第12話 勇者の紋章を直せと言われましたが、壊れた信頼までは修理できません
「勇者じゃなくなったら、俺は何になるんだ?」
ユリウスの問いに、誰もすぐには答えられなかった。
勇者でなくなっても、ユリウスという人間が消えるわけではない。そんなことは外から見ている俺たちには分かる。
けれど、本人にとっては違うのだろう。
教会に選ばれてからのユリウスは、どこへ行っても勇者と呼ばれてきた。宿屋では一番よい部屋を与えられ、貴族は酒を注ぎ、見知らぬ子供たちまで目を輝かせて握手を求めた。
勇者であることが、いつの間にか彼の役目ではなく、彼自身になっていた。
「ラウル」
ユリウスが顔を上げる。
先ほどまで俺を盗人と呼んでいた男とは思えないほど、その声は弱々しかった。
「直してくれ」
「何を?」
「紋章に決まっているだろう。お前は壊れた物なら何でも直せるんじゃないのか。聖剣だって直した。それなら、この程度の亀裂くらい……」
差し出された右手には、黒い亀裂の走った勇者の紋章がある。
俺が黙って見ていると、ユリウスは焦ったように言葉を重ねた。
「金なら払う。今までの未払い分もだ。そうだ、王都へ戻ったら専属修理師として雇い直してやる。以前より高い地位を用意するし、工房だって教会に作らせる。だから、早く直せ」
「分かりました。状態だけは確認します」
ユリウスの手を取り、《原型復元》を使う。
俺の意識へ流れ込んできたのは、金属や石材の記憶ではなかった。
紋章そのものは壊れていない。あれは勇者と聖剣の繋がりを、外から目に見える形へ変換したものだ。聖剣から力が送られなくなった結果、紋章を保つ術式が崩れ始めている。
「無理です」
俺が手を離すと、ユリウスの顔色が変わった。
「状態も見ずに断るな!」
「見ました。その上で言っています。これは物が欠けたとか、術式の一部が焼き切れたという故障じゃない。セラがあなたとの契約を終わらせたから、紋章を維持できなくなっているんです」
「だったら契約を直せ!」
「契約は物じゃない。片方が嫌だと言っているものを、修理の名目で繋ぎ直すことはできません」
「お前がセラフィナを説得すればいいだろう。命令でもいい。お前の言うことなら聞くんじゃないのか?」
「聞いてくださいましたか、ユリウス様」
人の姿へ戻ったセラが、俺の隣に立った。
「ラウルがわたくしへ命令しないから、わたくしは彼を選んだのです」
「では、俺が謝ればいいのか?」
ユリウスの口からその言葉が出たことに、俺は少し驚いた。
彼なりに、崩れ落ちそうな足元を掴もうとしているのかもしれない。
「何をどう言えばいい。聖剣を酷使して悪かったと、頭を下げれば満足なのか? それで紋章が戻るなら謝る。人前で土下座をしろと言うなら、それだって――」
「おやめください」
セラが遮った。
「なぜだ。謝れと言ったのはラウルだろう」
「紋章を取り戻すための取引として謝られても、わたくしは喜べません」
「では、どうしろというんだ! 何を言っても駄目、何をしても遅い。それなら最初から、俺には何もできないじゃないか!」
「謝罪とは、失ったものを取り戻すためだけに行うものではありません。傷つけた事実を、自分のものとして引き受けるために行うものです」
「そんなことをして、俺に何の得がある?」
セラは答えなかった。
ユリウス自身も、また言い方を間違えたと分かったらしい。しかし、素直に撤回することもできず、唇を噛んでいる。
ハンネが深く息を吐いた。
「得にならないなら謝れないっていうのは、ずいぶん寂しい生き方だね」
「部外者は黙っていろ!」
「嫌だね。私は年寄りだから、若い男が自分で掘った穴へ頭から落ちていくのを見ると、つい口を出したくなるんだよ。あんた、本当は聖剣に戻ってきてほしいんじゃない。勇者として扱われる自分を失いたくないだけだろう?」
「何が悪い!」
