第21話 二日かかる救助先へ半日で着くため、地下に眠る《救難走車》を修理します
「豪雨の開始予測まで、残り三十六時間です」
アリアが告げた数字は、ひどく整っていた。
だからこそ、その場にいた誰もが、すぐには言葉を返せなかった。
救難信号の発信地点までは徒歩で二日。雨が降り始めるより先に到着できないだけでなく、あの女が水門の代わりを務めているという話が本当なら、崩壊は豪雨を待ってくれるとは限らない。
沈黙を破ったのはガルドだった。
「馬を使えば、どれくらい縮む?」
「街道だけを走行できるなら二十九時間です。ただし途中から道がなくなります。また、現在の地盤状況で馬を走らせ続けた場合、四頭中三頭が到着前に走行不能となる確率は七十一パーセントです」
「一頭は残るのか」
「残った一頭も、帰路には使用できません」
「それは残ったって言わねえんだよ」
ガルドは顔をしかめ、乱暴に頭をかいた。
アギスが壁面に投影された地図を睨みつける。青い光で描かれた川は、北東の山間から蛇行しながら流れ、途中でいくつもの集落に枝分かれしていた。その一番上流に、赤い救難表示が明滅している。
「だったら、こいつを歩かせりゃいいだろ。フェルムは移動城塞なんだろうが。村ごと向こうへ行けば、十何人かで水門に駆けつけるより、できることは多い」
「却下します」
「早えな」
「現時点で稼働可能な脚部は十二本中二本です。強制歩行を実行した場合、三歩目で第九脚が脱落し、五歩目までに居住区画の一部が圧壊します。なお、村の畑も相当範囲が踏み潰されます」
「……じゃあ、却下だな」
アギスはあっさり引き下がったが、その声には苛立ちが残っていた。自分が動けないことより、守るべきものが多すぎて、どれを選んでも何かを置き去りにすることが気に入らないらしい。
俺も同じ気分だった。
「アリア。ほかに移動手段は?」
「地下第三格納庫に、城塞外救難用の走車が一台保存されています。機体名は《救難走車カリオン三号》。本来の巡航速度を回復できれば、現地まで十一時間四十分です」
「あるなら最初に言えよ」
ガルドの言葉に、アリアは少しだけ首を傾けた。
「走行不能だからです」
「お前は、たまに期待させてから床を抜いてくるよな」
「そのような機能はありません」
「たとえ話だ。たぶん、一生わかり合えねえ気がしてきた」
「悲観するには判断が早すぎます。私はまだ、あなたの思考様式を学習し始めて二日目です」
「そうかよ。俺はもう二年分くらい疲れてるけどな」
「仲良くなるのはあとにしな」
ハンネ村長が杖の石突きで床を叩いた。
「ラウル、先走るんじゃないよ。行く手段があるかどうかと、誰かを助けに行くかどうかは別の話だ。そもそも、その走車とやらを直すのに、何が要る?」
視線を向けられたアリアは、指先で地図を縮小し、代わりに細長い車体の見取り図を表示した。左右に三つずつ大きな輪を備えた、舟のような機体だった。先端は斜面や瓦礫を押し分けるため低く傾斜し、後部には担架を固定する器具が並んでいる。武器を取りつける場所は、見た限りひとつもない。
「主要損傷は右前方導力輪の破断、操舵軸の亀裂、魔力蓄積槽の閉塞です。修復用素材として、神銀二・四キロ、良質な弾性鋼一・八キロ、導魔石一個が必要です」
「神銀なら、あれがある」
俺が言うより先に、セラが部屋の隅へ目を向けた。
布に包まれて置かれているのは、ガルドが持ち込んだ偽の聖剣、その残骸だった。通信板を直すため鍔の一部を使ったものの、折れた刀身の大半は残っている。
部屋の空気が、わずかに重くなった。
あれは教会の嘘の証拠だ。粗悪な素材を聖剣だと偞り、勇者に持たせた証拠であり、ガルドが危険を冒して持ち帰ったものでもある。
「待ってくれ」
声を上げたのはデニスだった。
彼は周囲の顔色を窺ってから、それでも口を閉じずに続けた。
「その女を見捨てろと言いたいわけじゃない。水門が壊れれば、うちの畑まで水が来るんだろ。だったら助けに行くのは、村を守ることにもなる。そこまではわかる。ただ……教会がいつ戻ってくるかわからないのに、使える素材をよその誰かに全部使っていいのか? 走車が途中で壊れたら、ラウルまで戻ってこられなくなるんじゃないか?」
