第14話 「わたしを渡せば村は助かる?」と神造炉が言うので、それは選択ではないと伝えました
偽物の聖剣が折れてから、まだ三時間も経っていなかった。
おそらくラディアの広場では、神官たちが今も破片を拾い集めているだろう。それなのに、教会の用意した新しい物語は、折れた剣よりも早くフェルム村へ届いた。
「荷物を渡したら、俺はすぐ出る。悪いが、今日は茶も飯も遠慮させてくれ」
そう言ったのは、月に二度ほど村を訪れる行商人のドランだった。
いつもなら村の子供たちに飴を配り、ハンネと値段交渉をしながら半日近く居座る男だ。ところが今日は、荷馬車を北門の外へ停め、塩と薬の入った木箱だけを抱えて村へ入ってきた。
何度も背後を振り返り、街道を気にしている。
「ずいぶん急いでるね。うちの茶が不味いのは今に始まったことじゃないだろう」
「茶の味が原因なら、三年前には来なくなってる」
「失礼な男だね」
「俺は味について嘘をつかない。それと、今日は本当に時間がないんだ。街道沿いの宿で、教会の連中がフェルム村へ向かっているという話を聞いた。俺の荷車が村に停まっているところを見られたら、次から商売をさせてもらえなくなるかもしれん」
ドランは申し訳なさそうに言った。
彼は裕福な商人ではない。古い荷馬車一台で村々を回り、少しずつ利益を積み重ねて暮らしている。街道を通れなくなれば、それだけで家族を養えなくなる。
「それなら、どうして来たんですか?」
俺が尋ねると、ドランは木箱を地面へ置き、苛立ったように頭を掻いた。
「来たかったから来た、なんて格好のよいことは言わんぞ。本当は引き返したかった。村へ続く道の手前で、三十分は迷ったんだ。馬にまで呆れられた。進めと言ったり戻れと言ったりしたから、しまいには草を食い始めやがった」
「馬のほうが落ち着いてますね」
「俺もそう思う。だが、この村には薬を待っている年寄りがいるし、塩だって残り少ないだろう。何も知らせず帰ったら、今夜は安全な宿で眠れる。その代わり十年後まで、あのとき自分は荷車を引き返したと覚えている気がしたんだ」
ドランは懐から折り畳んだ紙を取り出し、俺へ押しつける。
「勘違いするなよ。俺は勇敢じゃない。荷物を渡したら逃げるし、次も来られるとは約束できん。お前たちの味方だと、町で大声を上げるつもりもない」
「それで十分です」
「そうやって、すぐ相手を許したような顔をするな。こっちは自分の臆病さを分かった上で話してるんだ。あまり物分かりよく受け入れられると、かえって惨めになる」
「……すみません」
「謝られても惨めになる。面倒だろう?」
「かなり」
「人間なんてそんなものだ。これが教会から出た号外だ。読むなら覚悟して読め」
紙の上部には、教会の紋章が大きく印刷されていた。
見出しは、考える気のない人間にも意味が分かるよう、大きな文字で書かれている。
『異端修理師による聖剣破壊――勇者一行、卑劣な遠隔魔術の被害に』
本文には、俺の名前とフェルム村の名まで記されていた。
俺が聖剣セラフィナを盗み、禁術によって意思があるよう偽装したこと。第二の聖剣へ遠隔魔術をかけ、公開式典を妨害したこと。フェルム村には複数の盗難神器が隠されており、神器から漏れ出す魔力によって住民が操られている可能性があること。
最後には、こう付け加えられている。
『教会はフェルム村の住民を罪に問うことを望んでいない。住民が速やかに神器を引き渡し、異端修理師ラウルの身柄を教会へ預けるならば、寛大な措置が取られるだろう』
「まだ調査中のはずでは?」
セラが紙を覗き込み、眉を寄せる。
「告知鏡では、詳細を調査していると言っていました」
「号外を刷る時間を考えれば、式典が始まる前には文章ができていたんだろうな」
バルドが紙を奪い、苦々しい顔で読み進める。
「剣が無事なら、勇者復活の祝いを載せる。壊れたら、ラウルの妨害だと載せる。どっちに転んでも困らないよう、二種類用意していたのかもしれん」
「紙とインクの無駄遣いだね」
ハンネは鼻を鳴らした。