ユリウスは、ほとんど悲鳴のような声を上げた。
「俺がどれだけ努力したと思っている。剣の稽古をして、神聖術を学んで、何度も死にかけた! 逃げたくても逃げられなかった。勇者が逃げれば、臆病者と呼ばれるからだ。それなのに、聖剣が嫌になったから契約をやめると言えば、俺だけが全部失うのか?」
「……それは、つらかったでしょうね」
セラの返事に、ユリウスが目を見開く。
「同情するくらいなら戻ってこい」
「できません。同情と服従は別のものです」
「なぜ、お前たちは俺の苦しみだけ分かろうとしない!」
「分かろうとしているから、あなたの望む答えを何でも差し出すことはできないのです」
セラの声にも疲れが滲んでいた。
嫌いになった相手なら、何を言われても平気になるわけではない。かつて信じた相手が苦しんでいる姿を見れば、心は動く。
それでも戻れないからこそ、別れというものは面倒なのだ。
「その辺りでよろしいでしょう、勇者ユリウス」
場違いなほど穏やかな声が、門の外から聞こえた。
教会騎士の列が左右へ分かれ、その間から一人の男が歩み出る。
白い法衣の上に騎士用の外套を羽織った、細身の中年男性だった。淡い金髪を丁寧に撫でつけ、口元には人当たりのよい笑みを浮かべている。
けれど、その目だけは笑っていない。
「教会監察官、クレメンス・ローデンと申します。勇者一行の遠征を監督する役目を仰せつかっております」
「村へ入るのは四人だけだと言ったはずだよ」
ハンネが睨むと、クレメンスは胸に手を当て、申し訳なさそうに頭を下げた。
「これは失礼いたしました。ですが、勇者の紋章に異常が発生したとなれば、教会の人間として見過ごすことはできません。どうか緊急時の例外として、ご容赦いただけないでしょうか」
「もう入ってから許しを求める人間を、世間じゃ厚かましいと言うんだよ」
「お叱りは後ほど、いくらでも。まずは勇者様の御身を確認させていただきます」
物腰は柔らかい。
だが、こちらの許可を待つつもりは最初からないらしい。
アギスが道を塞ごうとしたものの、俺は小さく首を横に振った。今ここで監察官を力ずくで追い返せば、教会に都合のよい理由を与えることになる。
クレメンスはユリウスの手を取り、紋章へ神聖術を流した。
「心配は要りません。勇者の資格が失われたわけではありませんよ」
「本当か?」
ユリウスの顔に、露骨な安堵が浮かぶ。
「はい。これは聖剣を不正に改造した者が、偽りの契約を上書きしたことで生じた一時的な混乱です。正しい聖剣との接続を回復させれば、紋章は元に戻ります」
「不正に改造した?」
俺が聞き返すと、クレメンスは初めてこちらを見た。
「あなたがラウルですね。追放された修理係でありながら、教会の管理する神器を複数持ち出したと報告を受けています」
「持ち出してない。セラは折れたまま捨てられていた。アギスは村の壁に埋まっていたし、ヘスティアは教会が箱に閉じ込めていた」
「神器は人間のように自らの所有権を主張できません。教会法上、彼女たちは全て聖務院の管理物です」
クレメンスは、セラたちが人の姿で立っているのを見ても、少しも動揺しなかった。
「言葉を発する道具を、人間と混同してはなりません。それは魔導人形が主人の命令を復唱するのと同じことです」
「わたくしが何を話しても、証言とは認めないのですね」
「もちろんです、セラフィナ。剣に法的な人格はありませんから」
「教会に都合の悪いことを話す剣には、最初から口がないことにする。便利な決まりだね」
ハンネの皮肉にも、クレメンスの笑みは崩れなかった。
「長い歴史の中で定められた秩序です。辺境の村一つが、感情だけで変えてよいものではありません」
「長く続いた間違いは、正しいことになるのかい?」
「正しさを決めるのは、十分な知識と権限を持つ者です」