「成功確率は、修復後の試験を行うまで算出できません」
「ほら。わからないんだろ」
「デニス」
ミラが咎めるように彼の名を呼んだが、デニスは譲らなかった。
「俺には子供が二人いる。怖いものは怖いって言うぞ。知らない誰かを助けるためなら、子供を危ない目に遭わせても立派だなんて、俺は思えない。俺が臆病だと言われるなら、それでも構わん」
「臆病だなんて言わないよ」
俺が答えると、デニスは少し意外そうな顔をした。
「むしろ、言ってくれて助かる。みんなが同じことを考えているふりをして話を進めると、あとになって必ず揉めるからな。それに俺だって、知らない相手のためだけに行くわけじゃない。水門が壊れれば、この村も危ない。それは立派な理由じゃなくて、ただの損得だ」
「……あんた、そういうことを平気で言うよな」
「平気じゃない。格好が悪いから、できれば黙っていたい」
俺が苦笑すると、デニスも困ったように鼻をこすった。
そこでハンネ村長が、杖の柄をデニスの脇腹へ押しつけた。
「怖がるのは勝手だけどね、怖いからって自分の意見だけ重くなるわけじゃないよ」
「わかってる。だから条件を決めてくれ。アギスは村に残す。結界を維持する素材には手をつけない。それと、戻る期限を決める。俺が言いたいのはそれだけだ」
「最初からそう言えば、話が短く済んだんだけどねえ」
「人間が最初から言いたいことをきれいに言えるなら、村長なんて仕事はいらないだろ」
ハンネ村長は眉を上げ、それから意地の悪い笑みを浮かべた。
「口だけは達者になったじゃないか」
「毎日あんたに怒鳴られてるからな」
張りつめていた空気が、少しだけ緩んだ。
ハンネ村長は全員を見回し、最後に俺へ向き直る。
「救助に行く。ただし、あの女を村を守るための部品扱いするんじゃないよ。本人が来るなと言うなら、もう一度話をして、どこまでなら近づいていいのか確認する。それから走車を直す。順番を間違えるんじゃない」
「わかってる」
「わかっている顔には見えないから、わざわざ言ってるんだよ」
俺は通信板の前に座り、共鳴用の神銀板へ手を添えた。
水音に似た雑音がしばらく続き、やがて、かすかな息遣いが聞こえた。
『……まだ、聞いていたの』
「聞いてる。さっきは一方的に話を切って悪かった」
『切ったのは私。あなた、謝るところが少しずれてるわよ』
声は弱っていたが、思ったよりも棘があった。むしろ、その棘が残っていることにほっとした。
「そうかもしれない。俺たちは、そっちへ行く手段を見つけた。壊れた救難走車を直せば、十二時間ほどで着ける」
『来ないでと言ったはずだけど』
「同時に、助けてほしいとも言った」
『面倒なところだけ、ちゃんと聞いているのね』
「修理屋は、壊れたものの言い分を聞かないと仕事にならないからな。ただし、勝手には触らない。どこまで近づいていいか、何をしていいか、今ここで決めたい」
返事が途絶えた。
通信が切れたのかと思った頃、女の乾いた笑いが聞こえた。
『教会から来た修理師も、最初は同じようなことを言ったわ。「あなたを楽にして差し上げます」「すべて神にお任せください」って。それから私の胸を開いて、天候核だけを持っていこうとした』
「俺は神官じゃない」
『証拠は?』
「教会から追放されて、聖剣を壊した罪を着せられて、今は村ごと異端扱いされている」
『……それは少し信用できるかも』
「信用の基準が悲しすぎないか?」
『善人らしい経歴を並べる人よりはましよ。善人は、こちらが嫌がっても、自分の親切を最後までやり遂げたがるもの』
それは否定しきれなかった。
「じゃあ、善意だけじゃないことも言っておく。水門が崩れたら俺たちの村も浸水する。だから、俺たちは自分たちを守るためにも行く。それでも、あんたを水門の部品として持ち帰るつもりはない」
『変な人ね。そこは黙っていたほうが、立派に聞こえたでしょうに』
「立派に見られるために行くわけじゃない」
また沈黙が落ちた。
今度の沈黙は、先ほどより少し柔らかかった。
『人数は?』
「俺と、護衛が二人。案内用の端末も持っていく」
