第24話 千人を救うためでも、嫌がる神器を部品にはしません
「取らない」
俺が答えると、ネフェルは一度だけ目を瞬いた。
『……何を言っているの?』
「天候核の保護環は使わない。あんたの胸も開かない」
『あと二分もないのよ』
「わかってる」
『千人以上が死ぬかもしれないのに?』
「だから、ほかの素材を探す」
『なかったのでしょう?』
「今は、な」
強がりだった。
水門を構成する部品の中に、必要な耐魔合金は残っていない。救難走車の導力輪をすべて使っても、主歯車の完成には神銀が一・一キロほど不足する。
足元の濁流が勢いを増していた。
ネフェルが支える二本の弦のうち一本は、細かな繊維のように裂け始めている。切れるのは二分後かもしれないし、次の瞬間かもしれない。
『私は、使っていいと言っているのよ』
「本心じゃないだろ」
『本心かどうかなんて関係ないでしょう。許可はしたわ』
「試すための許可なんて、許可じゃない」
『試してなんか——』
「俺が本当に自分を部品扱いするか、見ようとしてる。違うか?」
ネフェルは答えなかった。
怒りと諦めが混じった顔で、俺を見つめている。
「俺が保護環を取れば、あんたは『やっぱり同じだった』と思える。期待しなくて済むし、信じた自分を責めなくて済む。たぶん、そっちのほうが楽なんだろ」
『わかったようなことを言わないで』
「ああ、全部はわからない。でも、嫌だと言った相手から、言い直したからって部品を取るつもりはない」
『なら、どうするのよ!』
「それを今、考えてる!」
言い返したものの、考える時間などほとんど残されていなかった。
アリアの端末が警告音を鳴らし続けている。
「弦の推定切断時刻まで一分四十九秒。水圧はなお上昇中です」
「周囲の素材をもう一度探してくれ。小さな部品でもいい。全部集めて一・一キロになれば——」
「適合率八十パーセント以上の素材反応は、ネフェルの天候核保護環以外に検出できません」
「八十パーセント以下なら?」
「加工中に魔力が暴発する危険性があります。主歯車が完成する前に、ラウルの腕が失われる確率は——」
「数字はいい。候補だけ出してくれ」
「駄目です」
意外な声が飛んできた。
濁流の中で鎖を支えていたセラが、こちらを見ている。
「適合しない素材を無理に使うことは認めません。腕を失う可能性を承知したうえで黙って試すつもりでしょう」
「でも、ほかに——」
「あります」
セラは腰へ巻いていた鎖を固定環へ結び、ガルドに後を任せた。
「おい、セラ! 一人で離れるな、この鎖は俺だけじゃ——」
「三十秒だけ耐えてください」
「簡単に言うな!」
「ガルドなら可能です」
「信頼されて嬉しいが、もう少し状況を見てから言ってくれ!」
ガルドが両足を踏ん張り、鎖を身体へ巻きつける。セラは流れに逆らいながら俺のところまで戻ってきた。
「ラウル。私を剣の姿へ戻してください」
「何をするつもりだ?」
「私の契約環を使います」
一瞬、何を言われたのかわからなかった。
聖剣としてのセラの鍔元には、鈍い銀色の環が取りつけられている。
装飾ではない。
教会が彼女の声と記憶を封じ、ユリウスとの契約を強制するために組み込んだ拘束具だ。契約そのものが消えたあとも、環は剣身へ深く食い込んでいた。無理に外せば、セラの本体まで傷つけるおそれがあったため、これまで手をつけられずにいた。
「あれは、あんたの身体に繋がってる。今ここで外したら、何が起きるかわからない」
「ですが、私の原型ではありません。教会が後から加えたものです」
「そうだけど——」
「神銀を中心とした契約用耐魔合金です。重さも足りるはずです」
アリアがすぐに分析を始める。
「聖剣セラフィナの契約環を使用した場合、不足分を補填可能です。推定重量一・二六キロ。主歯車への素材適合率は九十四パーセント」
「分析するな、アリア」
「事実を提示しただけです。使用の可否はセラフィナ本人とラウルが判断してください」
「判断するまでもない。使わない」
「なぜですか?」
「危険だからだ!」
「ネフェルの保護環を取らない理由も、危険だからですか?」
「それだけじゃない。本人が嫌がってる」
「私は使ってほしいと申し上げています」
「セラまで自分を部品にするな!」
思わず、セラの両肩を掴んだ。
彼女は少しも目を逸らさなかった。
「私を部品にしようとしているのは、どちらですか?」
「何を——」
