第25話 四百年分の記憶を消さずに、「水門ではない彼女」を修理します
ネフェルの手は、驚くほど冷たかった。
人間ではないとわかっていても、その冷たさに胸がざわつく。天候核の光は弱まり、青緑色だった髪も、今は水底に沈んだ藻のように色を失っていた。
「ここでは修理できない。雨と濁流を避けられる場所へ運ぼう」
「北側に保守作業室があります」
アリアが水門内部の見取り図を表示する。
「入口は土砂に埋没していますが、壁面の損傷は軽微です。内部の乾燥状態を維持できれば、応急修復に使用できます」
「ガルド、運ぶのを手伝ってくれ」
「おう。荷物持ちだからな」
ガルドがネフェルを背負おうと屈み込む。しかし、ネフェルは薄く目を開け、嫌そうに眉を寄せた。
『背負われるのは嫌』
「この状態で歩けるのか?」
『歩けないけれど、背負われるのも嫌』
「じゃあ、どうしたいんだよ」
『もう少し丁寧に聞いて』
ガルドは困ったように俺を見た。
「俺、雑に聞いたか?」
「いつもよりは丁寧だったと思う」
「なら、どうすりゃいいんだ」
セラがネフェルのそばへ膝をついた。
「横向きに抱えて運ぶのは、いかがですか?」
『それも少し恥ずかしい』
「身体を引きずるよりはよいでしょう」
『それは絶対に嫌』
「では、ガルドに抱えてもらうか、私とラウルで担架を作るか、どちらかです。担架を作る場合は修理の開始が遅れます」
『……抱えるほうで』
「最初からそう言ってくれ」
『あなたが嫌そうな顔をするから、頼みにくかったのよ』
「嫌なわけじゃねえ。どこを持てば痛くないのかわからなかっただけだ」
『それを先に言いなさい』
「お前も、人の顔を勝手に読んで怒るなよ」
『四百年も水門に縛られていると、会話の練習をする相手がいないの』
「それを言われると、俺が悪いみたいになるだろ」
『少しくらい、悪いと思ってくれてもいいでしょう?』
言い争う元気が残っていることに、少しだけ安心する。
ガルドはネフェルの背中と膝裏へ慎重に腕を入れ、ゆっくりと持ち上げた。
「痛かったら言えよ」
『痛い』
「まだ持ち上げただけだぞ」
『背中の金具が、あなたの腕に当たっている』
「どっちが痛いんだ?」
『あなたの腕』
「俺の心配かよ」
『運んでいる途中で落とされたら困るもの』
「素直に心配したと言うと、何か負けるのか?」
『そういうことにしておいて』
保守作業室の入口は、腰の高さまで泥に埋まっていた。
セラと俺が泥を掻き出し、ガルドが歪んだ扉を外す。中には古い作業台と工具棚が残されていたが、工具の大半は錆びて使えない。それでも屋根があり、濁流から離れられるだけで十分だった。
作業台の上へ防水布を敷き、ネフェルを横たえる。
改めて状態を確認すると、予想以上に深刻だった。
両腕の内部を通る調律線はほとんど断裂し、背部の弦を支える骨格も変形している。天候核そのものは無事だが、核と人格を繋ぐ共鳴部に細かな亀裂が走っていた。
「どれくらい悪いの?」
ネフェルが、今度は端末を通さずに尋ねた。
弱々しいが、彼女自身の口から出た声だった。
「かなり悪い」
「そういう曖昧な言い方をされると、余計に怖いのだけれど」
「じゃあ、正直に言う。今すぐ天候核が止まる状態ではない。でも、共鳴部の亀裂が広がれば、身体を直せても人格が戻らなくなるかもしれない」
「人格が戻らないって、どうなるの?」
「機能だけの神器になる。天候を読んだり、指示に従って弦を鳴らしたりはできても、今のあんたの記憶や意思はなくなる」
「それなら死ぬのと同じね」
ネフェルは淡々と言った。
だが、防水布を握った指が震えていた。
「怖くないのか?」
「怖いと言えば、怖くなくなる?」
「ならない」
「だったら、言っても仕方がないでしょう」
「仕方はある」
「何が変わるの?」