「だったら、あんたには決められそうもないね。人の家に入る前に許可を取る知識もないんだから」
村人たちの間から、堪えきれない笑いが漏れる。
クレメンスの頬がわずかに引きつった。
ユリウスはそんなやり取りなど耳に入っていない様子で、クレメンスの腕を掴んだ。
「正しい聖剣との接続を回復させればいいと言ったな。しかし、セラフィナは戻らないと言っている」
「問題ありません。聖剣は一振りとは限りませんから」
「何をおっしゃっているのですか」
セラの表情が変わった。
「聖剣セラフィナは、わたくし一振りです」
「神は、人間一人の感情によって救済の道が閉ざされるような、不完全な仕組みをお作りにはなりません。聖務院には、万一に備えて保存されてきた第二の聖剣があります」
「嘘です」
セラが即座に否定した。
「わたくしの核は一つしか存在しません。形を似せた剣を作ることはできても、それは聖剣ではない」
「あなたの記憶は破損している。ご自分の知らないものが存在しないと、どうして言い切れるのです?」
クレメンスは諭すような口調で言った。
セラの証言を認めない一方で、彼女の記憶が壊れているという主張だけには利用するらしい。
「明日、近隣の城塞都市ラディアで、聖剣再授与の儀を執り行います。勇者ユリウスは新たな聖剣を受け取り、魔王討伐の旅を継続する。それで全て元どおりです」
「待て」
ガルドがクレメンスの前へ立った。
「元どおりってのは何だ。ラウルに罪を押しつけたことも、セラフィナの意思を無視したことも、なかったことにするつもりか?」
「勇者一行の内部問題については、魔王討伐後に調査いたしましょう」
「終わったあとなら、何年先になるか分からねえだろ」
「だからこそ、今は世界の危機を優先すべきなのです。あなたも勇者の仲間なら理解できるはずだ」
「世界を持ち出せば、誰も文句を言えないと思っているのか?」
「ガルド、もうやめて」
マリエルが彼の腕を掴んだ。
ガルドは苛立った顔で振り払おうとしたが、彼女の手が震えていることに気づいて動きを止める。
「クレメンス監察官に逆らえば、あなたまで異端者にされる。ラウルの件は調査すると言っているんだから、今は戻りましょう」
「お前、本気で調査されると思ってるのか?」
「思っていないわ。でも、そう思うことにしなければ、私はここから先へ進めないのよ!」
マリエルは周りの視線に気づき、慌てて声を落とした。
「私はあなたみたいに強くない。教会から追われても構わないなんて、簡単には言えないの。ずるいと思うなら思えばいい。でも、怖いものは怖いのよ」
ガルドは何も言い返せなかった。
弱さを認めた相手を責めることは簡単だ。しかし、その弱さを引き受けてやれるわけでもない。
ヴァレッタが二人の間へ入り、疲れたように肩を竦めた。
「今日は戻りましょう。ここで揉め続けても、教会騎士と村人が殴り合うだけよ。それに私は、その第二の聖剣とやらを実際に見てみたいわ」
「信じるのか?」
「まさか。ただ、嘘をつくなら、せめて出来のよい嘘であってほしいでしょう。粗悪品のために命を預けるのは御免だもの」
ヴァレッタはそう言うと、俺の横を通り過ぎた。
その際、こちらを見ないまま、小さな声で囁く。
「明日の授与式は、各地へ投影されるわ。勇者の紋章が壊れたという噂が広がる前に、新しい聖剣を国中へ見せるつもりよ」
「なぜ教える?」
「あなたの味方だからではないわ。何も知らずに偽物の後ろへ立たされるのが、腹立たしいだけ」
ヴァレッタはそれ以上何も言わず、門へ向かった。
クレメンスも外へ出る直前、俺を振り返る。
「ラウル。あなたには後日、教会から正式な出頭命令が届きます。逃亡すれば、フェルム村が異端者を匿ったと判断される可能性もありますので、賢明な行動を期待します」
「脅しているのかい?」
ハンネが尋ねる。
「まさか。起こり得る事実をご説明しただけです」