「どうせなら三種類刷っておけばよかったのさ。『教会の見込みが間違っていました。申し訳ありません』って号外もね」
「そいつは一枚も売れそうにない」
ドランが乾いた笑いを漏らす。
だが、すぐに真顔へ戻った。
「町では、もう噂が広がってる。告知鏡で式典を見た連中は、教会の剣が最初から壊れていたと言っている。見ていない連中は、異端の修理師が勇者を呪ったらしいと言っている。面白がって話を大きくしてる奴もいる。中には、お前が壊れた神器を人間の女に変えて集めているなんて話まであった」
「そこは、だいたい合っていませんか?」
バルドが言う。
「言い方に悪意がある。俺が趣味で集めてるみたいじゃないですか」
「違うのか?」
「違います」
言い切ったところで、セラ、アギス、ヘスティアの三人から同時に見られた。
「……結果として集まっているだけです」
「何にせよ、今日から商人はこの村へ近づかなくなる」
ドランが続けた。
「教会に睨まれれば、通行証を取り上げられる。薬師や治療術師だって同じだ。正式に異端の村と認定される前でも、危険を冒して商売をする奴は少ない。俺も、次に来られるかは分からん」
「この代金は、今払うよ」
ハンネが腰の袋を取り出す。
「いや、今日はいい。次に来たとき――」
「次があるか分からないんだろう?」
ハンネはドランの手を取り、硬貨を握らせた。
「借りを作れば、あんたはまた無理をして来ようとする。今日来てくれたことだけで十分だよ。だから代金は受け取りな」
「だが、こんなときに金を取ったら、俺が薄情な商人みたいじゃないか」
「商人が品物の代金を受け取って、何が薄情なんだい。自分だけ綺麗な人間になろうとするんじゃないよ。家で待っている奥さんにも、ちゃんと食わせな」
ドランは硬貨を握ったまま、しばらく黙っていた。
「……あんたは、相変わらず人が格好をつける隙をくれないな」
「年寄りは、若い者の見栄を剥ぐのが仕事だからね」
「俺はもう四十八だ」
「私から見れば若造だよ」
ドランは困ったように笑い、荷馬車へ戻っていった。
北門を出る前に一度だけ振り返ったが、何も言わなかった。約束できない人間が、無責任な励ましを口にしなかったのだろう。
その不器用な沈黙は、下手な言葉よりありがたかった。
◇
午後の集会は、これまでで一番荒れた。
「神器を渡せば、村は罪に問わないと書いてあるんだろう?」
農夫のデニスが、号外を指差した。
「教会の言葉を信じるのかと言われれば、俺だって迷う。だが、薬も塩も入らなくなったら、冬を越せない。神器を守って村がなくなったら、それこそ何のためなんだ」
「本人たちの前で、よくそんなことが言えるな」
若い猟師が立ち上がる。
「セラたちには心がある。昨日の告知鏡を見ただろう。教会へ戻したら、また声を封じられるんだぞ」
「だったら、お前がうちの子供たちを食わせてくれるのか?」
「話をすり替えるな」
「すり替えてない。俺にとっては同じ問題だ! お前は一人身だから、格好のよいことが言える。俺は家に帰れば、腹を空かせた子供が二人いるんだよ!」
猟師が何か言い返そうとしたところで、ハンネの杖が床を叩いた。
「意見に反論するのは構わない。ただし、家族がいるから卑怯だとか、一人身だから無責任だとか、相手の暮らしを使って殴り合うのはやめな。そんなことを始めれば、話し合いじゃなく傷の見せ合いになる」
「でも、村長――」
「デニス。あんたが怖がるのは当然だよ。ただし、教会の号外をよく読みな。神器を差し出せば村を許すとは書いていない。寛大な措置を取るとしか書いてないんだ」
「同じことじゃないのか?」
「いいや。こういう連中が曖昧な言葉を使うときは、あとで好きに意味を変えるためだよ。神器を渡したあとで、『汚染が残っていたから村は処罰する』と言われても、約束を破ったことにはならない」
今度は別の村人が立ち上がった。
「じゃあ、どうしろっていうんだ。このまま教会と戦うのか? 俺たちには兵士もいない。アギスが強くても、村の周り全部を一人で守れるわけじゃないだろう」
「アタシ一人なら難しいな」
