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第22話 千人を救いに行く途中、目の前の四人を見捨てる計算を突きつけられました

 救難走車カリオン三号は、乗り心地まで救ってはくれなかった。


「なあ、ラウル。こいつ、本当に直ったんだよな?」


 天井へ頭をぶつけたガルドが、涙目で尋ねてくる。舗装されていない山道を猛速度で走っているのだから揺れるのは当然なのだが、修理した本人へそう聞かれると、少しばかり腹が立った。


「右前の導力輪は完全に直した。操舵にも問題はない。車体が揺れるのは道が悪いからだ」


「じゃあ、道も直してくれ」


「走りながら言うことじゃないだろ」


「お二人とも、無駄話は控えてください。舌を噛みます」


 助手席の案内端末から、アリアの声がした。


 直後、左の車輪が大きな石を踏み、車体が跳ね上がる。ガルドは何か言い返そうとしていたらしく、開いていた口を慌てて押さえた。


「……先に言えよ」


「事前に警告しました」


「石を踏む前に言ってくれって意味だ」


「三・二秒前に警告しています。それ以上早く告げても、回避行動は不可能でした」


「だったら黙ってろ」


「先ほどは、先に言えと要求されました」


「面倒くせえな、お前!」


「ガルド。アリアへ当たらないでください」


 向かい側の席に座るセラが、呆れた顔で口を挟んだ。銀色の髪をひとつに束ね、いつでも動けるよう軽装に替えているが、どれほど車体が揺れても姿勢は崩れない。


「あなたが苛立っているのは、揺れのせいではなく、ハンネ村長の焼き菓子を三枚も食べたからでしょう」


「関係あるのか?」


「先ほどから腹部を押さえています」


「これは、その……腹持ちが良すぎるだけだ」


 ガルドは膝の上に置いた食料袋を睨んだ。


「焼き菓子って、普通はもう少し簡単に噛み切れるものじゃないのか? 最初の一枚なんか、歯が滑ったぞ」


「非常食としては優秀です。武器にも防具にも転用できます」


 アリアの真面目な評価に、俺は思わず吹き出した。


「笑うなよ。帰ったらお前も食わされるんだからな」


「もう何度も食べてる。固いけど、味は悪くないだろ」


「お前、村で暮らすうちに味覚まで鍛え直されたんじゃないか?」


「そこまで言うなら返してください。ハンネ村長には、ガルドは受け取りを拒否したと報告しておきます」


 セラが手を差し出すと、ガルドは食料袋を胸へ抱え込んだ。


「待て。食わないとは言ってない。腹が減れば食う」


「では、文句を言わずに食べてください」


「文句くらい言わせろ。食べ物ってのは、味だけじゃなく、食いながら何を言ったかも含めて腹に入るんだよ。黙って食ったら、ただの栄養補給じゃねえか」


 屁理屈のようでいて、少しだけわかる気もした。


 俺たちは、くだらない話をしながら進んだ。


 外では空がゆっくりと暗くなり、山の稜線を黒雲が覆い始めている。まだ雨は降っていなかったものの、開けた換気口から入る風には、湿った土と遠い雨の匂いが混じっていた。


「現在速度は安全巡航速度の百十九パーセント。目的地まで残り八時間五十二分です」


「少し遅くなってないか?」