『勇者は嫌よ』
俺が振り返ると、ガルドが顔をしかめて通信板の前へ進み出た。
「一応、元勇者パーティーだ」
『帰って』
「まだそっちへ着いてもいないのに、ひどくないか?」
『勇者を名乗る人は嫌いなの』
「俺も、最近はその肩書きが嫌いになってきた。だから修理屋の荷物持ちとして行く。それならどうだ」
『大剣は置いてきて』
「山道に魔物が出るかもしれねえんだが」
『それを持ってきて、私の弦を切らない保証は?』
ガルドは口を開き、何か言い返しかけた。しかし、すぐに諦めたように息を吐く。
「わかった。置いていく。斧と鎚は持つが、どっちも作業道具だ」
『そちらの二人目は?』
「セラフィナと申します」
セラが俺の隣から通信板へ答えた。
「ラウルの護衛であり、同行者です。彼があなたの許可なく触れようとした場合は、私が止めます」
『ずいぶん落ち着いた声ね。どんな人?』
「聖剣です」
『……今、剣が喋った?』
「はい。ですが、今回は斬るために同行するのではありません」
『武器は持ってくるなと言ったでしょう』
「私は置いていかれるつもりはありません」
『面倒な剣ね』
「よく言われます」
セラは微笑んでいたが、目は笑っていなかった。どうやら「面倒」と評されたことは、本人なりに不服らしい。
『……北側の尾根までなら来てもいい。そこから先は、私が許可するまで降りないで。持ってくるものは、鉄の楔を十本、鎖を三巻き、防水布、それから太い縄。私を外すより先に、壊れた水門を仮止めするの』
「わかった」
『返事が早すぎる。できるか確認してから言いなさい』
「そうだな。今から確認する」
『本当に、変な人』
呆れた声とともに通信が途絶えた。
俺が振り返ると、ハンネ村長が腕を組んでいた。
「相手も相当面倒そうだね」
「四百年以上、一人で水をせき止めていれば、多少は性格も曲がるでしょう」
セラが淡々と言う。
「お前、自分が言われたからって根に持ってないか?」
「まさか。私は聖剣ですので、その程度の言葉を気にするほど狭量ではありません」
「なるほど。根に持ってるんだな」
「ガルド。あなたは村に残っても構わないのですよ」
「悪かった。謝るから、俺だけ置いていこうとするな」
地下第三格納庫へ続く扉は、四百年分の錆で完全に固着していた。
アギスが力任せに開こうとすると、扉ではなく周囲の石壁が先に軋み始めたので、慌てて止める。結局、蝶番へ油を流し込み、バルドが隙間へ楔を打ち、俺が歪んだ錠機構を復元することになった。
「急いでるときに限って、扉ってのは開かねえんだよな」
片腕の義手で鎚を振るいながら、バルドがぼやく。
「物にも意地があるのかな」
「あるわけねえだろ。ただ手入れをさぼった結果だ。何でも気持ちの話にするんじゃねえ」
「耳が痛いですね」
アリアが真顔で応じる。
「お前に言ったんじゃねえよ。そもそも手入れをさぼったのは、お前じゃなくて、ここを捨てた連中だろうが」
「管理者として、施設の保全不足は私の責任です」
「四百年、一人でどうにかできるなら、俺たちなんぞ要らねえよ。できねえことまで背負い込むのは責任感じゃなくて、ただの癖だ」
アリアは返事をせず、瞬きをした。
理解できなかったのか、理解したくなかったのかはわからない。ただ、彼女が何か言葉を探しているうちに、重い扉が低い音を立てて開いた。
格納庫の中には、三台分の整備台が並んでいた。
一号車は車体の半分が潰れ、二号車は導力輪をすべて失っている。もっとも奥に置かれた三号車だけが、辛うじて原形を保っていた。
青黒い車体には無数の擦り傷が走り、右前輪は砕けて床へ沈み込んでいる。後部扉には、爪で引っかいたような傷がいくつも残っていた。
車体に触れた瞬間、俺の中へ古い記憶が流れ込んできた。
炎に包まれた街。泣き叫ぶ人々。十二人乗りの車内へ、十八人、十九人と押し込まれていく。
『もう無理です、重量を超えます!』
『あと一人だ! 子供がいる、詰めろ!』
『車軸がもちません!』
『車軸は直せる。あの子の命は直せない!』
最後に飛び乗った整備士が、泣いている子供を膝へ抱えた。救難走車は規定重量を大きく超えたまま走り続け、避難民を城塞へ届けたところで、右前輪を砕いて止まった。
