第27話 四百年働いた神器へ、村人たちは「まだ足りない」と言いました
フェルムの外壁が見えたとき、ネフェルは荷馬車の上で立ち上がった。
「座っていたほうがいい。まだ身体が安定してないんだ」
「見たいの」
「何を?」
「私が帰る場所になるかもしれない場所」
帰る場所。
その言葉を聞いて、少しだけ胸が温かくなった。
けれど、ネフェルはすぐに付け加えた。
「まだ、なると決めたわけではないけれど」
「わかってる」
「残念そうね」
「残念だとは思う。でも、決めるのはネフェルだ」
「どうして人間は、思っていることを隠したあとで、聞かれると正直に言うの?」
「最初から全部言えば、相手に圧力をかけることもあるからな」
「聞かれたら圧力にならないの?」
「なるかもしれない」
「難しいわね」
「俺にもよくわからない」
丘の上に広がる村は、俺が教会から追放された直後に初めて見た頃とは、すっかり姿を変えていた。
崩れかけていた外壁にはアギスの力が戻り、その内側には修理を終えた家々が並んでいる。中央広場の地下には、巨大な移動城塞フェルムが眠っていた。
まだ直せていない場所のほうが多い。
それでも、ここには自分たちの手で直してきた生活があった。
「見た目は、普通の村ね」
「地下に城塞が埋まってることを除けばな」
「もっと立派な場所だと思っていたわ。神器が何人もいるのでしょう?」
「神器がいれば建物が勝手に立派になるわけじゃない」
「では、あなたたちは普段、何をしているの?」
「壁を守ったり、鍋を直したり、石炭を食べたりしてます」
セラが答える。
「最後のは誰?」
「ヘスティアです」
「鍋を直すのは?」
「ラウルです」
「聖剣のあなたは?」
「主にラウルの護衛と、工房の手伝いをしています」
「聖剣なのに?」
「聖剣だからといって、毎日何かを斬る必要はありません」
ネフェルは不思議そうに首を傾げた。
その疑問へ答える前に、村の門が開いた。
「ラウル!」
赤い髪をなびかせ、アギスが飛び出してくる。出迎えてくれたのかと思った次の瞬間、彼女の拳が俺の肩へ叩き込まれた。
「痛い!」
「必ず戻るって約束しただろうが!」
「戻ってきただろ!」
「帰りの走車を水門に使って、怪我人二人を連れて二日歩くのを、無事に戻るとは言わねえんだよ!」
「でも、全員ここにいる」
「言葉の隙間を探して約束を守ったことにするな!」
もう一度叩かれそうになったので身構える。アギスは拳を上げたものの、今度はその手で俺の頭を乱暴に撫でた。
「……帰ってきたなら、それでいい」
「どっちなんだよ」
「腹は立ってるし、安心もしてる。両方だ」
アギスは俺の後ろへ目を向けた。
「そっちが風雨琴か?」
「ネフェルよ」
「アギスだ。この村の壁を守ってる」
「あなたも、何かに固定されているの?」
「昔は壁に埋まってた。今は好きで守ってる」
「好きで?」
「ああ。嫌になったらやめる」
「本当に、やめられる?」
「村の連中は困るだろうし、文句も言うだろうな。それでも最後に決めるのは私だ」
アギスは、何でもないことのように答えた。
ネフェルがさらに尋ねようとしたところへ、黒髪の小さな影が駆けてくる。
「ねえ、弦を見せて」
ヘスティアだった。
ネフェルの許可を待たず、背中の十二本の弦へ手を伸ばしかける。俺は慌てて、その襟を掴んだ。
「まず挨拶をしろ。それから、触っていいか聞く」
「知ってる。わたしはヘスティア。火と炉を守る神器。触っていい?」
「今、ラウルに言われなければ、そのまま触ったでしょう?」
「うん」
「……正直なのね」
「触っていい?」
「一本だけなら」
ヘスティアは一番外側の弦へ、そっと指を触れた。
高く澄んだ音が鳴る。
「細い。まだ新しい音がする」
「拘束枠を溶かして作ったの」
「嫌な物だった?」
「ええ」
「じゃあ、いい音にすれば勝ちだね」
「何に勝つの?」
「嫌だった頃の自分」
ヘスティアはそれだけ言うと、もう一度弦を鳴らした。
ネフェルは戸惑った顔をしながらも、止めなかった。
「再会の挨拶は、そのくらいにしておくれ!」
中央広場のほうから、ハンネ村長の声が飛んできた。
「こっちは二日間、同じ話を何度も聞かされてるんだ。あんたたちが戻ったなら、さっさと続きを始めるよ!」
広場に面した集会所には、二十人近い人間が詰め込まれていた。