「ラウルは先ほど、ネフェルの意思を尊重すると言いました。本人が嫌だと言うなら直さないと。ならば、私が自分の契約環を外したいと言っていることも、尊重してください」
「同じ話じゃないだろ」
「同じです」
「違う。セラは俺たちを助けるために、自分へ危険があることを隠して——」
「隠していません。危険があることは承知しています」
「なら、余計に駄目だ」
「結局、ラウルが納得できる選択だけを、私の自由と認めるのですか?」
胸を突かれたような気がした。
セラは怒っている。
しかし、目の奥には怒りだけでなく、悲しみも浮かんでいた。
「私は先ほど、自分でラウルと共にいることを選んだと言いました。それを信じてくださるなら、今も私に選ばせてください。危険だから、傷つくかもしれないからと、私の選択を取り上げないでください」
「でも、もし人の姿へ戻れなくなったら?」
「怖いです」
「魔力を失うかもしれない」
「それも怖いです」
「剣身まで壊れる可能性だってある」
「ですから、ラウルに頼んでいるのです。壊さずに外してください」
「簡単に言うなよ……」
「簡単だとは思っていません」
セラの声が、少し震えた。
「私も、本当はずっと外してほしかったのです。でも、外せないと言われるのが怖くて、頼めませんでした。ユリウスとの契約は終わったのに、教会につけられたものがまだ自分の中に残っている。それが嫌でした」
「だったら、どうして言わなかった?」
「ラウルは忙しかったでしょう。村の修理もありました。アギスも、ヘスティアも、アリアもいました。私だけが、役目を終えた拘束具を気にしているなど、くだらないことのように思えて……」
「くだらなくない」
「今なら、そう言ってくださると思います。ですが、人は答えを聞くまで、都合の悪い答えを想像するものです」
セラは自嘲気味に笑った。
「私も、あまり上手に頼れないのです」
『やめたほうがいいわ』
ネフェルが口を挟んだ。
『その環を取れば、あなたも壊れるかもしれないのでしょう? 私の代わりに別の神器が傷つくだけなら、何も変わらない』
「変わります」
セラがネフェルへ向き直る。
「私は、自分が不要だと思う拘束具を外してほしいと頼んでいます。あなたは、必要な保護環を渡せと迫られている。まったく違います」
『自分を犠牲にする者は、みんなそう言うのよ。これは犠牲ではない、自分で望んだことだって』
「犠牲の気持ちが、まったくないとは申しません」
『ほら』
「あなたを助けたい。下流の人々も守りたい。ラウルが選べずに苦しんでいるのを見ていられない。それから、先ほど私の選択を偽物のように言われたことへ腹が立ったので、自分の意思を証明したい。ついでに、以前から嫌いだった契約環も外したい。私の中には、いくつも理由があります」
『……面倒ね、あなた』
「神器であっても、ひとつの理由だけで動くとは限りません」
『もっと清らかな動機で助けるものだと思っていたわ』
「残念でしたね。私はそれほど清らかな聖剣ではありません」
セラは再び俺を見た。
「ラウル。お願いします」
「……本当にいいんだな?」
「はい」
「途中で痛かったら?」
「止めてと言います」
「一度外し始めたら、戻せないかもしれない」
「それでも、止めてと言ったら止めてください」
「ああ」
「では、お願いします」
俺はセラの手を取った。
銀色の光が彼女の身体を包み、人の姿が一本の聖剣へ変わっていく。柄のすぐ上には、鈍く変色した契約環が食い込んでいた。
その環へ触れる。
途端に、押し込められていた記憶が流れ込んできた。
『聖剣に意思は不要である』
『選ぶのは神であり、教会であり、勇者だ』
『声を封じなさい。道具が疑問を持てば、使う者が迷う』
白い法衣をまとった神官たちが、剣身へ熱した環を打ち込んでいる。セラの声が聞こえていたはずなのに、誰一人として手を止めない。
聞こえないふりをしたのではない。
聞こえているからこそ、封じたのだ。
「……ひどいな」
『ラウル』
剣の姿となったセラの声が、頭の中へ直接届く。
『今は怒るより、手を動かしてください』
「わかってる」
『それと、できれば壊さないでください』
「今、それを言うのか?」
『言わなければ、平気だと思われそうなので』
平気なはずがない。
それでも、怖いと言いながら頼んでくれた。
ならば俺は、その選択に応えなければならない。
「ヘスティア。もう一度、火を貸してくれ」
掌の火種が大きく揺らめいた。