「地盤の状態が記録より悪化しています。四百十二年前の地図との差異を補正しながら走行していますので、到着予測には前後三十六分の誤差があります」


「その誤差、もう少し小さくならないか?」


「道を四百十二年前の状態へ戻せば可能です」


「悪かった。無茶を言った」


 アリアの返答が、妙に俺へ似てきた気がする。


 隣を見ると、ガルドは窓の外を眺めていた。先ほどまでの軽口が途絶え、その横顔には迷いが浮かんでいる。


「どうした?」


「いや……」


 一度は口を閉ざしたものの、ガルドは結局、こちらへ向き直った。


「お前、俺を連れてきてよかったのか?」


「もう出発して三時間以上経ってるんだ。今さら聞くなよ」


「そうじゃねえ。俺を信用してるのかって聞いてる」


 車輪が土を踏み締める音だけが、しばらく車内を満たした。


 気を遣って「信用している」と答えることはできた。しかし、たぶんガルドが求めているのは、そういう優しいだけの言葉ではない。


「全部は信用してない」


「……だよな」


「でも、荷物持ちとしては役に立つし、土壇場で逃げるような奴じゃないことも知ってる。ただ、ユリウスが目の前に現れたとき、どっちを選ぶかまではわからない」


「随分とはっきり言うな」


「聞いたのはガルドだろ」


「そうなんだが……もう少しこう、言い方があると思ってた」


「信用していると言われたかったのですか?」


 セラの問いに、ガルドは首を振った。


「言われても信じられなかったと思う。俺がラウルの立場なら、絶対に信用しねえから。ただ、嘘でもそう言ってほしい気持ちもあった。面倒だよな」


「はい。大変面倒です」


「お前は少しも迷わず頷くよな」


「ご自分でおっしゃったので」


 ガルドは苦笑したあと、背もたれへ身体を預けた。


「俺さ、ユリウスが間違ってることに、たぶん途中から気づいてたんだ」


「……そうか」


「気づいてなかったと言えば、少しはましな人間に見えるのかもしれねえ。騙されていた、何も知らなかったってことにできるからな。でも、本当は違う。お前ばかりが夜中まで装備を直して、礼も言われず、壊れたら責められてるのを見てた。それでも俺は、勇者パーティーにはよくあることだと思うようにしてた」


 ガルドは自分の両手を見下ろした。


「お前が正しいと認めたら、俺が今まで黙ってた時間まで間違いになるだろ。助けたつもりでいた人たちや、俺を英雄だと喜んだ故郷の連中に、俺は見る目がありませんでしたって言わなくちゃならない。それが怖かった。だからユリウスを信じてたんじゃない。ユリウスが正しくないと困ったんだ」


「私は、あなたを許していませんよ」


 セラが静かに告げた。


 ガルドは苦い顔をしながらも、反論しなかった。


「だろうな」


「ですが、今の話をしたことと、許されることは別です。正直に告白すれば罪が軽くなると考えているのでしたら——」


「考えてねえよ」


 ガルドは少し強い調子で遮った。


「許してほしい気持ちはある。でも、許せと迫るつもりはない。そもそも俺がこうして一緒にいるせいで、お前たちが嫌なことを思い出すなら、村を出たほうがいいんじゃないかとも思ってる。ただ、何も返さずに出ていったら逃げたことになるし、残ったら残ったで、許しを待って居座ってるみたいだろ。どうすりゃ正解なんだよ」