「そうかい。それなら私も事実を教えてやるよ。次に許可なく村へ入ったら、あんたの尻を杖で叩き出す。年寄りの腕だから骨までは折れないだろうけど、賢明な行動を期待するよ」
最後まで笑顔を保っていたクレメンスだったが、今度こそ返事をしなかった。
◇
勇者一行と教会騎士が去ったあとも、村人たちはすぐには動かなかった。
誰かが勝ったわけではない。
聖剣は守れた。ユリウスの紋章は壊れた。しかし今度は、村全体が教会に目をつけられた。
「だから出ていってほしいと言ったんだ」
集会で手を上げた農夫が、苦しそうに呟いた。
「責めてるわけじゃない。ラウルに出ていかれても困る。けど、教会に異端の村だと言われたら、作物を町で売れなくなるかもしれない。子供を治療院で診てもらえなくなるかもしれない。俺は、何を選べばいいのか分からん」
「俺たちが村を出れば――」
「その話をまた始めたら、今度こそ足を床へ釘で打ちつけるぞ」
バルドに遮られた。
「まだ最後まで言ってません」
「最初の七文字で分かる。お前は気遣いの種類が少なすぎるんだ。何でも自分が消えれば解決すると思うな」
「では、どうすればいいんですか」
「それをこれから全員で考えるんだろうが。面倒だから相談っていうんだ。一人で答えが出るなら、最初から集会所なんて建ててない」
ハンネも頷いた。
「今日は解散だよ。教会への対応は夕方にもう一度話し合う。怖くなって意見が変わった者は、それも隠さずに言いな。昨日決めたから一生変えるななんて、そんな不便な決まりはこの村にはないよ」
村人たちが、重い足取りでそれぞれの家へ戻っていく。
セラはその背中を見送りながら、ぽつりと呟いた。
「わたくしがユリウス様を拒んだせいで、この村を巻き込んでしまいました」
「君のせいじゃない、とは言わないほうがいいんだったな」
「覚えていてくださったのですね」
「一晩くらいなら覚えていられる」
「それはあまり誇ることではありません」
「じゃあ、何て言えばいい?」
セラは少し考えた。
「今は、分からないと言ってください。わたくしも、自分がどうしてほしいのか分かりませんから」
「分かった。俺も分からない。一緒に考えよう」
「はい」
それだけで、セラの表情がわずかに緩んだ。
近くで話を聞いていたヘスティアが、俺の袖を引く。
「ねえ、第二の聖剣って、本当にあるの?」
「セラはないと言っている」
「形だけを似せた剣なら、作ることはできます」
セラが答えた。
「教会には、わたくしを作った際に余った神銀が保管されているはずです。それを使えば、聖剣に近い魔力を持つ剣は作れるでしょう。ですが、核も意思もない。ただ大きな力を流すだけの器です」
「ユリウスが使ったら、どうなる?」
俺の問いに、セラは眉を寄せた。
「通常の戦闘であれば、しばらくは耐えるかもしれません。しかし、以前のように限界を超えて魔力を注げば――」
「壊れるな」
アギスが低く言った。
「はい。それも、おそらく以前のわたくしより早く」
明日、城塞都市ラディアで行われる聖剣再授与の儀。
国中へ投影される式典で、教会は偽物の聖剣を本物だと宣言するつもりだ。
そのころ、俺たちの知らない街道の向こうでは、ユリウスが白い馬車の中で、一本の剣を受け取っていた。
「これが、第二の聖剣……」
銀色の刀身。黄金の鍔。柄には教会の紋章。
見た目だけなら、セラフィナとよく似ている。
「どうぞ、ご安心ください」
向かいに座るクレメンスが微笑む。
「明日の式典でこの聖剣を掲げれば、民衆はあなたこそ真の勇者だと再び理解するでしょう」
「これで俺は、勇者に戻れるんだな?」
「もちろんです」
ユリウスが剣の柄を強く握る。
その手元を見つめていたヴァレッタだけが、刀身の根元に走った、ごく小さな亀裂に気づいた。
まだ一度も振るわれていない剣が、すでに壊れ始めていた。




