのです。ラウル殿が、自分たちに都合のよい文章へ書き換えていないと、どう証明するのですか?」
「俺の《原型復元》は、存在しなかった形を勝手に作る技能じゃない」
「それを私たちは、あなたの言葉でしか知りません」
「では、どうすれば納得する?」
「教会の術式修復官を呼び、立ち会わせるべきです」
「何日かかるんだ?」
「王都からなら、早くても十五日ほどです」
「その間、契約書は?」
「封印して私が保管します」
「それでは、また教会へ渡すだけだ」
「私に保管させないのであれば、フェルム側も触れないでいただきたい」
また話が戻りかける。
「ねえ」
長椅子に座っていたネフェルが声を上げた。
「その契約書は、誰の物なの?」
「教会が保管する公的文書です」
マティアス司祭が答える。
「何について書かれているの?」
「あなたと四村の守護契約です」
「私を縛り、私の身体を勝手に動かすのに、私には触れる権利もないの?」
「それは……」
「教会の物だから、私は自分が何を約束したのか確かめてはいけない。変だと思わない?」
「文書の保全と、契約当事者の権利は別の問題です」
「人間は、都合の悪いものを全部、別の問題にするのね」
ネフェルはゆっくりと立ち上がった。
まだ足元が不安定で、アギスがすぐ近くへ寄る。それでも、今度は手を出さずに見守っていた。
「私は、ラウルに調べてほしい」
「ネフェル様の同意だけで決められることではありません」
「四村も、私との契約を確認したいのでしょう?」
ネフェルがオルム村長を見る。
「あなたはどうしたい?」
尋ねられたオルム村長は、契約書とマティアス司祭を交互に見た。
「私は……契約が本物なら、お前に戻ってほしいと思っている」
「ええ」
「だが、文章が書き換えられているなら、その上で話を進めることはできん」
「ラウルに触らせてもいい?」
「修復の過程を全員が見られるなら、私は構わない」
ほかの代表者たちも、迷いながら頷いた。
マティアス司祭だけが、なおも口を閉ざしている。
「司祭様」
リナが呼びかけた。
「私は、教会へ維持費を納めてきました。夫も、父も、祖父もです。それなのに水門は壊れ、ネフェル様は四百年も修理されなかった。せめて、契約書に何が書かれていたのか、自分の目で確かめさせてください」
「……わかりました」
マティアス司祭が折れた。
「ただし、修復前後の状態をすべて記録します。私も羊皮紙のそばで確認させていただく」
「それでいい」
俺は契約書の前へ立った。
「アリア。必要な素材は?」
「羊皮紙の表面繊維、同年代の鉄胆インク、銀粉を含む共鳴液です。修復範囲が文字三行に限られるため、必要量はわずかです」
「羊皮紙なら、裏側の補修片から取れるか?」
「可能です。該当する補修片は百年前に追加されたもので、取り外しても原本の保全に影響しません」
「インクは、集会所の帳簿用で足りるか?」
ハンネ村長が棚から古いインク壺を持ってくる。
「成分一致率九十二パーセント。調整すれば使用可能です」
「共鳴液は?」
「私の弦を作ったときの素材が、少し残っているでしょう?」
ネフェルが言った。
「使ってもいいのか?」
「私の契約を確かめるために使うのだもの。今度は自分で使うと決めるわ」
ネフェルの拘束枠を溶かした際に残った銀粉を、インクへ混ぜる。
材料を揃え、契約書へ手を伸ばした。
触れた瞬間、古い羊皮紙が見てきた記憶が流れ込んでくる。
大雨のあとの集会所。
今とは違う名で呼ばれていた四つの集落。その代表者たちが、不安そうな顔で机を囲んでいる。
若いトアが、契約書を読み上げていた。
『水門を作り直すまで、七日間だけ力を貸してほしい』
『本当に七日で終わるの?』
青緑色の髪をしたネフェルが、何度も確認している。