「俺たちが、あんたは怖がっていると知る。急かしたり、勝手に進めたりしないよう気をつけられる」
「気をつけるだけ?」
「怖さそのものを消す方法は、俺にはない」
ネフェルはしばらく黙ったあと、小さく息を吐いた。
「……怖いわ。修理されるのも、修理されないのも怖い。眠るのも怖いし、目を覚ましたときに私ではなくなっているのも怖い」
「わかった」
「それだけ?」
「ほかに言ってほしいことがあるか?」
「大丈夫だとか、絶対に成功するとか」
「言っても信じないだろ」
「信じない。でも、言われたら少し腹が立って、怖さを忘れられるかもしれない」
「それなら言わない。怒る元気は修理に使ってくれ」
「本当に、優しいのか意地が悪いのかわからない人ね」
「両方だと思います」
セラが答える。
「ラウルは誰かを安心させる言葉を選ぶのが、あまり得意ではありません。その代わり、言ったことは可能な限り守ろうとします」
「守れなかったときは?」
「ひどく落ち込みます。周囲が慰めても聞きませんので、少々面倒です」
「本人の前で紹介する内容じゃないだろ」
「今のうちに欠点も伝えておいたほうが、公平です」
ネフェルがかすかに笑う。
「あなた、さっきより顔色が悪いわよ」
突然セラへ向けられた言葉に、俺も彼女の顔を見る。
確かに、セラの肌は普段より白い。呼吸も少し浅くなっている。
「契約環を外した影響か?」
「問題ありません」
「問題がない顔には見えない」
「魔力の流れが変化したため、身体がまだ慣れていないだけです」
「先に言えよ」
「ネフェルの修理を始める前に、私のことで手を止めてほしくありませんでした」
「そうやって黙るなと、さっき話したばかりだろ」
「言えば、ラウルは止まったでしょう?」
「止まるよ」
「だから黙っていました」
「それじゃ話が逆だ」
「逆ではありません。私は自分の状態を把握したうえで、後回しにすると決めました」
「セラが決めれば、何でもしていいわけじゃない」
言った瞬間、彼女の眉が上がった。
「先ほどの話を、もう忘れたのですか?」
「忘れてない。でも、自分で選んだことなら、周りは何も言うなって話でもないだろ。俺は心配だから言ってる」
「でしたら、心配だと言えばよいでしょう。私の選択が間違っているような言い方をしないでください」
「……悪かった。心配なんだ」
「はい。伝わりました」
「座って休んでくれ」
「それは嫌です。修理を手伝います」
「セラ」
「座った状態で手伝います。それなら構いませんね?」
完全には譲らず、それでも少しだけ妥協する。
この辺りがセラらしい。
「わかった。ただし、少しでも悪化したら言ってくれ」
「約束します」
「約束を守ると約束してくれ」
「ラウルは最近、疑り深くなりましたね」
「誰のせいだと思ってるんだ」
「皆様、会話を続けながらでも構いませんので、修復作業を開始してください」
アリアが告げた。
「ネフェルの人格共鳴部は、三時間以内に保全処置が必要です」
「今のは早めに言ってくれて助かった」
「褒められる場面だと判断できません」
俺はネフェルの身体へ手を伸ばし、その寸前で止めた。
「触れてもいいか?」
「……いいわ」
「最初に、どの状態へ戻すかを確認する。身体の原型は、フェルムにいた頃の姿を使う。でも、記憶は今のあんたのものを残す。それでいいんだな?」
「ええ」
「原型の中には、フェルムからの案内命令を受け取る回路もある。これはどうする?」
「命令?」
「フェルムの進路に合わせて天候を調律するための接続だ。教会の強制契約とは違う。拒否もできたらしい」
「それでも、誰かから指示を受け取る回路なのでしょう?」
「ああ」
「いらない」
「わかった。切り離す」
「……そんなに簡単に決めていいの?」
「あとで欲しくなれば、新しく作る方法を探す。今はいらないんだろ?」
「ええ。いらない」
