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第26話 救った神器を返せと言われたので、まず壊れた帰り道を直します

 水門の修理に使った導力輪は、当然ながら救難走車へ戻ってきてはくれなかった。


 右前輪を失ったカリオン三号は、山の斜面で申し訳なさそうに傾いている。水門を守る主歯車として役立っているのだから、何も悪くないのだが、これから二日間歩くことを考えると、恨めしく見えてしまうのは仕方がない。


「引きずって帰るのは無理か?」


 ガルドが車体の後ろへ回り、試しに押した。


 残った五つの導力輪がわずかに動くものの、右前方の車体が土へ深く食い込む。数歩も進まないうちに、ガルドの靴が泥の中へ沈んだ。


「無理だな」


「まだ一回しか押してないだろ」


「押すたびに深く埋まってる。三回目にはガルドまで動けなくなるぞ」


「だったら、車体を少し持ち上げながら——」


「あなた一人で持ち上げるつもりですか?」


 セラが尋ねる。


「できるかもしれない」


「カリオン三号の現在重量は、積載物を除いて二・七トンです」


 アリアの言葉に、ガルドは車体から手を離した。


「無理だな」


「諦めるのが早くない?」


 ネフェルが不思議そうに首を傾ける。


「さっきまで、できるかどうか試してから決めると言っていたでしょう?」


「試した結果、無理だとわかった。人間には、見栄より大事な腰があるんだよ」


「二・七トンくらい、風を使えば少し軽くできるわ」


 ネフェルの背中にある十二本の弦が淡く光り始めた。


 俺は慌てて、その手首を掴んだ。


「待て」


「何?」


「今、天候調律を使おうとしたのか?」


「そうよ」


「修理したばかりだ。まだ身体が安定してない」


「それでも、風を起こすくらいならできるわ」


「駄目だ」


「どうして?」


「無理をして壊れたら、何のために水門から外れたのかわからないだろ」


 ネフェルは俺に掴まれた手首を見た。


「放して」


「悪い」


 すぐに手を離す。


 ネフェルは手首を胸元へ引き寄せると、俺を睨んだ。


「私が使うかどうかは、私が決めるのでしょう?」


「自分を壊すような使い方まで認めた覚えはない」


「それでは、水門にいた頃と同じではないの? あの人たちも、私のためだと言っていたわ。弦が傷むから勝手に動くな、天候核が不安定になるから余計な曲を弾くなって」


「俺はネフェルを働かせたいわけじゃない。逆だ。休んでほしいんだ」


「役に立たずに休んでいるだけの神器を、本当に村へ置いてくれるの?」


「置くとか置かないとかじゃなくて——」


「なら、何なの?」


 言葉に詰まった。


 ネフェルが不安を抱えていることはわかっている。だが、安心させたいと思うあまり、俺はまた先回りして彼女の行動を止めようとしていた。


「お二人とも、出発の準備を進めながら話してください」


 セラが荷台から食料袋を下ろす。


「ここで立ち続けていても、フェルムまでの距離は縮まりません」


「そうだな。カリオンは置いていく。積める物は俺たちで分けて持とう」


「一番重い荷物を寄越せ」


 ガルドが二巻きの鎖へ手を伸ばした。


「肩は大丈夫なのか?」


 中継宿で梁を持ち上げたとき、彼の右肩にはかなりの負担がかかっている。表面上は平気そうだが、先ほどから右腕を上げるたび、わずかに顔をしかめていた。


「何ともねえ」


「嘘をつくな」


「少し痛いだけだ。剣を振るわけじゃないなら問題ない」


「鎖を二巻きも担いだら悪化する」


「なら、一本だけ持つ。もう一本はお前が持て」


「それならいい」


「待ちなさい」


 セラが俺とガルドを交互に見た。


「ラウルは修理道具と食料を持っています。そのうえ鎖まで担げば、今度はラウルが歩けなくなります」


「じゃあ、セラが——」


「あなたは何も持つな」


 俺とガルドの声が重なった。


 セラの表情から、すっと温度が消える。


「お二人とも、私の話を聞いていましたか?」


「聞いていたから言ってる。契約環を外したばかりだろ」


「魔力が減っているだけで、歩くことはできます」


「顔色が悪い」


「もともと色白です」


「それで押し切れると思うなよ」


「どうして、みんなで自分のほうが無理をしても大丈夫だと主張しているの?」


 ネフェルが呆れた声を上げた。