『約束する。七日を超える場合は、もう一度あなたの同意を得る。勝手に延長はしない』
『なら、手伝うわ。下流にいる人たちを避難させる時間が必要でしょう?』
契約書の最後へ、ネフェル自身が共鳴印を押した。
そこには確かに書かれていた。
七日間。
期限を超える場合は、ネフェル本人の新たな同意が必要であること。
彼女を水門の所有物とせず、あくまで一時的な協力者として扱うこと。
記憶が切り替わる。
薄暗い部屋で、教会の法衣を着た男が羊皮紙を削っていた。
『このままでは、ネフェルを水門から外した者に罪を問えない』
『しかし、本人は延長へ同意していません』
『四村の生活が懸かっている。彼女一人の意思を、千人の命より重く扱えるか?』
削られた繊維が床へ落ちる。
新しい文章が書き加えられた。
河川の脅威が去るまで、水門を離れないものとする。
風雨琴ネフェルを四村の共同守護財と定める。
それが行われたのは、百十七年前。
ネフェルの天候核を持ち去ろうとした修理師が現れたのと、同じ年だった。
「見つけた」
俺は技能を発動した。
「——《原型復元》」
羊皮紙の表面から、後世に書き足された黒い文字が浮き上がる。
マティアス司祭が息を呑んだ。
「消えている……?」
「消しているんじゃない。最初に契約として完成した状態へ戻してる」
削られていた繊維が戻り、失われた文字が少しずつ現れる。
教会が書き加えた強制命令術式は、原型に存在しない異物として、黒い煤のように羊皮紙から剥がれ落ちた。
やがて、契約書の中央に、本来の文章が蘇る。
アリアが全員に聞こえる声で読み上げた。
「――《風雨琴ネフェルは、自らの意思により、七日間に限り水門の仮守護を引き受ける。期間を超える延長を必要とする場合は、本人へ事情を説明し、新たな同意を得なければならない》」
集会所から、物音が消えた。
「続けます」
アリアの声だけが響く。
「――《本契約は所有権の譲渡を意味しない。風雨琴ネフェルは、いかなる時点においても協力を中止し、水門を離れる権利を有する》」
「……七日間」
ネフェルが呟いた。
彼女の目から、涙が溢れた。
「覚えていたとおりだった」
「ああ」
「私、間違っていなかったのね」
「間違ってない」
「でも、さっきは自信がなくなった。私が忘れているだけかもしれないって。四百年も経ったなら、紙のほうが正しいのかもしれないって……」
「ネフェル様」
マティアス司祭が呼びかけた。
ネフェルは身体を強張らせたものの、逃げなかった。
「何?」
「謝罪します」
司祭は深く頭を下げた。
「私は、改竄された契約を本物だと信じ、あなたへ戻るよう求めました。知らなかったとはいえ、先ほど強制術式によって苦しむあなたへ、契約に従ったほうが安全だとも申し上げた。それは誤りでした」
「教会が間違えたと認めるの?」
「少なくとも、この契約書が改竄されていたことは、私も自分の目で確認しました」
「あなたが謝れば、全部終わるの?」
「終わりません。改竄を行った者と、その後の管理責任を調査する必要があります。教区本部へも報告を——」
「また持ち帰るの?」
ネフェルの声に怯えが混じる。
「原本は、ここへ残します」
マティアス司祭の答えに、オルム村長が驚いた。
「教会の保管文書だろう」
「この契約書を教会だけで保管する資格があるとは、今の私には申し上げられません。四村、フェルム、ネフェル本人、それぞれが確認できる場所で保管方法を決めるべきです」
「本部から処罰されるぞ」
「そうでしょうね」
「怖くないのか?」
「怖いです」
司祭は苦笑した。
「ですが、ここで持ち帰れば、今度は私自身が疑われる側ではなく、隠す側になります。それはもっと怖い」
ハンネ村長が司祭を見つめた。
「少しは信用してもいいと思わせる答えだね」
「少しだけですか?」