「なら、そうする」
次に、外した拘束枠を作業台の脇へ並べた。
四百年以上ネフェルを水門へ縛りつけていた金属だ。錆びてはいるものの、内部には良質な耐魔合金が使われている。溶かして精錬すれば、失われた骨格や弦の材料へ転用できる。
「この枠を使えば、身体の大半を戻せる」
説明すると、ネフェルの顔が強張った。
「それを、私の中へ入れるの?」
「嫌なら使わない。ただ、ほかの素材を集めるには時間がかかる。人格共鳴部だけ先に直して、身体の修復はフェルムに戻ってからになる」
「この枠には、教会の術式が残っているのでしょう?」
「残ってる。でも溶かす前に、全部消す」
「消したと言われても、私には確かめられないわ」
「一緒に確かめる方法を考える」
「時間がないのでしょう?」
「だからって、嫌なものを無理に使う理由にはならない」
ネフェルは拘束枠を見つめた。
金属の表面には、何度も打ち直された跡がある。彼女が逃げようとするたび、弦が緩むたびに、人間たちが補強してきたのだろう。
「……使って」
「いいのか?」
「好きだから使うわけではないわ。見るのも嫌。でも、これをあの水門に残していくのも嫌なの。誰かが拾って、また別の神器を縛るために使うかもしれない」
「完全に溶かせば、元の形には戻らない」
「なら、溶かして」
ネフェルは震える指で、拘束枠へ触れた。
「私を立てなくした物で、私の脚を作って。私の弦を切った物で、新しい弦を作って。そうすれば、少しくらいは勝った気になれるでしょう?」
「わかった」
「ただし、教会の文字はひとつも残さないで」
「ああ。全部消す」
ヘスティアの火種を炉代わりにして、拘束枠を熱していく。
金属が赤く染まり、表面に刻まれた教会の術式が浮かび上がった。
服従。沈黙。固定。命令への絶対服従。
一つずつ読み取り、構造を壊していく。
最後の術式が消えたとき、赤い金属はただの素材へ戻った。
「ネフェル。始めるぞ」
「待って」
「どうした?」
「記憶を残すと言ったけれど、本当に全部残さなければいけないの?」
「全部が嫌なのか?」
「全部ではない。忘れたいところだけ忘れられない?」
「正直に言うと、難しい。記憶は棚へ並んだ本みたいに、ひとつずつ抜き出せるわけじゃない。忘れたい記憶が、ほかの記憶と繋がっていることもある」
「トアという人の記憶を消したい」
その名前を口にしたとき、ネフェルの声が揺れた。
「水門へ繋がるよう頼んだ人?」
「そうよ。七日だけと言った人」
「恨んでるのか?」
「恨んでいるわ」
即答したものの、彼女はすぐに目を逸らした。
「……恨んでいたいの」
俺は拘束枠に残っていた記憶の断片を思い出した。
戦火。荒れた村。水門へ何度も近づこうとして、兵士に追い返される片腕の女性。
「トアは、戻ってきたんじゃないか?」
ネフェルの顔が強張る。
「どうして知っているの」
「枠に記憶が残ってた。片腕を失った女性が、何度も水門へ来ている」
「……戻ってきたわ。二十三年後に」
ネフェルは目を閉じた。
「老けていた。左腕がなくなっていた。戦争が終わって、ようやく戻れたと言っていたわ。私を外そうとしたけれど、教会が許さなかった。水門を外せば下流の村が危ない、それでも外すなら洪水の責任を負えと言われた」
「それで、諦めたのか?」
「諦めなかった。毎年ここへ来て、少しずつ新しい水門を作ろうとしていた。でも一人では無理だった。村の人たちも、自分たちが水に呑まれるかもしれないと思えば手伝わない」
「トアはどうなった?」
「最後に来たとき、もう歩くのもつらそうだった。私に謝ったわ。七日だけなんて、言わなければよかったって」
「ネフェルは何て答えた?」
「二度と来ないで、と言った」
ネフェルの目尻から、一筋の涙が流れた。