長椅子へ座っているのは、下流四村の代表者とその付き添い。壁際には、教会の水利管理を示す青い法衣をまとった司祭が立っている。
全員が疲れた顔をしていた。
俺たちの到着を二日間待っていたらしい。床には毛布が積まれ、机の隅には食べかけの黒パンや冷めた茶が残っていた。
話し合いの場というより、長引いた籠城のあとに見える。
「その娘が風雨琴か?」
長椅子から立ち上がったのは、白髪の大柄な男だった。
「私は最下流にあるローデ村の村長、オルムだ。まず確認したい。その娘を、水門から外したのはそこの修理師で間違いないな?」
「娘ではなく、ネフェルです」
セラが静かに訂正する。
「名など知っている。ローデ村では、代々《水門のネフェル様》と呼んで祈りを捧げてきた」
「なら、なおさら名前で呼んでください」
「言葉尻の話をしに来たんじゃない!」
オルムが机を叩く。
「水門は一度、崩壊しかけたんだぞ。村から見ても、水位が急激に上がっていることはわかった。その直後にネフェル様の音が消えた。水門を支えていた神器を、こちらへ連れ去ったからだろう!」
「連れ去ってはいない」
俺が答える。
「ネフェルが水門を離れたいと言った。だから、壊れた水門を直して彼女を外した」
「応急修理だと聞いている」
「ああ。恒久的に持たせるには、まだ作業が必要だ」
「なら、なぜ修理が終わる前に連れてきた!」
「彼女を水門の部品として使い続けることになるからだ」
「一人を守るために、四つの村を危険へ晒したのか!」
オルムの声に、同意する者たちのざわめきが重なった。
「静かにしな!」
ハンネ村長が杖で床を叩く。
「大声を出せば水門が丈夫になるわけじゃないよ。まず本人の話を聞きな」
「本人と言うが、神器だろう」
「だから何だい?」
「人間と同じように扱える問題ではない。神器には神器の役目がある」
「その役目を決めるのは、誰だい?」
「契約を結んだ四村と教会だ」
「四百年前に生まれてもいなかったあんたが?」
オルムの顔が赤くなる。
「我々は先祖から責任を引き継いだ!」
「都合よく権利だけ引き継いだようにしか聞こえないねえ」
「責任も引き継いでいる! ローデ村は毎年、収穫の二十七分の一を水門維持費として納めてきた。洪水で作物が減った年にもだ! 何もせず、ネフェル様だけに押しつけていたわけではない!」
「では、納められた物資がどこに使われたのか、説明していただけますか?」
壁際にいたバルドが口を開いた。
彼は残された片腕を胸元で組み、教会司祭を見ている。
「ネフェルの弦は、百年以上交換されていない。水門の主歯車は持ち去られたまま。開閉板も排水路も放置されていた。それほどの維持費を集めておいて、何を維持していた?」
四村の代表たちの視線が、一斉に司祭へ集まった。
青い法衣の司祭は、慌てる様子もなく一歩前へ出た。
「私は水利管理司祭のマティアスと申します。まず訂正させてください。教会は必要な点検を行ってきました。ただし、ここ数十年は魔王軍との戦いにより技術者と資材が不足し、大規模な修繕が困難でした」
「点検というのは、見て帰ることか?」
「劣化状況を記録し、祈祷によって天候核を安定させております」
「祈祷で主歯車が生えてくるなら、俺たちも苦労しねえな」
ガルドが吐き捨てる。
マティアス司祭は彼を見て、わずかに目を細めた。
「勇者パーティーのガルド殿ですね。なぜ異端者と行動を共にしているのです?」
「今は荷物持ちだ」
「勇者としての名誉を捨てるおつもりですか?」
「まだ捨てたとは言ってねえよ。ただ、名誉って言葉を使えば、聞かれたくないことまで黙らせられると思うな」
「私は事実を——」
「なら、集めた金と資材がどこへ行ったか、事実を答えろ」
「会計記録は教区本部に保管されています。この場で即答できる内容ではありません」
「便利なところに置いてあるんだな」
「ガルド」
俺が声をかける。
司祭が怪しいことと、今ここで責め続けることは別だ。四村の代表にとって、水門を任せていた相手は教会なのだ。いきなりすべてを否定されても、受け入れられないだろう。
「維持費のことは、記録を調べればわかる。今はネフェルの話をしたい」
「その前に、私からも話させてください」
長椅子に座っていた若い女性が立ち上がった。
リナと名乗った彼女は、川岸に最も近いミルト村で水車小屋を営んでいるという。傍らには、七歳ほどの少年が座っていた。母親の服を握り、怯えた目で周囲を見ている。