「荷物が多いなら、置いていけばいいでしょう」


「何を置いていく?」


 ガルドが尋ねると、ネフェルは食料袋を指差した。


「その固い焼き菓子」


「これは駄目だ。歩いて帰るなら食い物はいる」


「先ほど、食べるとお腹が痛いと言っていなかった?」


「痛くなるのと飢えるのなら、痛いほうを選ぶ」


「それほど食料がないの?」


「食料というより、保存期間の長い石だと思ってくれ」


「食べ物なのでしょう?」


「食えばわかる。一本持っていけ」


「いらない」


「遠慮するな」


「今の説明を聞いて、欲しがると思う?」


 結局、荷物を四つに分けた。


 ガルドが鎖を一巻きと工具類、俺が食料と残りの鎖、セラが防水布と軽い修理材を背負う。ネフェルには、小さな水筒だけを持ってもらうことにした。


「私だけ、ほとんど荷物がないわ」


「歩くだけで大変だろ」


「歩けるかどうか、まだ試してもいない」


「保守作業室の中で、三度転びかけていました」


 アリアが記録を読み上げる。


「あれは床が滑ったの」


「床面は乾燥していました」


「あなた、どちらの味方なの?」


「事実に味方という概念はありません」


「少しくらい、私に都合よく記録してくれてもいいでしょう?」


「正確な記録を求めて修復されたものと認識しています」


「アリアへ頼む内容を、もう少し考えるべきだったわね」


「私を修復したのはラウルです。苦情は彼へお願いします」


「何でも俺へ回すなよ」


 そんな会話をしながら、俺たちは旧街道へ向かった。


 水門を離れて間もない頃、ネフェルは何度も後ろを振り返っていた。


 水門から呼び戻されるのではないか。自分が離れた途端に崩れるのではないか。そんな不安があるのだろう。


 俺も同じだった。


 応急修理に過ぎない。主歯車は復元したが、開閉板の亀裂も、四百年放置された排水路も、直すべき場所はいくらでもある。


 だからといって、ネフェルを連れ戻す理由にはならない。


 物を直すために、人を部品として使い続けるのは間違っている。


 そう考えていても、水門が見えなくなる瞬間、胸の奥へ不安が湧いた。


「心配?」


 ネフェルが俺の顔を覗き込んだ。


「何が?」


「水門よ。私を外したことを後悔している顔をしている」


「後悔はしてない。ただ、応急修理が持つか心配してる」


「私が戻れば、もっと安心できるわ」


「その話はしない」


「どうして? 心配しているのでしょう?」


「心配することと、ネフェルへ戻れと言うことは別だ」


「私には同じに見える」


「同じにしない方法を探してるんだよ」


 ネフェルは納得していないようだった。


 それでも、それ以上は言わずに前を向いた。


 歩き始めて一時間ほどで、彼女の足取りが遅れ始めた。


 最初は濡れた石を慎重に避けているだけだと思っていた。しかし、次第に歩幅が狭くなり、呼吸も乱れていく。


「少し休もう」


「嫌」


「休憩は必要だ」


「まだ歩けるわ」


「歩けるかどうかじゃなくて、今のうちに休むんだ」


「私に合わせたら、避難塔へ着くのが遅れるでしょう」


「迎えが来るのは二日後だ。急いでも仕方がない」


「それなら、私を置いて先に行けばいい」


「置いていかない」


「どうして?」


「どうしてって……一緒に帰るために来たんだろ」


「私を連れて帰って、何をさせるの?」


「今は何も決めてない」


「役目も決めずに連れていくなんて、おかしいわ」


「おかしくない。居場所を決めてから、やることを探せばいい」


「人間は、働かない神器を養わないでしょう?」


「そう思うなら、村へ来て自分で確かめろ」


「もし本当に役に立たないと言われたら?」


「そのとき考える」


「あなたは、いつもそのとき考えると言うのね」


「今、全部決めようとすると、間違えるからな」


「私は今、答えが欲しいの」


 ネフェルの声が強くなる。


「何もしなくてもいていい、絶対に捨てない、ずっと守るって言ってほしい。そうすれば安心できるのに、どうして言ってくれないの?」


「ずっと守るなんて、守れるかわからないからだ」


「では、やっぱり捨てるかもしれないのね」


「違う」


「何が違うの?」


「俺だって、いつまで生きているかわからない。教会がまた来るかもしれないし、村から離れなきゃならない日も来るかもしれない。できないかもしれない約束をして、今だけ安心させたくないんだ」