「あなたが来るたび、私は待ってしまう。今度こそ外してくれるかもしれないと期待してしまう。だから、もう来ないでって……その翌年から、本当に来なくなった」
「亡くなったのかもしれないな」
「知ってるわ。あの人は人間だもの。でも、私が来るなと言ったから来なかったんだと思うこともできる。そうすれば、まだどこかで生きているような気がした」
「その記憶を消したいのか?」
「消せば、トアを恨んだままでいられるでしょう?」
恨んでいれば、自分は捨てられた側でいられる。
戻ってきたことを覚えていれば、救えなかったトアの苦しさまで考えなければならない。最後に自分が投げつけた言葉も、消えてくれない。
「俺は、消したほうがいいとも、残したほうがいいとも言えない」
「修理屋なのに?」
「記憶は壊れた部品じゃない。痛いからって、勝手に取り外せない」
「なら、自分で決めなければいけないのね」
「ああ」
「嫌なことばかり、自分で決めさせるのね。あなたたちは」
「代わりに決めたほうがいいか?」
「それはもっと嫌」
ネフェルは泣きながら笑った。
「残して。トアのことも、全部」
「わかった」
「でも、痛くなくして」
「それはできない」
「少しくらい、都合のいいことを言ってくれてもいいでしょう」
「痛くなくなるとは言えない。ただ、思い出したときに一人で耐える必要はなくなるかもしれない」
「誰かに話せば?」
「ああ。聞く奴はいる」
「あなた?」
「俺でもいい。セラでも、アリアでも、ガルドでも」
「ガルドは、ちゃんと聞いてくれるかしら」
「そこにいるんだから、本人に聞いてくれ」
入口付近で見張りをしていたガルドが、慌てて振り返った。
「俺か? 聞くぞ。たぶん途中で何を言えばいいかわからなくなるが、黙って聞くくらいならできる」
「変な慰め方をしない?」
「しないように努力する」
「それは、するかもしれないということ?」
「人間に絶対を求めるな。失敗したら、その場で怒ってくれ」
「……それならいいわ」
ネフェルが、今度こそ俺へ頷いた。
「始めて」
人格共鳴部へ指先を触れる。
原型へ戻す身体と、残すべき記憶を慎重に分ける。
フェルムで空を読み、雲の道を探していた頃の骨格。水門へ繋がれてから積み重なった四百年分の記憶。どちらか一方だけを選ぶのではなく、両方を今のネフェルへ繋ぎ直す。
溶かした拘束枠が、新しい脚部の骨格へ変わる。
彼女を水門へ固定していた合金が、今度は彼女自身で立つための支えになった。
背中へ食い込んでいた巨大な竪琴の枠は小さくなり、肩から腰までを包む、翼のような形へ戻っていく。切れた弦の代わりに、新しく十二本の細い調律弦を張った。
本来は二十四本あったらしいが、素材が足りない。
「十二本では、以前の半分しかありません」
アリアが状態を確認する。
「大規模な天候操作は不可能です。可能なのは半径数キロ以内の気象観測と、風雨の限定的な誘導です」
「半分しか直らないの?」
ネフェルが不安そうに尋ねる。
「今は、な。残りはフェルムへ戻って、ネフェルが望むなら直す」
「半分の私は、半分しか私ではないの?」
「弦の数で人格が半分になるわけじゃない。できることが少なくなるだけだ」
「役に立てないかもしれない」
「最初に言っただろ。何をするかは、あんたが決める。できることの数で居場所が決まるわけじゃない」
「本当に?」
「少なくとも、俺たちの村ではな。何もしないのに人の飯だけ取れば、ハンネ村長に小言は言われると思うけど」
「働かなければ追い出されるの?」
「掃除でも料理でも、できることはある」
「私は料理をしたことがないわ」
「大丈夫です」
セラが真剣な顔で言った。
「ハンネ村長より不得意でなければ、村では十分に評価されます」
「それは難しい基準?」
「極めて容易です」
ガルドが何度も頷く。
「水と塩を間違えないだけで勝てる」
「聞こえているよ」