アギスは、都合のよい安心を与えなかった。
「騎士が十人程度なら門で止められる。だが、村の外から火矢を放たれたら、家までは守れない。教会が本気で軍を動かせば、全員を無傷で守ると約束することもできん」
「アギスまで、そんなことを言うのか」
「盾だからこそ、守れない範囲は正直に言う。絶対に大丈夫だと嘘をつけば、逃げるべき人間まで残ることになるからな」
村人たちの顔に、再び不安が広がる。
セラが立ち上がった。
「わたくしは教会へ戻りません。ですが、村の皆様へ、わたくしのために戦ってほしいとも申しません。出ていくことを求められた場合は、ラウルと相談し、別の場所を探します」
「だから、勝手に出ていく話を始めるなと言ってるだろうが」
バルドが額を押さえる。
「今度はセラか。ラウルの悪いところだけ、ずいぶん早く覚えたな」
「悪いところとは失礼です」
「夜逃げしようとした奴の真似なんて、良いところのはずがないだろ」
「俺まで巻き込まないでください」
「あんたは最初から渦の真ん中だよ」
ハンネに言われ、俺は黙るしかなかった。
「アギスはどうする?」
村人から尋ねられ、アギスは迷わず答えた。
「この村に残る。教会に渡されたら、またどこかの城壁へ埋め込まれるだけだ。アタシは今度こそ、自分で守る場所を選んだ」
「ヘスティアは?」
集会所の視線が、先ほどまでヘスティアの座っていた椅子へ集まる。
そこには、誰もいなかった。
「……いつ出ていきました?」
俺が尋ねると、バルドが椅子の下を覗き込んだ。
「子供じゃないんだから、椅子の下にはいないだろ」
「見た目は子供です」
「四百歳を超えていると言ってたぞ」
「四百歳でも、小さいものは小さいです」
「年齢と大きさのどっちを心配してるんだ、お前は」
言い争っている場合ではない。
工房へ戻ると、ヘスティアの寝床代わりにしていた毛布が畳まれていた。石炭箱からは、三日分ほどの石炭がなくなっている。
壁に掛けていた共同の鍋まで消えていた。
「旅支度だ」
バルドの顔から血の気が引いた。
「北門だ!」
◇
ヘスティアは北門の手前にいた。
大きな袋を背負い、両手で鍋を抱えている。袋から黒い石炭が一つずつ落ち、地面に分かりやすい道筋を作っていた。
「どこへ行くつもりだ」
バルドの声に、ヘスティアの肩が跳ねる。
「……ちょっと、散歩」
「石炭三日分と鍋を持ってか?」
「長い散歩」
「嘘をつくなら、せめて石炭を落とさず歩け」
ヘスティアは背負った袋を確認し、地面へ続く黒い跡を見た。
「気づかなかった」
「お前さん、逃亡には向いてないな」
「ラウルより上手だと思う。金床は持ってきてないから」
「そこで張り合わなくていい」
俺が口を挟むと、ヘスティアは鍋で顔を隠した。
「教会へ行くつもりだったのか?」
「教会じゃない。教会の人が来るから、途中で会おうと思った」
「同じことだ」
「同じじゃないもん。自分から行けば、箱に入れられないかもしれない」
バルドがヘスティアへ近づく。
「馬鹿なことを言うな。お前、自分が何をされたか忘れたのか? 武器を作らないと言っただけで、何百年も箱に閉じ込められたんだぞ」
「覚えてるよ!」
ヘスティアが鍋を下ろし、声を張り上げた。
「覚えてるから行くの! わたし一人を小さい箱に入れた人たちなら、今度は村のみんなを大きな箱に入れる。わたしが戻れば、村は入れられなくて済むかもしれない!」
「そんな保証はない!」
「でも、ここにいたら絶対にみんなが困る!」
バルドが言葉を失う。
ヘスティアは涙を拭おうともせず、俺を睨んだ。
「ラウルは出ていこうとしたよね。村を守るためだって言ったよね。なのに、どうしてわたしが同じことをしたら駄目なの?」
「俺が間違っていたからだ」
「ずるい。自分が間違えたから、わたしは選んじゃ駄目なの?」
「選ぶなとは言ってない。ただ、今の君は選んでいない」
「自分で歩いてきたよ」
「脅されている相手が、差し出せば他の人間は助けてやると言っている。その条件を受け入れることを、自由に選んだとは言えない」
「難しい言い方で誤魔化さないで」