「それなら私は、いつ安心すればいいの?」


 答えられなかった。


 正直に話せばわかってもらえると思っていたが、正しさだけでは不安は消えない。ネフェルが求めているのは、先のことなど考えずに抱きしめてくれるような約束なのだろう。


 それを言えない俺が誠実なのか、ただ臆病なのか、自分でもわからなかった。


「ネフェル」


 セラが振り返った。


「ラウルは、言葉で安心させることを避けているのではありません。約束を破って失望されることを、極端に怖がっているのです」


「セラ」


「本当のことでしょう?」


「そうだけど、今言う必要はないだろ」


「あります。ラウルだけがネフェルを見抜いたように話すのは不公平です」


 セラはネフェルの隣へ並んだ。


「ネフェルは役に立たなければ捨てられることを恐れている。ラウルは期待されて応えられないことを恐れている。どちらも怖いものを避けるため、相手に自分の望む言葉を言わせようとしています」


「私は、そんなつもりじゃ——」


「ないつもりでも、そうなっています」


 ネフェルは不満そうに唇を尖らせた。


「あなたは何も怖くないように言うのね」


「私は、弱っていると知られれば置いていかれるのではないかと考え、体調を隠しました」


「私と同じじゃない」


「似ていますね」


「では、どうすればいいの?」


「少なくとも、歩けないなら休むべきでしょう」


「あなたも休むの?」


「私はまだ歩けます」


「それはずるいわ。私にだけ休めと言うの?」


「私は——」


 言葉の途中で、セラの身体が揺れた。


 咄嗟に腕を掴む。彼女はすぐに立て直したが、触れた手は冷たかった。


「二人とも休憩だ」


「ラウル、私は——」


「次に歩けると言った奴から、荷物を全部取り上げる」


「横暴です」


「構わない」


「お前も休め」


 ガルドが俺の背中から食料袋を奪った。


「俺は平気だ」


「そう言うと思った。お前も含めて四人とも休みだ」


「ガルドは?」


「俺は、立って見張ってる」


「右肩が痛いんだろ」


「……じゃあ五人とも休みだ。アリア、お前も休め」


「私は端末ですので、休憩を必要としません」


「一人だけ真面目に答えるな。虚しくなるだろ」


 道脇にあった大きな木の下へ入り、防水布を広げた。


 全員で腰を下ろすと、しばらく誰も話さなかった。聞こえるのは木の葉へ落ちる雨音と、遠ざかった水門から響く水の音だけだ。


 ガルドが固い焼き菓子を割ろうとして苦戦し、最後には鎚で叩き始めた。


「それ、食べ物へ使う道具じゃないだろ」


「歯を折るよりましだ」


「私にも一つちょうだい」


 ネフェルが手を伸ばす。


「さっきはいらないって言っただろ」


「歩いたらお腹が空いたの」


「神器も腹が減るのか?」


「水門に繋がっていた頃は、周囲の魔力で動いていたわ。今の身体は、人間と同じように食べる機能もあるみたい」


「なら、少し水へ浸したほうがいい」


 ガルドは焼き菓子を二つに割り、水筒の水をかけてから渡した。


 ネフェルが慎重に口へ入れる。


「……固い」


「だろ?」


「味も不思議」


「不味いとは言うなよ。どこでハンネ婆さんが聞いてるかわからねえ」


「美味しくない」


「もっとはっきり言いやがった」


 ネフェルはもう一口食べた。


「でも、嫌いではないかもしれない」


「食べ物の感想まで面倒だな」


「あなたに言われたくないわ」


 短い休憩のあと、俺たちは再び歩き始めた。


 ネフェルの歩幅へ合わせたため、進む速度はかなり落ちた。それでも、彼女は先ほどより無理をせず、疲れたときには自分から立ち止まるようになった。


 その代わり、セラが黙って遅れ始める。


「セラ。休むか?」


「大丈夫です」


「今のうちに休む?」


 ネフェルが、俺の口調を真似して尋ねた。


「必要ありません」


「歩けるかどうかではなく、今のうちに休むのでしょう?」


「……覚えるのが早いですね」


「あなたにだけは言われたくないわ。顔色が私より悪いもの」