「今日会ったばかりだと言っただろう。欲張るんじゃないよ」
「肝に銘じます」
契約が改竄されていた。
ネフェルには、水門へ戻る義務などなかった。
それでも、四村の代表たちの顔は晴れなかった。
「では……水門は、どうなる」
オルム村長が、誰にともなく尋ねた。
「契約が無効なのはわかった。ネフェルを戻す権利が、我々にないことも認める。だが、水門が壊れかけている事実は変わらない」
「オルム村長、もうネフェル様へ戻れとは——」
「言わん!」
リナの言葉を遮り、オルム村長が机を叩いた。
「言わんが、村へ帰って皆に何と説明すればいい? 契約は偽物でした、守護神器はもう戻りません、次の雨が降ったら逃げてくださいとでも言うのか!」
「水門を直す」
俺が答える。
「だから、その金と人手をどうするのか聞いている!」
「それをこれから決めるんだよ」
ハンネ村長が言った。
「今までネフェル一人へ押しつけていた四百年分の仕事を、今度は守られてきた側で分ける。四村も、うちも、教会もだ」
「我々は長年、維持費を払ってきた!」
代表の一人が叫ぶ。
「その金が水門へ使われていなかったなら、払った側も被害者だろう。もう一度出せと言うのか!」
「出せない村からまで同じだけ取るつもりはない。金がなければ人手を出す。人も出せなければ、食料や寝床を用意する。それぞれが出せるものを話し合う」
「言葉では簡単だ」
「簡単じゃないから、今から揉めるんだよ」
「揉めることを前提にするのか?」
「人が五人も集まって、揉めずに大仕事ができると思ってるなら、あんたは村長に向いてないね」
オルム村長は何か言い返そうとし、結局、苦い顔で椅子へ座った。
「私も手伝う」
ネフェルが言った。
全員の視線が集まる。
「水門へは戻らない。でも、天候を読んで雨の時期を知らせることはできる。工事の間だけ風や雨を逸らすことも、今の十二本の弦でできる範囲なら手伝う」
「本当にいいのか?」
俺が尋ねる。
「自分で決めたわ。嫌になったら休むし、無理なことは断る」
「それなら、頼みたい」
「ただし、ひとつ条件がある」
「何だ?」
「私が手伝うからといって、水門の修理を後回しにしないで。少しだけなら以前と同じように使えるとわかれば、人間はきっと、また少しずつ私へ頼るようになる」
代表者の何人かが気まずそうに目を伏せた。
「ネフェルの力を前提にしない水門を作る」
俺ははっきりと答えた。
「約束する」
「今度の約束は、紙に書く?」
「書いてもいい。でも、契約でネフェルを縛るためじゃない。俺たちが何をすると決めたのか、忘れないために書く」
「それなら書いて」
「七日間にするか?」
冗談のつもりだった。
ネフェルは一瞬だけ目を見開き、それから、少し意地の悪い笑みを浮かべた。
「水門を七日間で直せるの?」
「……調査してから期間を決めよう」
「約束は慎重なのね」
「四百年待たせるよりはいいだろ」
そのとき、ネフェルの十二本の弦がひとりでに鳴った。
強制契約の音ではない。
窓の外を流れる風と、遠くの雲を読み取った音だった。
ネフェルの表情から笑みが消える。
「どうした?」
「次の雨が来る」
「いつだ?」
彼女は目を閉じ、何度か弦を鳴らした。
「八日後。今回ほどではないけれど、応急修理した水門が耐えられる強さではないわ」
集会所にいた全員が、息を呑んだ。
「八日で水門を直せというのか」
オルム村長が呻く。
「無理だ」と言う者はいなかった。
無理だと言えば、その先に残る方法が、またネフェルを水門へ戻すことだけになってしまうからだ。
俺は復元された契約書へ目を落とした。
四百年前、七日間だけと約束された仕事は、終わらないまま四百年続いた。
今度こそ、七日で終わらせなければならない。
ネフェルが二度と、十三日目を迎えずに済むように。