「その正解を、被害を受けた私たちに決めさせないでください」


「……そうだよな。悪い」


「ただし」


 セラはわずかに表情を緩めた。


「出ていくにしても残るにしても、自分が一番苦しそうに見える選択肢を選べば償いになる、という考えは捨ててください。見ていて腹が立ちます」


「どう選んでも怒られるのか、俺は」


「ガルド自身がどうしたいかを決めればいい」


 俺が言うと、彼は少し困った顔をした。


「それがわからねえから困ってるんだよ」


「なら、わかるまで荷物を運んでくれ。少なくとも今は助かってる」


「……安く使いやがって」


「飯と寝床はあるぞ」


「焼き菓子はもう少し柔らかくしてくれ」


「それはハンネ村長へ自分で言ってくれ。俺は命が惜しい」


「俺だって惜しいよ」


 ようやくガルドが笑った、そのときだった。


 助手席の案内端末が甲高い警告音を発した。


「周辺に複数の生命反応を検出しました」


 前方の地図に、四つの黄色い点が表示される。


 目的地へ向かう道から、東へ一・七キロほど外れた場所だった。


「救難信号か?」


「いいえ。正式な発信ではありません。旧街道沿いの中継宿が土砂崩れに巻き込まれ、建物内部に四名が閉じ込められていると推定されます」


「容体は?」


「一名は体温が低下しています。ほか三名のうち一名にも、継続的な出血が見られます」


「だったら行くぞ。右だな?」


 ガルドが立ち上がりかける。しかし、アリアはすぐには進路を変えなかった。


「推奨しません」


「何?」


「救出作業を含め、五十分から九十分の遅延が発生します。救助対象四名の生存率と、水門崩壊時の被害予測人口を比較した場合、進路を維持すべきです」


 地図の脇へ、新たな数字が並ぶ。


 水門が完全に崩壊した場合、四つの集落とフェルム周辺で、最大千八百四十人が洪水に巻き込まれる。警告と避難が間に合ったとしても、死傷者は数百人に及ぶ可能性がある。


 それに対して、脇道の先にいるのは四人だった。


「比較する話じゃねえだろ」


 ガルドが低い声で言った。


「比較しなければ決定できません。私たちは救助活動の途中です。すべての救難対象へ対応することは不可能です」


「すぐそこにいるんだぞ」


「風雨琴ネフェルの弦は、残り三本です。現在の劣化速度から、次の一本が切れるまで十五時間から二十一時間。二本以下となった場合、水圧を支えきれない危険性が急激に上昇します」


 俺は操舵桿を握ったまま、地図を見つめていた。


 行けば、少なくとも五十分を失う。


 その五十分が原因でネフェルの救助に間に合わなければ、四人を助けた代わりに数百人が死ぬかもしれない。


 だが、このまま通り過ぎれば、俺たちは四人が取り残されていることを知りながら、見捨てることになる。


「ラウル」


 セラが俺を呼んだ。


「どうすればいいと思う?」


「それを私に尋ねるのですか?」


「一人で決めるのは、少し怖い」


 セラは驚いたように目を瞬かせた。それから俺の手元へ視線を落とす。


「私も怖いです。四人を助けるべきだと言うのは簡単ですが、そのために間に合わなくなったとき、私は自分の発言を後悔するでしょう。かといって、通り過ぎれば、今夜から四人の声を想像し続けると思います」


「答えになってないぞ」


「最初から、誰も後悔しない答えなどありません」


 その言葉へ、ガルドが苛立ったように返した。


「だからって見捨てるのか? 大勢を救うためなら少数を捨てても仕方ないって、それじゃユリウスと——」


 途中で、彼は言葉を止めた。


 だが、遅かった。


「悪い。今のは違う。お前があいつと同じだと言いたかったわけじゃない」


「いや」


 胸の奥が痛んだのは、それがまったく違うと言い切れなかったからだ。


 ユリウスも、自分の判断を大義で飾っていた。魔王を倒すため。王国を守るため。より多くの人間を救うため。だから修理係一人の訴えなど後回しにして構わないのだと。


「俺も今、四人を数字にしようとしてた」


「でも、迷ってるだろ」


「迷えば立派なのか?」


「立派かどうかなんて知らねえよ。ただ、ユリウスは誰かを切り捨てるとき、自分が苦しんでるような顔をして、そのくせ決めた責任は全部ほかの奴へ押しつけてた。お前は今、自分で怖いと言った。それだけでも同じじゃねえ」


「美化しすぎです」


 セラが冷静に割って入る。


「ラウルは優柔不断で、困っている者を見つけると後先を考えなくなるだけです」


「味方なんだよな、セラ?」


「味方だから申し上げています」


 彼女は俺の手へ、自分の手を重ねた。


「どちらを選んでも、私は同行します。ただ、決めたあとで自分だけを責めることは許しません。私たちはここにいます。一緒に迷い、一緒に決めています」


 誰かに責任を押しつけるのではなく、責任を分けてくれる言葉だった。


 俺は大きく息を吸い、操舵桿を右へ倒した。


「アリア。脇道へ入る」


「救出を選択する根拠を記録します。理由を述べてください」


「目の前にいて、まだ間に合うからだ」


「論理的根拠として不十分です」


「わかってる。でも、ここで通り過ぎたら、俺はネフェルに『助けに来た』と言えない」


 アリアは数秒、沈黙した。


「……判断を受理しました。最短経路を表示します。私も、四名を見捨てた記録を残すことは、怖いと感じます」


 救難走車が進路を変え、細い旧街道へ飛び込んだ。


 崩れた中継宿を見つけるまで、十分もかからなかった。


 斜面から流れ落ちた土砂が建物の半分を押し潰し、折れた梁の下から、女性の叫び声が聞こえている。


「誰かいるの!? お願い、子供だけでも助けて!」


「今行く!」


 走車を止めると、ガルドが真っ先に飛び降りた。大剣を置いてきた彼は、作業用の斧と鎚だけを腰へ下げている。


 俺たちが瓦礫の隙間から中へ入ると、炭焼きらしい夫婦と二人の子供が閉じ込められていた。母親と幼い息子は比較的浅い場所にいたが、父親は太い梁の下敷きになり、十歳ほどの娘が素手で周囲の土を掻き出している。