「子供を交渉へ連れてきたのかい?」
ハンネ村長が厳しい顔で尋ねる。
「夫は村に残って避難の指示を出しています。ほかに預けられる人がいませんでした」
「子供を盾にするつもりなら帰りな」
「そんなつもりはありません」
「本当に一度も、そこの子を見ればネフェルが断りにくくなると思わなかったかい?」
リナは反論しかけ、口を閉ざした。
しばらくして、悔しそうに答える。
「……思いました」
「お母さん?」
少年が不安そうに見上げる。
リナは息子の頭へ手を置いた。
「思いました。でも、それだけで連れてきたわけではありません。家へ置いてくることもできなかった。本当に、ほかに方法がなかったんです」
「なら、その子を責める話じゃないね。座らせておきな」
「はい」
リナは息子を長椅子へ座らせたまま、ネフェルへ向き直った。
「ネフェル様。私の祖父は、四十一年前の洪水で亡くなりました」
ネフェルの指が動き、背中の弦へ触れる。
「あの年のことは覚えているわ。一本の弦が緩んで、水を止めきれなかった」
「祖父は夜中に水車小屋へ戻ったんです。水門が持ち直したから、もう大丈夫だと言われて。流された水車を繋ぎ直そうとして、次の増水に呑まれました」
「……ごめんなさい」
「謝ってほしいわけではありません。あなたがいなければ、村全体が流されていたことも知っています」
「では、どうしてその話をしたの?」
「怖いからです」
リナは息子の肩へ手を置いた。
「水門は直したと言われました。でも、応急処置でしょう? 次の大雨で壊れるかもしれない。もし壊れたら、この子を連れてどこへ逃げればいいんですか。畑も、水車も、家も捨てろと言われたら、私たちは何を食べて生きればいいんですか」
「だから、私に戻ってほしいのね」
「はい」
「四百年、水門に縛られていたと聞いても?」
「それでもです」
集会所が静まり返る。
リナの答えは残酷だった。
だが、彼女は残酷な人間に見えなかった。手は震えている。自分が何を頼んでいるのか、理解したうえで言っている。
「あなたが水門へ戻れば、息子が助かると思ってしまいます。正しくないとわかっていても、息子とあなたのどちらを選ぶのかと聞かれたら、私は息子を選びます」
「リナさん」
マティアス司祭が止めようとする。
「きれいな言葉へ直さないでください」
リナは司祭を睨んだ。
「ネフェル様は四村の守護者だから戻るべきだとか、崇高な役目だとか、そんなふうに言えば、私たちが良い人間に見えるだけです。本当は怖いから戻ってほしい。それだけです」
「母親なら当然だ」
オルム村長が言う。
「当然で済ませてはいけないから、私は自分で言っているんです」
リナはネフェルへ頭を下げた。
「お願いします。水門へ戻ってください。私たちを守ってください」
ネフェルの唇が動いた。
しかし、声が出ない。
集会所にいる全員の視線が、彼女へ集まっている。
「ネフェル様がいなくなったら、僕たちは死ぬの?」
長椅子にいた少年が、小さな声で尋ねた。
リナの顔から血の気が引く。
「違うの。そういう意味じゃ——」
「お母さん、昨日言ってた。水門様がいなくなったら、今度こそ村がなくなるって」
「それは……」
「僕、水門様に戻ってほしい」
ネフェルの肩が震えた。
「ラウル」
小さく呼ばれ、俺は一歩前へ出ようとした。
だが、セラに袖を掴まれる。
「待ってください」
「でも」
「ネフェルは、自分で話すと言いました」
「今、話せる状態に見えるか?」
「話せなくなったら助けると約束しました。まだ、彼女は助けを求めていません」
正しい。
けれど、待つことがこれほど苦しいとは思わなかった。
ネフェルは何度か息を吸った。
背中の弦が、彼女の呼吸に合わせて震える。
「……戻らない」
ようやく出た声は、かすれていた。
少年が泣きそうな顔になる。
リナも唇を噛んだ。
「私は、水門には戻らない」
ネフェルはもう一度、今度は少し強く言った。
「私はあなたの息子に死んでほしくない。村が流されればいいとも思わない。水門を直すためなら、私にできることを手伝う。でも、身体を繋がれて、二度と動けない場所には戻りたくない」
「次の雨までに、水門が直らなかったら?」
リナが尋ねる。
「それでも戻らないわ」
「息子が死ぬかもしれなくても?」
「……戻らない」