案内端末から、聞こえるはずのないハンネ村長の声がした。
全員が固まる。
「……通信が繋がっていたのか?」
「先ほどフェルムとの中継接続が復旧しました」
アリアが平然と答える。
「いつからだ?」
「ガルドが、ハンネ村長の料理について発言する直前です」
「なら、最初に言え!」
『帰ってきたら、覚えておきな』
「誤解だ、婆さん! 俺だけじゃなくセラも——」
「ガルド。今、私まで巻き込む必要がありましたか?」
「一人で怒られるより二人のほうがましだろ!」
『三人まとめて覚えておくよ』
「俺は何も言ってないだろ!」
『ラウルは笑っていただろう』
どうやら逃げ道はないらしい。
ネフェルが作業台の上で、声を立てて笑った。
笑った拍子に共鳴部の亀裂が広がり、俺は慌てて修復へ集中する。
「今はあまり笑うな」
「笑わせたのは、あなたたちでしょう」
「それでも我慢してくれ」
「笑うなと命令されるのも嫌」
「じゃあ、できる範囲で控えてくれ」
「面倒ね」
「知ってる」
最後に、天候核と十二本の弦を繋ぐ。
光がネフェルの胸から背中へ走り、十二本の弦を順番に震わせた。
しかし、そこで復元が止まった。
「何が足りないの?」
「音だ」
「音?」
「原型の記憶では、ネフェルは自分で最初の音を選んでる。たぶん、弦と人格を繋ぐための合図だ。誰かに命じられた音じゃ駄目らしい」
「何を弾けばいいの?」
「ネフェルが決める」
「急に言われても困るわ。四百年以上、自分で曲を選んだことなんてないもの」
「難しく考えるな」
「簡単に言わないで。最初の音なのでしょう? 失敗したらどうするの」
「音に失敗なんてあるのか?」
「あるわよ。音程を外すとか、調律を間違えるとか」
「俺は音楽に詳しくないから、少しくらい外れてもわからない」
「そういう問題ではないでしょう」
ネフェルは十二本の弦へ目を落とした。
「昔は、フェルムの進む方向に合わせて弾いていた。空を晴らせと言われれば晴れの曲を、雨が必要なら雨の曲を。それ以外に、何を弾けばいいのかわからない」
「なら、明日はどんな天気がいい?」
「仕事ではなく?」
「ネフェル自身が過ごしたい天気だ」
「晴れ……」
答えかけたネフェルが、首を振った。
「いいえ。優しい雨がいい」
「雨でいいのか? 四百年も水に苦しめられたのに」
「雨が嫌いなわけではないの。雨は草木を育てるし、屋根を叩く音は嫌いではなかった。ただ、止められない雨が怖かっただけ」
ネフェルは十二本の弦へ指を置いた。
「自分が支えなくても、降って、いつか自然に止む雨。その中を歩いてみたい」
「それを音にすればいい」
「うまく弾けなかったら、笑わないで」
「努力する」
「そこは笑わないと約束して」
「ガルドへ言ってくれ」
「何で俺なんだよ」
ネフェルの指が、最初の一本へ触れた。
かすかな音が作業室へ広がる。
次に二本目、三本目。
長い間、水を押し返すためだけに張り詰めていた音とは違う。少し震え、音程も揺れていたが、聞いているうちに胸の奥が温かくなった。
十二本の弦が、新しいネフェルの身体へ馴染んでいく。
天候核の光が安定した。
「人格共鳴部、正常化。調律機能、四十八パーセントまで回復。自律稼働を確認しました」
「終わったの?」
ネフェルが恐る恐る尋ねる。
「立てるか試してみよう」
俺とセラが左右から支え、ネフェルを起こした。
彼女の足が床へ触れる。
一歩目で膝が曲がり、そのまま前へ倒れかけた。入口近くにいたガルドが慌てて受け止める。
「危ねえ!」
「離して。自分で立つ」
「立ててねえから支えてるんだろ」
「四百年ぶりなのよ。少しくらい待って」
「待つから、転ぶときは予告してくれ」
「転ぶつもりで立つ人はいないわ」
「だったら、転んでも怒るな」
「落としたら怒るわよ」
「面倒な奴がまた増えたな……」