「お父さんを助けて! 足が挟まってるの!」


「まず君たちを外へ出す」


「嫌! 私が離れたら、お父さんが一人になる!」


「一人にはしない。俺たちが残る」


「知らない人の言うことなんか信じられない!」


 娘は泣きながら首を振った。無理もない。突然現れた俺たちのことなど、彼女は何も知らない。


 母親が娘の腕を掴もうとしたが、少女は振り払った。


「お母さんは弟を連れて出て! 私はここにいる!」


「あなたまで埋まったらどうするの! お願いだから、今だけは言うことを聞いて!」


「お母さんこそ、お父さんを置いていこうとしてるじゃない!」


 言ってはいけないとわかっていても、恐怖で口から飛び出してしまったのだろう。母親の顔が歪んだ。


 下敷きになった父親が、痛みに耐えながら声を絞り出す。


「喧嘩してる場合じゃねえだろ……坊主を連れて、母さんと外へ行け。俺は大丈夫だ」


「大丈夫な人は、そんな声で喋らない!」


「娘に見抜かれてますよ」


 ガルドが梁の下へ身体を入れ、両肩で重みを支えた。


「俺が持ち上げる。ラウル、引きずり出せるか?」


「待て。その梁の上にも瓦礫が乗ってる。無理に上げたら全部落ちてくる」


「じゃあ、どうする」


「支柱を直す」


 折れた支柱へ手を触れる。


 腐食は進んでいたものの、原型は読み取れる。救難走車から補修材を運び込み、足りない部分を継ぎ足せば、短時間だけ屋根を支えられる。


「セラ、子供たちを外へ。ガルドはまだ梁へ触るな」


「承知しました」


 セラが少女と同じ高さまで屈んだ。


「あなたのお父様を、必ず助けるとは約束できません」


「セラ」


 もっと安心させる言い方があるだろうと思ったが、彼女は続けた。


「それでも、置き去りにはしません。あなたがここに残ると、私たちはあなたを守りながら作業することになります。その分、お父様を助けるのが遅れます」


「……私が邪魔ってこと?」


「今は、そうです」


 少女は唇を噛み、目に大粒の涙を溜めた。


「でも、怖いのに残ろうとしたことは、邪魔ではありません。お父様は、きっと嬉しかったと思います。ただ、ここから先は私たちへ任せてください。あなたは外で、お母様と弟を守っていただけますか?」