契約環だけへ熱を流し、セラの剣身との境目を探る。四百年以上食い込んでいた金属は、まるで自分こそが聖剣の一部であるかのように、剣身へ根を張っていた。
だが、違う。
これはセラの原型ではない。
「——《原型復元》」
セラの剣身を、本来の形へ戻す。
亀裂が閉じ、後から押し込まれた契約環だけが、少しずつ押し出されていく。
『っ……!』
「セラ?」
『続けてください』
「痛いのか?」
『痛くありません』
「嘘をつくな」
『少し、痛いです。でも、止めないでください。これは我慢させられているのではありません。私が我慢すると決めています』
俺は作業を続けた。
最後に金属の軋む音が鳴り、契約環が剣身から外れる。
水門の上へ、重い銀色の環が落ちた。
「セラ、大丈夫か?」
『……はい』
「人の姿へ戻れそうか?」
『試します』
聖剣が銀色の光に包まれる。
一度、光が大きく揺らいだ。嫌な予感に胸を掴まれたが、次の瞬間には、俺の前へセラが立っていた。
彼女は自分の両手を確かめ、胸元へ触れた。
「戻れました」
「本当に平気か?」
「少し魔力が減っています。それから、不思議な感じがします」
「どこか痛むのか?」
「そうではありません。ずっと首元へ重いものが巻きついていたのに、急になくなったような……身体が軽すぎて、落ち着きません」
「そのうち慣れる」
「はい」
セラは契約環を見下ろした。
喜ぶかと思っていたが、その顔に浮かんでいたのは、寂しさにも似た複雑な表情だった。
「嬉しくないのか?」
「嬉しいです。ただ、これがなくなったからといって、過去まで消えるわけではないのですね」
「消したかった?」
「わかりません。忘れたいこともあります。でも、すべて忘れたら、今の私ではなくなる気もします」
「なら、無理に決めなくていい。嬉しいだけじゃなくてもいいだろ」
「……そうですね」
「会話を中断してください」
アリアが厳しい声を出した。
「弦切断予測まで二十七秒です」
「先に言え!」
「何度も警告しました。お二人が会話を続けていたため、発言できませんでした」
契約環をヘスティアの火へ入れる。
神銀が溶け、未完成の主歯車へ流れ込んでいく。今度こそ、失われた原型へ必要な素材が揃った。
「——《原型復元》!」
眩い光が水門中央を包み込んだ。
救難走車の導力輪と、聖剣を縛っていた契約環。二つの神銀が組み合わさり、失われた主歯車へ姿を変える。
歯が噛み合った。
「ガルド! 鎖を張れ!」
「こっちはとっくに準備できてる!」
「一本目を固定! 次に二本目を開閉板へ!」
「簡単に言うな! 一人でこの流れを渡ってみろ!」
文句を言いながらも、ガルドが鎖を柱へ巻きつける。セラも再び濁流へ入り、三本目の鎖を持って反対側へ向かった。
「アリア、主歯車を動かすぞ!」
「水圧が高すぎます。現状で駆動した場合、歯車の再破断率は八十三パーセントです」
「では、どうすればいい!」
『私が水を引く』
ネフェルが顔を上げた。
『残っている二本で、ほんの少しだけ水を上流へ押し返す。その間に水門を閉じて』
「そんなことをしたら、弦が切れるぞ」
『どちらにしても、もう切れるわ』
「駄目だ」
『私の選択も尊重するのでしょう?』
「それを今、言うのか」
『あなたたちを見て、少し学んだの』
ネフェルが力なく笑った。
『大丈夫。全部の水を止めるわけではない。十秒だけ水圧を弱める。死ぬつもりも、壊れるつもりもないわ』
「本当か?」
『本当よ。怖いもの』
その答えに、ようやく嘘は感じなかった。
「十秒で閉める」
『失敗したら?』
「もう一度考える」
『そこは成功させると言いなさいよ』
「必ずなんて言うなと、あんたが言ったんだろ」
『……そうだったわね』
ネフェルは目を閉じた。
二本の弦へ、青緑色の光が流れ込む。
谷を埋め尽くしていた水音の中に、澄んだ旋律が生まれた。
たった二本の弦が奏でる、不完全な音だった。
それでも空気が震え、雲が渦を巻く。水門へ押し寄せていた濁流が、見えない手で押し返されたように一瞬だけ動きを止めた。
『今よ!』
「ガルド!」
「おおおおおおっ!」
ガルドが鎖を引く。
セラも全身で三本目を張り、俺は復元した主歯車へ魔力を叩き込んだ。
歯車が回転する。
長い間動くことのなかった開閉板が、凄まじい音を立てながら持ち上がっていく。錆と泥が剥がれ落ち、砕けていた左右の板が中央へ引き寄せられた。
「あと少しだ!」
「残り三秒!」