「どうして!」
リナの声が裏返った。
「あなたは神器でしょう! 人間より長く生きられる。食べる物がなくても死なない。村の生活がなくなれば、私たちは生きていけないのに、どうして——」
言い切る前に、リナは両手で口を覆った。
「ごめんなさい。今のは……」
「いいの」
ネフェルの顔は青ざめていた。
「あなたは私を嫌ってもいい。子供を守りたいのに、私が言うことを聞かないと思ってもいい」
「嫌いたいわけじゃありません」
「それでも、嫌いになることはあるわ。私も、トアを嫌いになりたかった。嫌ったほうが、自分が苦しんでいる理由を誰か一人へ押しつけられたから」
ネフェルはリナの息子へ視線を向ける。
「私が水門へ戻らないことで、あなたが怖い思いをするなら、ごめんなさい。でも、私はもう戻らない。あなたを助けるために、私の次の四百年を差し出すことはできない」
「僕のせいで、水門様がずっと動けなくなるの?」
「あなたのせいではないわ」
「でも、お母さんは僕を助けたいから、戻ってって言った」
「お母さんがあなたを大切にしていることと、私が戻らないことは、別の話なの」
「よくわからない」
「そうね。私も、まだよくわからない」
ネフェルは少し困ったように笑った。
「ただ、怖いからといって、誰かを閉じ込めてもいいことにはならない。あなたが大人になったとき、そのことだけ覚えていてくれればいいわ」
少年は母親を見上げた。
リナは何も言えず、息子を抱き寄せた。
「ネフェル様」
今度は、後方にいた老人が立ち上がった。
小柄な男で、四村の代表者というより、付き添いに見えた。
「私は、あなたに戻ってほしいとは言いません」
オルム村長が驚いたように振り返る。
「ベン爺、何を言っている。お前の家も川沿いだろう」
「私の祖父は、七十年前の増水で水門の近くに取り残されました。そのとき、ネフェル様が風を起こし、舟を岸へ戻してくださったそうです」
「覚えているわ」
ネフェルが言った。
「小さな舟に三人いた。風を強くしすぎて、舟を岸へぶつけてしまった」
「祖父は、そのとき折った腕が、天気の悪い日は死ぬまで痛んだと笑っていました。それでも助かった。祖父が助からなければ、父も、私も生まれていません」
老人は深く頭を下げた。
「今まで、ありがとうございました」
「……それだけ?」
「それ以上、何を求めればよいのでしょう。四百年も守っていただいたのです。足りないと言えば、罰が当たります」
「お前には幼い子も孫もいないから、そんなことが言えるんだ!」
別の代表者が怒鳴った。
老人の背中が強張る。
「そうかもしれん。家族をすべて見送った老人だから、きれいなことを言えるのかもしれない」
「ほら見ろ!」
「だが、子がいない者の意見は軽いのか? 守りたい者が多ければ、それだけ他人を犠牲にする権利も増えるのか?」
「そんなことは言っていない!」
「同じことだ!」
あちこちで声が上がり始める。
ネフェルを戻すべきだという者。戻すべきではないが、水門の代わりを先に示せという者。フェルムが責任を持てと主張する者。そもそも教会が修繕費をどこへ使ったのか調べるべきだと叫ぶ者。
誰も完全には間違っていない。
だからこそ、話がまとまらない。
「静かにおし!」
ハンネ村長の杖が、再び床を打った。
「あんたたちには、それぞれ怖がる理由がある。畑を失いたくない。子供を死なせたくない。家を捨てたくない。全部わかるよ」
「なら、なぜネフェル様を返さない!」
オルム村長が詰め寄る。
「怖い理由が百個あっても、それを束ねて一人の首へつける鎖にはできないからだよ」
「あなたの村は、水門が壊れても高台が残る! 畑の一部を失うだけで済む者が、正義を語るな!」
ハンネ村長の顔から、表情が消えた。
「畑の一部だって?」
「事実だろう」
「畑を失えば、冬を越せない家が何軒あると思ってる。うちにも子供がいる。病人も、年寄りもいる。高台へ逃げれば命は残るかもしれないが、そのあと食う物がない」
「なら、なおさら——」
「それでも、そのためにネフェルを鎖へ戻せとは言わない」
「では、我々へ飢えろと言うのか!」
「水門を直すと言ってるだろう!」
「費用は誰が出す!」
「四村と、うちと、教会で出すんだよ!」
「勝手に決めるな!」
「何も出さずにネフェルだけ出せと言うあんたに言われたくないね!」
「俺は、水門を直す」