 セラはしばらく抵抗したが、最後にはネフェルと交互に休むことで納得した。


 二日かかるはずの道のりは、このままでは三日になる。


 だが、無理に急いで途中で動けなくなるよりはいい。


 夕方が近づいた頃、旧街道の脇に一台の荷車を見つけた。


 車輪が外れ、荷台が道端へ倒れている。まだ木材の腐食は浅く、数か月以内に放置されたものらしい。近くには所有者を示す炭焼き職人の印が残っていた。


「中継宿で助けた一家の荷車かもしれないな」


「直せるか?」


 ガルドが荷車を起こしながら尋ねる。


「車軸が折れてる。材料になる木があれば直せる」


「近くに倒木があります」


 アリアが道の先を示す。


「材質は樫。車軸への転用が可能です」


「よし。これを借りよう。持ち主にはフェルムで会えるだろうから、そのとき話す」


「持ち主の許可なく使っていいの?」


 ネフェルが尋ねた。


「厳密にはよくない。でも、このまま置けば雨で腐る。直して避難塔まで運び、持ち主へ返す。あとで使用料を求められたら払う」


「勝手に使うことと、助けることは違うの?」


「違う。だから本当は、先に聞けるなら聞いたほうがいい」


「でも今は、聞けない」


「ああ。緊急時だから借りる。ただ、緊急だったと言えば何をしても許されるわけじゃない。あとで説明して、怒られたら謝る」


「人間の決まりは曖昧ね」


「全部を決まりだけで決めると、困ってる人間まで助けられなくなる。でも曖昧にすると、都合よく使う奴も出てくる。だから面倒なんだ」


「面倒なことばかりね」


「フェルムへ着く前に帰りたくなったか?」


「いいえ。少し興味が出てきたわ」


 倒木から必要な長さの樫を切り出し、折れた車軸を復元する。


 外れていた車輪を取りつけ、荷台の亀裂も直した。人が引くには少し大きいものの、荷物と二人程度なら載せられる。


「セラとネフェルは乗ってくれ」


「私は歩きます」


「私も歩けるわ」


 二人が同時に拒む。


「では、荷物だけ載せて交代で休め」


「ラウルは乗らないのですか?」


「俺とガルドで引く」


「それでは、二人が疲れます」


「だから交代する。全員が少しずつ楽をすればいい」


「俺は最初から引く役に決まってるのか」


 ガルドがぼやく。


「荷物持ちなんだろ?」


「都合のいいときだけ、その呼び方を使うな」


 防水布を荷台の上へ張り、小さな帆のような形にした。


 ネフェルが、それを見上げる。


「風を当てれば、引く力を減らせるわ」


「身体は大丈夫なのか?」


「弱い風なら問題ない。でも、使うかどうかは私が決める」


「わかった。頼んでもいいか?」


「断っても怒らない?」


「怒らない」


「役に立たないと思わない?」


「思わない」


「理由を聞かずに断っても?」


「ああ」


「……それなら、やる」


 十二本の弦が柔らかな音を奏でる。


 後方から吹いた風が防水布を膨らませ、荷車がゆっくりと動き始めた。


 ガルドが驚いて手を離す。


「おお、勝手に進むぞ」


「完全に手を離すな。坂で止まらなくなる」


「わかってる。便利だな、ネフェル」


 その言葉に、ネフェルの表情がわずかに固まった。


 ガルドもすぐに気づいたらしい。


「悪い。便利だから村へ来てほしいって意味じゃねえ」


「では、どういう意味?」


「助かったってことだ。お前が風を使いたいと決めてくれて、俺たちが助かった。それ以上じゃない」


「……そう」


 ネフェルは少し考え、また弦へ触れた。


「ねえ、ガルド」


「何だ?」


「もう少し強い風にしてほしい?」


「してほしい。でも、疲れるなら今のままでいい」


「それでは、少しだけ強くするわ」


「頼む」


 荷車が速度を上げる。


 ガルドは慌てて取っ手を掴み直し、ぬかるんだ道を走り始めた。


「少しって言っただろ! 速い、速い!」


「そのくらい歩けるのでしょう?」


「歩くのと荷車に引っ張られるのは違う!」


「ガルド、手を離すな!」


「わかってる! ネフェル、少し弱めろ!」