壊れたのは、粗悪だったからではない。
決められた役目以上のことを、させられたからだ。
「ラウル?」
セラに肩を触れられ、俺は現実へ戻った。
「大丈夫。こいつは、最後までちゃんと走った。直せるよ」
「所要時間は?」
アリアの問いに、俺は内部の損傷を探りながら答えた。
「バルドとヘスティアに手伝ってもらって、十四時間。急いでも十二時間は欲しい」
「許容できません。六時間で完了してください」
「無茶を言うな」
「六時間後に出発すれば、現地到着まで十八時間弱です。仮止め作業の時間も確保できます」
「だからって、雑に直した走車で山道を飛ばしたら、助けに行く前に俺たちが救難信号を出すことになる」
「では八時間です」
「値切るみたいに時間を減らすな」
「ラウル、七時間でやるぞ」
バルドが車体の下から声を上げた。
「できるのか?」
「できるように仕事を分けるんだよ。お前は導力輪と操舵軸を直せ。蓄積槽の詰まりは俺が見る。ヘスティアは素材の成形。ガルドは運べ。難しいことを考えず、言われたものを言われた場所に持ってこい」
「俺だけ仕事の説明が雑じゃねえか?」
「じゃあ、材料の運搬および作業員の指示に応じた補助業務だ。言い方が長くなっただけで、やることは同じだぞ」
「……運べばいいんだな」
ヘスティアが偽聖剣の残骸の前にしゃがみ込んだ。
折れた刀身を指で軽く叩き、ガルドを見上げる。
「これ、溶かすよ。でも、いいの?」
「ああ」
「本当に? これ、嘘の剣だけど、あんたが持ってきた証拠なんでしょ」
ガルドはすぐには答えなかった。
偽聖剣を持っていた日々に、いい記憶などほとんどないはずだ。それでも彼は、布越しに折れた刀身を撫でた。
「証拠だから残したいって気持ちもある。こんな物でも、俺たちが本物だと信じて振り回してた剣だからな。なくなると、あのとき必死だった自分まで、全部嘘になるような気がする」
「嘘だったのは剣の名前であって、振るっていた者の時間ではありません」
セラが静かに言った。
「あなたが間違えたことも、迷ったことも、誰かを守ったことも、この剣を溶かした程度では消えません」
「そういう真っ当なことを言われると、反発したくなるんだよな」
「では訂正します。いつまでも折れた剣へ執着するのは、あまり格好よくありません」
「お前、絶対に最初の言葉だけで済ませられたよな?」
「反発したいとおっしゃったので、手伝っただけです」
ガルドは苦い顔で笑い、折れた刀身から手を離した。
「使ってくれ。ただし、教会の紋章が刻まれた根元だけは残したい。俺がまた迷ったときに、見せられるものが何もないと困る」
「それでいい」
バルドが刀身を確かめ、切断位置へ印をつけた。
「証拠も残す。使えるところは使う。何でも丸ごと残すか、丸ごと捨てるかで考えるから、話が面倒になるんだ」
「人間は、そう簡単に切り分けられないよ」
「だから道具くらいは、きれいに切り分けるんだろうが」
ヘスティアが炉を開いた。
偽聖剣の刀身が赤く熱され、その形を失っていく。かつて誰かの名誉を飾るために作られた神銀が、今度は人を助けに行く車輪の輪となる。
作業開始から一時間後、デニスが長い鉄材を担いで格納庫へ降りてきた。
「弾性鋼って、これで使えるか?」
バルドが受け取り、端を叩いて音を聞く。
「悪くねえ。どこにあった?」
「うちの納屋だ。予備の犂の芯にするつもりで、三年前に買って隠してた」
「隠してた?」
後ろから来たハンネ村長の声に、デニスの肩が跳ねた。
「共同倉庫に出せって言われると思ったから……その、黙ってた」
「村中が鉄不足で困ってたときに?」
「だから今、持ってきただろ。俺だって、ちょっとは後ろめたかったんだよ」
「ちょっとかい」
「かなりだ。かなり後ろめたかった。それで勘弁してくれ」
ハンネ村長は大きくため息をついた。
「まったく、どいつもこいつも。あとで共同倉庫の帳簿に書いておきな。村から買い取ったことにして、その分は返す」
「いや、いらない。俺が出す」
「駄目だよ。善意で出したことにすると、次に出せなかった人間が責められる。村で使うなら村が払う。それが決まりだ」