文句を言いながらも、ガルドはネフェルの身体をしっかり支えていた。
何度か足を動かすうちに、彼女は一人で立てるようになった。
ほんの数歩進んだだけで息を切らしていたが、ネフェルは嬉しそうに自分の足を見下ろしている。
「歩ける」
「ああ」
「本当に、水門に繋がっていない」
「ああ」
「戻れと言われても、戻らなくていいのね」
「決めるのはネフェルだ」
彼女は保守作業室の外へ出た。
雨はまだ降っている。
ネフェルは逃げることも、押し返すこともせず、降り注ぐ雨の中へ両手を広げた。
十二本の弦が、風を受けて小さく鳴る。
「冷たい」
「風邪は引くのか?」
「知らない。引いたことがないもの」
「なら、長く濡れないほうがいい」
「もう少しだけ」
水門に縛られていた頃にも、雨には何度も濡れただろう。
だが、自分の意思で雨の下へ立ったのは、これが初めてなのかもしれない。
しばらくして、アリアの端末が再び通信を告げた。
『ラウル。聞こえるかい』
ハンネ村長の声だった。
「聞こえる。水門は応急修理できた。ネフェルの修理も終わった」
『そうかい。無事なら何よりだよ』
「そっちは?」
返事の前に、妙な間があった。
ハンネ村長が言いにくいことを口にするときの間だ。
『そのネフェルって子にも聞かせたほうがいい。面倒な客が来てる』
「教会か?」
『教会の司祭が一人。それに、下流にある四つの村の代表者たちだよ』
ネフェルの表情が強張った。
『水位が下がったことで、水門に何かあったと気づいたらしい。教会からも話を聞いたんだろうね。連中は、こう言ってる』
通信の向こうで、複数の人間が言い争う声が聞こえる。
『風雨琴ネフェルは、四村の命を守るための共同財産だ。勝手に水門から外して持ち去るのは、神器の窃盗だってさ』
ネフェルの肩が、小さく震えた。
「私……戻ったほうがいいのかしら」
「どうしてそうなる」
「だって、あの人たちには生活がある。子供も、畑も、家もある。私が水門にいれば安心できるのでしょう?」
「ネフェルが水門へ戻らなくても安全に暮らせるよう、水門を直せばいい」
「簡単に言うけれど、誰が直すの?」
「俺が直す」
「素材は?」
「みんなで集める」
「人手は?」
「四つも村があるなら足りるだろ」
「その人たちが嫌だと言ったら?」
「話し合う。それでも駄目なら、別の方法を探す」
「……また、面倒なことをするのね」
「面倒だからって、ネフェル一人へ押しつけてきた結果が、あの水門だ」
ネフェルは、十二本の弦へ触れた。
「私も話していい?」
「もちろんだ」
「途中で怖くなって、何も言えなくなるかもしれない」
「そのときは、隣にいる」
「あなたが代わりに話すの?」
「必要なら。でも、言葉を決めるのはネフェルだ」
彼女は何度も息を吸い、最後に小さく頷いた。
「帰る。私も、自分で話す」
『その意気だよ。ところで、走車は無事なんだろうね?』
ハンネ村長に尋ねられ、俺は返答に詰まった。
「……水門の主歯車になった」
通信の向こうが静まり返る。
『あんたたちは、どうして出かけるたびに帰り道を壊すんだい』
「俺も同じことを言ったぞ!」
ガルドがすかさず口を挟んだ。
『なら、止めなかったあんたも同罪だよ。迎えを出すから、旧街道の避難塔まで歩いてきな。ただし到着には二日かかる』
「二日も歩くのか……」
ガルドが肩を落とす。
ネフェルは雨に濡れたまま、そんな俺たちを見回した。
「フェルムという場所は、いつもこうなの?」
「もっと面倒な日もあります」
セラが答える。
「今なら、行くのをやめても構いませんよ」
ネフェルは少し考えたあと、首を振った。
「行くわ。水門へ戻れと言う人たちに、戻らないと伝えなければいけないもの」
背中の十二本の弦が、雨の中で小さく鳴った。
「今度は誰かに言わされた言葉ではなく、私が自分で選んだ言葉で」