二人の間へ入った。
「まず現地を詳しく調べる。主歯車は応急修理した。排水路を広げ、開閉板を直せば、ネフェルがいなくても維持できる可能性は高い」
「可能性では困る」
オルム村長が俺を睨む。
「次の雨は、あんたの調査が終わるまで待ってくれるのか?」
「待たない。だから工事が終わるまでは、上流で水位を監視する。危険なら早めに知らせる」
「知らせて、それからどうする。村を捨てて逃げろと?」
「命を守るには、そうするしかないときもある」
「簡単に言うな。あんたは家を奪われたことがあるのか?」
教会から追放された夜を思い出す。
帰る場所も、仕事も、積み上げてきたものも、一度に失った。
「ある」
「なら、わかるだろう!」
「わかるからこそ、誰かに同じ目を押しつけたくない」
「立派な言葉で腹は膨れん!」
「だから水門を直すと言ってる!」
「そこまでに村が流されたら、誰が責任を取る!」
「俺が——」
「ラウル」
言いかけた俺を、セラが止めた。
「取れない責任を、一人で引き受けると言わないでください」
「でも、俺が修理すると言ったんだ」
「だからといって、洪水で失われるすべてを背負うことはできません」
「なら、何て言えばいい?」
「水門は、皆で直すのです」
セラは四村の代表者たちへ向き直った。
「ラウルだけでも、ネフェルだけでもありません。水門によって守られる者が、それぞれ負担する。その話をするために、皆様はここへ来たのではないのですか?」
「我々は、奪われた神器を取り戻すために来た」
オルム村長が答える。
「奪われたのではありません」
ネフェルの弦が低く鳴った。
「私は、自分で水門を離れたの」
「あなたがどう思っていようと、風雨琴は四村の共同守護財だ」
「私は財産ではないわ」
「法的な表現だ。物として粗末に扱うという意味ではない」
「では、私が嫌だと言えば、自由に出ていけるの?」
「それは……守護契約がある以上、認められない」
「言葉を変えているだけでしょう」
ネフェルの声が震える。
「守護者。共同財産。管理対象。どんな名前で呼んでも、私が嫌だと言えないなら、水門の部品と同じよ」
「皆様、感情だけで決めるべき問題ではありません」
マティアス司祭が前へ出た。
手には、金属製の筒が握られている。
「ネフェルには、下流四村との正式な守護契約があります。これは強制されたものではなく、彼女自身が同意した契約です」
「七日間だけの約束だったわ」
「そのような記録はありません」
「嘘よ」
「では、原本をご確認ください」
司祭が筒から一枚の古びた羊皮紙を取り出した。
端は黒ずみ、何度も補修された跡がある。中央には教会と当時の領主、四村の代表者による署名が並んでいた。
「触れないでください。四百年以上前の原本です」
マティアス司祭は羊皮紙を机へ広げ、記された一節を読み上げる。
「――《風雨琴ネフェルは、自らの意思により四村の守護者となり、河川の脅威が去るまで水門を離れないものとする》」
「違う」
ネフェルが首を振った。
「私はそんな言い方をしていない」
「最下部をご覧ください」
羊皮紙の下端に、小さな竪琴の形をした銀色の印があった。
ネフェルが一歩近づく。
彼女の胸にある天候核と、羊皮紙の印が同時に光った。
「ネフェル?」
「これは……」
彼女は震える手で、自分の胸元を押さえた。
「私の共鳴印よ」
マティアス司祭が静かに告げる。
「ご自分で契約へ同意した証拠です」
「でも、私は七日間だけだと——」
「四百年前の記憶です。長い年月の中で、思い違いをなさっている可能性もあるでしょう」
「そんな……」
「本人の記憶より、紙を信じろと言うのか?」
俺が問いかけると、司祭はまっすぐこちらを見た。
「記憶は変化します。しかし、正式に認証された契約は変化しません」
ネフェルの共鳴印が、さらに強く光る。
次の瞬間、十二本の弦が本人の意思とは無関係に鳴り始めた。
「何……これ……?」
ネフェルの両腕へ、銀色の細い線が浮かび上がる。
水門へ繋がれていたときと同じ、拘束線だった。
「やめろ!」
「私は何もしておりません」
マティアス司祭は羊皮紙から手を離している。
「契約書が、所有者のもとへ戻るよう求めているだけです」
苦しそうに胸を押さえるネフェルの前で、四百年前の契約書は、まるで生きているかのように銀色の光を放っていた。