「じゃあ、少し高く買ってくれ。三年寝かせた熟成鋼だ」
「罰として半値だね」
「横暴だ!」
言い争う二人を横目に、バルドは俺へ鉄材を差し出した。
「使えるものは、格好よく出てくるとは限らねえ。ありがたく使え」
「ああ」
偽聖剣の神銀で導力輪の外環を復元し、デニスの鋼を操舵軸の芯にする。ヘスティアが火の中で素材の性質を馴染ませ、俺が車体に残った原型の記憶へ沿って形を戻していく。
作業が半分を過ぎた頃、アリアが三度目の残り時間を告げた。
「豪雨開始予測まで三十二時間二十分。現在の進捗率は五十一パーセントです。予定より十二パーセント遅延しています」
「わかってる」
「操舵軸の調整工程を短縮すれば、二十七分を確保できます」
「そこを省いたら曲がれなくなる」
「許容誤差内へ収めることは可能です」
「山道での許容誤差ってのは、崖から落ちない程度じゃなくて、ちゃんと帰ってこられる程度を言うんだよ」
「しかし、このままでは到着が——」
「アリア」
自分でも思ったより強い声が出た。
「数字で急かされ続けると、手が震える。間に合わないのが怖いのは、俺たちも同じだ」
格納庫が静かになった。
言ったあとで、少し後悔した。アリアは責めたいのではなく、彼女なりに最善を探しているだけだ。
「悪い。怒鳴るつもりはなかった」
「怒鳴られてはいません。音量は通常会話の百三十二パーセントです」
「そういう返しをされると、謝りにくいんだよ」
「では、今の発言は取り消します」
アリアは胸元の案内書を抱え、しばらく視線を落としていた。
「私は……間に合わないことが、怖いのだと思います」
たどたどしい告白だった。
「救難信号を受信しても、これまでの私は、何もできませんでした。道を表示しても、案内する相手がいない。救助手順を提示しても、実行する手がない。今回も間に合わなければ、私はまた、助けを求める声を記録するだけになります。それが怖い。ですが、恐怖を数値へ変換して伝えれば、正しい指示になると判断していました」
バルドが車体の下から顔を出した。
「怖いなら、怖いと言やいい。それで作業が速くなるわけじゃねえが、少なくとも人の手を余計に震わせずに済む」
「非効率ではありませんか?」
「人間相手なら、そのほうが効率がいいときもある」
「複雑です」
「知ってるよ」
俺が笑うと、アリアはほんの少し唇を尖らせた。
「……では、訂正します。残り時間が少なく、私は怖いです。急いでください。ただし、安全性は損なわないでください」
「注文が多いな」
「ラウルも、怖いですか?」
「ああ。だから、ちゃんと直す」
七時間と十六分後。
格納庫の大扉が開き、修復された救難走車が地上へ出た。
最初の試験走行では、思いきり右へ曲がって共同倉庫の壁に突っ込みかけた。
原因は、新しく戻した右側の操舵軸と、四百年使い古された左側の軸の遊びが合っていなかったことだ。新品だけを正しく直しても、古い部品と並べれば喧嘩をする。結局、左側も分解し、予定よりさらに四十分を使って調整した。
「人間関係みたいだな」
ガルドが余計なことを言うと、バルドが油まみれの布を投げつけた。
「走るようになったからって、くだらねえ感想を言ってる暇はねえ。鎖を積め」
「俺は本当に運ぶだけだな」
「お前が余計なことをしないおかげで、予定より早く済んでる」
「褒められてる気がしねえ」
出発するのは、俺、セラ、ガルドの三人。アリアは案内機能を移した小型端末で同行する。本体の人格核はフェルムに残るため、端末の彼女が壊れても記憶の大半は失われない。ただし、出発後の記憶は帰還して同期するまで本体に残らないらしい。
アギスは村に残ることになった。
「気に入らねえな」
走車の側面へ手を置きながら、彼女は何度目かわからない文句を口にした。
「私なら水門だろうが岩山だろうが、まとめて受け止めてやれるのによ」
「アギスがいなくなったところへ教会が戻ってきたら、もっと困る」
「わかってる。わかってるから、余計に腹が立つんだよ」
彼女は俺の胸を拳で軽く突いた。
「いいか。助けられそうなら助けろ。でも、駄目だと思ったら帰ってこい」