「じゃあ、簡単に聞く。村が何も困らず、教会も来ないとしたら、それでも戻りたいか?」
ヘスティアの口が閉じた。
俺はすぐに答えを求めなかった。
しばらくして、ヘスティアは小さな声を出した。
「……戻りたくない」
「うん」
「でも、わたしが嫌だって言ったら、みんなが困る」
「困るよ」
ヘスティアが驚いたように顔を上げる。
「そこは、困らないって言ってよ」
「嘘になる。教会に狙われるし、商人も来なくなる。たぶん、これからもっと困る」
「だったら――」
「けれど、困ることと、君を差し出していいことは別だ。村で一緒に暮らすっていうのは、互いの面倒まで少しずつ引き受けることだろ。俺たちは君に炉を使ってもらう。君は俺たちから石炭と飯をもらう。全部を綺麗に同じ量で返す必要はない」
「わたし、まだ鍋しか直してない」
「十分だ。あの鍋がないと、ハンネさんが別の鍋を使って料理する」
「それは村の危機だな」
バルドが真顔で頷いた。
「聞こえてるよ!」
いつの間にか追いついていたハンネが、杖を振り上げる。
俺とバルドは揃って一歩下がった。
ハンネは俺たちを睨んだあと、ヘスティアが抱えている鍋へ目を向けた。
「それと、その鍋は村の共有物だ。勝手に持っていったら泥棒だよ」
「ご、ごめんなさい」
「謝る相手は私じゃない。夕飯を待ってる村人全員だね」
「そんなにたくさん謝れない」
「だったら持って帰りな。それで明日の朝、卵でも焼けばいい」
ヘスティアは鍋を抱え直した。
「帰っても、いいの?」
「帰りたくない奴を無理に連れ戻す気はないよ。でも、帰りたいくせに格好をつけて出ていく奴は、首根っこを掴んででも連れて帰る」
「わたし、四百歳を超えてるよ」
「私より年上でも、馬鹿な家出をしたら子供扱いする」
「それは横暴」
「村長ってのは、だいたい横暴なものさ。気に入らないなら、次の村長選びで私に入れなきゃいい」
「わたしも投票できる?」
「村で暮らして働くなら、できるようにしてやるよ」
ヘスティアは泣いたまま、少しだけ笑った。
バルドが地面に落ちた石炭を拾い始める。
「帰るぞ。俺も手伝うから、今日中に鍋の持ち手を仕上げる」
「怒ってない?」
「怒ってる。心配させられたからな。ただ、怒ってるから一緒に帰らない、というほど器用でもない」
「バルドも面倒だね」
「誰に教わった、そんな言葉」
「ハンネ」
「納得した」
そのとき、アギスが北門の上から飛び降りてきた。
笑っていた表情は消えている。
「帰るなら急げ。教会の連中が到着した」
街道の向こうに、白い外套の騎士たちが見えた。
数は三十を超えている。その後ろには、重そうな荷車が四台。荷台には黒い布が掛けられていたが、隙間から太い金属の柱が覗いていた。
一本、二本ではない。
村を囲むだけの数がある。
「ヘスティア。あれが何か分かるか?」
俺が尋ねると、彼女は鍋を抱いたまま震えた。
「封界杭……。わたしの箱にも、小さいのが打ってあった。中にいるものが逃げないように、力を外へ出せないようにする道具」
教会騎士たちは村へ入らず、街道沿いに天幕を張り始めた。
やがて、増幅術式を使った男の声が響く。
『フェルム村の住民へ告げる! 神器から流出した汚染魔力の拡大を防ぐため、本村を一時的な保護区域に指定する! 安全が確認されるまで、何人たりとも村の外へ出てはならない!』
「話し合いに来るんじゃなかったのかい」
ハンネが呟く。
「明日、神器の引き渡しについて協議を行うそうだ」
アギスは、荷車から降ろされていく封界杭を睨んだ。
「だが連中は、話し合う前から村を囲むつもりだ。交渉が決裂したとき、誰も逃げられないようにな」
教会騎士が最初の杭を、村の北側へ打ち込んだ。
重い音が地面を伝い、俺の足元まで届く。
その瞬間、《原型復元》が、杭の中に残るかすかな声を拾った。
『逃がすな』
それは教会が刻んだ命令だった。
しかし、その奥には、命令とはまったく異なる古い記憶が埋もれている。
『逃げる者を――守れ』
同じ杭の中に、正反対の二つの声があった。