 少女は父親を見た。


 父親が苦しそうに笑い、何度も頷く。


「行ってくれ。父さん、格好つけたいんだ。娘に心配されながら助けられるより、平気な顔であとから出ていきたい」


「今でも全然、格好よくないよ」


「知ってる。父親なんて、だいたいそんなもんだ」


 少女は泣きながら父親の手を一度だけ握り、セラに連れられて外へ出た。


 支柱の復元には十二分かかった。


 応急処置を終え、ガルドが梁を持ち上げる。その間に俺が父親の身体を引き出そうとしたが、潰れた床板が衣服へ食い込んでいた。


「あと少しだ。ガルド、保てるか?」


「早くしろ……!」


「無理なら一度下ろせ!」


「下ろしたら、この人の足が終わるだろうが!」


「お前まで潰れたら二人になる!」


「俺だって死にたくねえよ!」


 ガルドが怒鳴った。


 額には太い血管が浮き、腕が震えている。


「俺が何かするたびに、死んで償うつもりだと思うな! 怖いし、痛いし、本当は今すぐ逃げてえよ! それでも持てるから持ってるんだ。だったら、さっさと助けろ!」


「……悪かった。あと十秒だ」


「十秒なら数えるな! 長く感じる!」


 俺は床板を切り離し、父親の身体を引き抜いた。


 直後にガルドが梁から飛び退く。支えを失った天井が崩れ、土煙が一気に噴き上がった。


 建物から転がるように脱出した俺たちを、母親と子供たちが迎えた。父親の右脚はひどく腫れていたが、命に関わる出血はない。


「脚は治せない。でも、添え木なら作れる」


「十分だ……ありがとう」


 父親は礼を言ったあと、息を整えながらガルドを見た。


「あんたも、ありがとう。勇者様か?」


「違う。荷物持ちだ」


「荷物持ちは、屋根まで持つのか」


「今日だけ特別だ」


 近くには旧フェルムの避難塔が残っていた。俺たちは一家をそこまで運び込み、毛布と食料を渡した。アリアからフェルムへ位置を送り、村から迎えを出してもらう手配も整える。


 走車へ戻った時点で、出発時の予定から一時間六分遅れていた。


「救助対象四名の安全を確保しました」


 アリアの声に、喜びはなかった。


 だからといって、後悔しているようにも聞こえない。彼女自身、どう受け止めればいいのかわからないのだろう。


「この判断が正しかったかは、現時点では確定できません」


「ああ」


「風雨琴ネフェルの救助に失敗した場合、この六十六分が原因のひとつとなる可能性があります」


「わかってる」


「それでも、救助したことを後悔していますか?」


 俺は操舵桿を握り直した。


「まだ、わからない。たぶん、最後までわからないと思う」


「人間は、正しいと証明できない判断を、なぜ実行できるのでしょう」


「実行したあとも迷い続けるからじゃないか?」


「それは、実行できる理由ではありません」


「俺にもよくわからないんだよ。ただ、迷いがなくなるまで待っていたら、何も選べない」


 走車が再び加速する。


 窓へ、最初の雨粒がぶつかった。


「ガルド」


 俺が呼ぶと、彼は疲れ切った顔を上げた。


「さっきは悪かった。お前が死んで帳尻を合わせようとしてると決めつけた」


「いい。俺自身、そう思ってるのかどうか、まだわからねえし」


「それでも、死にたくないんだろ?」


「当たり前だ。村へ戻って、ハンネ婆さんに焼き菓子の改良を頼む仕事が残ってる」


「それは水門の修理より危険かもしれないな」


「だから生きて帰らねえと」


 ガルドは笑った。


 今度の笑顔は、出発前より少しだけ軽く見えた。


 それから八時間。


 雨は次第に強くなり、山道はぬかるみ始めた。カリオンは何度も横滑りし、そのたびに修復された導力輪が踏みとどまった。


 日が沈むより先に、俺たちはネフェルから指定された北側の尾根へ到着した。


 尾根の先に広がっていたのは、湖だった。


 いや、本来なら湖の水は、あそこまで高く積み上がるはずがない。


 古い水門は中央から砕け、向こう側に溜まった水が、城壁よりも高い壁となって谷を見下ろしている。その巨大な水の壁を押し返しているのは、金色に輝く三本の細い弦だった。


 三本の弦は水門の両端へ張られ、その中央に、一人の女性がいた。


 青緑色の長い髪。白い衣は泥と錆で汚れ、背中から伸びる金属の骨組みが、巨大な竪琴のような形を作っている。


 彼女の両腕から伸びた弦が、水の重みを受け止めていた。


「あれが……ネフェルか」


 助けを待つ女性ではなかった。


 彼女自身が、水門だった。


『そこで止まって』


 案内端末から声がする。


 遥か下にいるネフェルが、ゆっくりと顔を上げた。


『楔を打つ場所は、私が教える。鎖を張って、水門を仮止めして。それまでは私に触れないで』


「わかった。水門を固定したら、次にあんたを——」


『私を直さないで』


 俺は言葉を失った。


『壊れた水門は直して。下流の人たちも助けて。でも、私を元通りにはしないで』


「どうしてだ?」


 ネフェルは、ひどく疲れた顔で笑った。


『元通りになったら、私はまた、ここで水門を続けられてしまうでしょう?』


 三本の弦のうち一本に、細い亀裂が走る。


『私は助かりたい。でも、もう二度と、誰かの役に立つためだけの物には戻りたくないの』

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