「断っても怒らない?」


「今は断るな!」


 ネフェルが笑い、風を弱める。


 その笑い声を聞きながら、俺とセラは顔を見合わせた。


「少し元気になったようですね」


「ああ」


「ラウルも安心しましたか?」


「少しだけな」


「すべてを守る約束ができなくても、今日一日を一緒に過ごすことはできます」


「そうだな」


「私も今日は一緒にいます。明日も、可能であれば」


「その言い方、別れ話みたいで嫌だな」


「ずっと一緒にいると約束したほうがよいですか?」


「それは……今はいい」


「ラウルは面倒ですね」


「知ってるよ」


 二日目の夕方、俺たちはようやく旧街道の避難塔へ到着した。


 塔の前には、フェルムから来た二台の荷馬車が止まっている。


「遅いぞ!」


 御者台から降りてきたのはデニスだった。ほかに村の若者が三人、毛布と食料を抱えている。


「ハンネ村長は?」


「村に残ってる。下流の四村から来た連中と、朝からずっと話してるよ。というより、怒鳴り合ってる」


「教会の司祭もいるんだろ?」


「ああ。クレメンスとは別の奴だ。水利管理を担当してるとかで、水門の古い契約書を持ってきた」


 デニスはネフェルを見ると、少し気まずそうに頭を下げた。


「あなたが、ネフェルさんか」


「そうよ」


「水門を支えてくれていたと聞いた。俺の畑も、あなたがいなければ流されていたかもしれない。だから、まず礼を言う。ありがとう」


「……どういたしまして」


「でも、四つの村の連中が不安になる気持ちもわかる。あんたに戻れと言うのが正しいとは思わない。ただ、水門がまた壊れたらどうするんだって聞かれると、俺にも答えられない」


「私に戻ってほしい?」


 ネフェルが尋ねる。


 デニスはすぐには答えなかった。


「正直に言えば、戻ってくれたほうが安心する」


 その言葉に、ネフェルの肩が強張る。


「でも、俺が安心するために、あんたが四百年いた場所へ戻るべきだとも言えない。だから困ってる。感謝してるのに、戻ってほしいとも思う。自由になってよかったと思うのに、その自由が怖い。たぶん、四村の連中も似たようなものだ」


「私を連れ戻しに来たのではないの?」


「俺は迎えに来ただけだ。ただし、村へ着けば話をしなくちゃならない。代表たちは、あんたと直接話すまで帰らないと言ってる」


「何人いるの?」


「代表と付き添いを合わせて十八人。ほかに、水門が壊れると聞いて避難してきた家族もいる。全員があんたを物扱いしてるわけじゃない。助けてもらった礼を言いたい人もいるし、戻ってくれと泣いて頼む人もいる」


 デニスは苦い顔で付け加えた。


「単なる悪党なら、追い返せば済むんだけどな。自分の子供が洪水で死ぬかもしれないと思ってる相手は、話が面倒だ」


 ネフェルは黙って、背中の弦へ触れた。


「怖いか?」


 俺が尋ねると、彼女は小さく頷く。


「怖い。でも、行くわ」


「すぐに答えを出す必要はない。嫌になったら、途中で席を外してもいい」


「逃げたと思われる」


「思わせておけばいい」


「それでは、私の言葉が届かないでしょう?」


 ネフェルは顔を上げた。


「水門には戻らない。けれど、あなたたちが洪水を怖がることまで間違いだとは言わない。私は、その二つを自分の言葉で話したい」


「わかった。隣にいる」


「ラウル」


「何だ?」


「代わりに全部話さないでね」


「努力する」


「約束して」


「……ネフェルが話せなくなったら、少しだけ助ける。それ以外は黙ってる」


「それならいいわ」


 修理した荷車から荷物を移し、俺たちはフェルム行きの馬車へ乗り込んだ。


 壊れていた帰り道は、どうにか直せた。


 しかし、ネフェルが自分で選んだ道を守るためには、壊れた車輪よりも、もっと厄介なものを直さなければならない。


 四百年もの間、人々の中で当たり前になってしまった――誰か一人が犠牲になれば、ほかの全員が安心できるという考え方を。

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