『もう……無理……!』
弦の一本が切れた。
押し返されていた水が、一気に水門へ襲いかかる。
「閉じろおおおっ!」
主歯車が最後の一回転を終えた。
左右の開閉板が噛み合う。
直後、谷全体を揺らすような衝撃が走った。
水門の隙間から濁流が噴き出し、三本の鎖が悲鳴を上げる。それでも、打ち込んだ十本の楔と、復元された主歯車は耐えた。
「閉鎖率九十三パーセント。緊急排水路が作動を開始します」
水門の側面に設けられた複数の放水口から、水が分散して流れ始める。
頭上にそびえていた水の壁が、ゆっくりと高さを失っていった。
「……止まったのか?」
ガルドが鎖を握ったまま尋ねる。
「完全ではありません。しかし、水門の即時崩壊は回避されました。下流域が致命的な洪水に見舞われる危険性は、六パーセントまで低下しています」
「六パーセントも残ってるじゃねえか」
「降雨が継続していますので、ゼロにはできません」
「じゃあ、まだ終わってねえんだな」
ガルドは膝へ手をつき、荒い息を吐いた。
「それでも、今すぐ千人が死ぬ状況ではなくなりました」
「最初から、そういう言い方をしてくれ」
緊張が緩んだ、そのときだった。
ネフェルの身体を支えていた最後の弦から、力が抜けた。
「ネフェル!」
固定枠に吊られていた彼女の身体が前へ倒れる。
セラが濁流を横切り、落ちてきたネフェルを抱き止めた。
「ラウル! 早く!」
俺は二人のもとへ駆け寄った。
ネフェルの身体に走っていた亀裂が、胸元へ向かって広がっている。天候核の保護環は残っている。しかし、その内側で明滅する光は弱々しかった。
「拘束具を外さないと、身体を下ろせない。ネフェル、枠を切ってもいいか?」
返事がない。
「ネフェル!」
『……勝手に、して』
「それは許可か?」
『本当に……面倒な修理屋ね……』
薄く開いた目が、俺を見た。
『外して。もう、水門には戻りたくない』
「わかった」
ガルドが鎚で固定具を砕き、セラが錆びた拘束線を切る。
四百年以上ネフェルを水門へ縛りつけていた枠が、ひとつずつ外れていった。
最後の留め具を取ると、ネフェルの身体が完全に水門から離れる。
だが、自由になったはずの彼女は、自分で立つこともできなかった。
俺はネフェルの前へ膝をつく。
「このままだと、天候核が止まる。今度はあんた自身の修理が必要だ」
『元通りに、するの?』
「水門に繋がれていた姿には戻さない。フェルムで天候を読んでいた頃の身体を元にする。ただし、四百年分の記憶は消さない」
『そんなことができるの?』
「アリアにも同じ方法を使った。原型へ戻す部分と、残す部分をあんたと一緒に決める」
『失敗したら?』
「途中で止める」
『壊れたままになるかもしれないわ』
「ああ」
『私が怖くなって、やめてと言ったら?』
「やめる」
『そのせいで、二度と直せなくなっても?』
「やめるよ」
ネフェルは俺だけでなく、セラやガルドの顔も順番に見た。
「私たちは、先ほどの喧嘩をまだ終えていません」
セラが言う。
「ですから、あなたにも一緒に村へ来ていただきます。帰り道は長いので、話をする時間はいくらでもあります」
「喧嘩に巻き込むなよ」
ガルドが呆れる。
「そもそも帰りの車輪を歯車にしたんだぞ。どうやって運ぶ?」
「あなたが背負ってください。荷物持ちなのでしょう?」
「人一人を二日も背負えるか!」
『……ふふ』
かすかな笑い声がした。
今度のネフェルの笑いには、ほんの少しだけ温かさがあった。
『本当に、面倒な人たち』
「否定はしません」
ネフェルは目を閉じかけ、もう一度だけ開いた。
『条件があるわ』
「聞く」
『私の記憶を消さないで。誰とも強制契約を結ばないで。二度と水門には戻さないで。それから……私が役に立たなくても、捨てないで』
「最後の条件だけは、少し言い方を変えたい」
『どうして?』
「捨てないと約束するんじゃない。どこへ行くかは、あんたが決める。フェルムにいたければいればいいし、出ていきたければ止めない。ただ、行く場所が決まる前に追い出したりはしない」
『私が、決めるの?』
「ああ」
『何をして生きるかも?』
「誰かを困らせない範囲ならな」
『難しい条件ね』
「人と暮らすのは、だいたい面倒なんだ」
ネフェルはしばらく考えていた。
やがて、震える手を俺へ差し出す。
『なら……直して』
俺は、その手を握った。
『水門でも、教会の神器でもない——ネフェルとして、私を直して』