「水門を見捨てれば、この村も——」
「そういう話をしてんじゃねえ。お前はすぐ、帰れない理由を並べるだろ。村が危ない、誰かが困ってる、あと少しで直せる。そうやって自分まで壊れたら、誰が直すんだ」
「……自分で直せたら楽なんだけどな」
「生き物は直せねえんだろ。だったら、壊れる前に戻ってこい。格好悪くても、何もできなくても、ちゃんと戻れ。それを約束しろ」
逃げ道を残した約束をするのは、情けない気がした。
けれど、たぶんアギスは、その情けなさを引き受けろと言っている。
「わかった。戻ってくる」
「声が小せえ」
「必ず戻る」
「よし」
アギスは満足そうに頷いたあと、急に顔をしかめた。
「それと、セラばっかり頼るなよ。あいつ、頼られると限界まで黙って頑張るからな」
「聞こえていますよ、アギス」
走車の窓からセラが顔を出す。
「聞こえるように言ったんだよ。ラウルが無茶しそうになったら、柄で殴ってでも止めろ」
「承知しました。可能であれば、鞘に収めた状態で行います」
「できれば殴らない方向で話を進めてくれないか?」
二人は揃って俺から目を逸らした。どうやら聞く気はないらしい。
ヘスティアからは、走車の動力炉へ入れる小さな火種を渡された。
「これは、わたしの火。三日くらい消えない。でも、無理に走らせたらお腹が空いて怒るから、途中で石炭を食べさせて」
「火がお腹を空かせるのか?」
「空かせるよ。火も人も、働かせるなら食べさせないと駄目」
「覚えておく」
「それから、その子に会ったら伝えて。壊れたまま役目を続けても、誰も褒めてくれないよって」
「それ、ヘスティアが言うのか?」
「わたしが言うから、たぶん腹が立つと思う」
「喧嘩を売りに行くわけじゃないんだぞ」
「でも、本当のことは、ちょっと腹が立つ言い方のほうが残るよ」
否定できなかった。
最後に、ハンネ村長が食料袋を押しつけてきた。中から、黒っぽい焼き菓子が顔を覗かせている。
「食べな。腹が減ってちゃ、ろくな考えが浮かばないよ」
ガルドが一枚取り出し、慎重に匂いを嗅いだ。
「これ、食っても大丈夫なやつか?」
「置いていかれたいのかい?」
「ありがたくいただきます」
救難走車の扉が閉じる。
動力炉へ火が入り、六つの導力輪が淡い青色に輝いた。四百年ぶりに目を覚ました車体が低く震え、まるで長い眠りから起き上がる獣のように、ゆっくりと前へ進み始める。
そのとき、助手席へ固定した案内端末からアリアの声がした。
「気象情報を更新。上流域における雨雲の形成速度が予測値を上回っています」
「どれくらい早まった?」
「豪雨開始まで、残り二十四時間です」
「半日も縮んだのかよ」
ガルドが呻く。
さらに、通信板から激しい雑音が流れた。何かが引き裂かれるような高い音に続き、あの女の苦しげな息が聞こえる。
『……一本、切れた』
「何がだ?」
『私の弦。残りは三本』
轟く水音の向こうで、女が咳き込んだ。
『来るなら、急いで。あと……名前を聞かれたのに、答えていなかったでしょう』
「ああ」
『ネフェルよ。天候調律神器《風雨琴》ネフェル。ずっと呼ばれていなかったから、もう要らないと思っていたけれど……助けに来る人がいるなら、呼ぶときに困るものね』
「ネフェル。聞こえるか。必ず——」
『必ず、なんて言わないで』
弱々しい声が、俺の言葉を遮った。
『その言葉を使う人は、できなかったときに帰ってこなくなるから。間に合わなかったら、逃げて。水より速く』
通信が切れる。
前方には、雨を抱えた黒い雲が、山の向こうから這い出していた。
「アリア。カリオンの速度を上げられるか?」
「安全巡航速度の百二十パーセントまで可能です。ただし、乗員の負担が増加します」
俺が振り返ると、セラは黙って頷いた。ガルドはハンネ村長の焼き菓子を口へ放り込み、盛大に顔をしかめながら親指を立てる。
「行こう。まだ三本、残ってる」
「了解しました。目的地、北東上流域旧水門。救難走車カリオン三号、緊急走行を開始します」
六つの輪が強い光を放つ。
俺たちを乗せた救難走車は、迫り来る雨雲へ向かって、一気に加速した。




