第5話 言葉の温度
生後八か月。
母の膝に抱かれ、絵本の頁を捲る音を聞いていた。
ふと、母が片手を上げる。短い言葉とともに魔力が動き、指先に淡い白の光が灯った。
生まれた時から何度も見てきた光。今では自分でもわずかに再現できるが、母のものはずっと安定している。
「ユリウスは、本当にこれが好きね」
母は光を揺らしながら微笑んだ。
「光よ」
知っている言葉だった。
けれど今日は、なぜか自分でも口にしてみたくなった。息を押し出し、舌を動かす。
「……ひ……」
母の指が止まった。
「え?」
もう一度、光を見つめる。
「……ひ……か……」
最後まで音にはならない。それでも母は僕と指先の光を交互に見て、目を見開いた。
「光……のこと?」
小さく頷く。
一瞬の沈黙のあと、母の表情がぱっとほどけた。
「そう。光ね。ちゃんと分かっていたのね」
頬へ触れる指先が、やさしく震える。
初めて、自分の意思が声になって相手へ届いた。
魔術を成功させた時とは違う、不思議な手応えだった。
◇
その日の午後。
乳母のマルタが席を外した隙に、部屋の扉がそっと開いた。
「……今なら大丈夫かな」
「静かにして。見つかったらまた怒られるわよ」
忍び込んできたのは、姉のセレーネと兄のライナルトだった。二人はこれまでも、マルタの目を盗んでは僕の様子を見に来ている。
「ユリウス、今日お喋りしたんですって?」
「光って言ったんだろ? 母さんがすごく喜んでたぞ」
二人の顔を順番に見る。
これまでずっと、向こうから名前を呼ばれてきた。
ならば今度は、こちらから呼んでみたい。
息を整え、舌と唇を動かす。
「……せ……れ……」
「え?」
セレーネの肩が跳ねた。
「今……私の名前を呼んだの?」
もう一度。
「……せれ……ね」
途切れた音だったが、意味は伝わったらしい。セレーネは両手で口元を覆い、目を潤ませた。
すぐにライナルトが身を乗り出す。
「じゃあ、俺は? 俺の名前も言えるか?」
「ライナルト、近すぎるわ」
「だって俺も呼ばれたいだろ!」
期待に満ちた顔へ視線を向ける。
「……らい……」
ライナルトが固まった。
「言った! 今の俺だよな!?」
「大声を出さないで。ユリウスが驚くでしょう」
「だって、弟に名前を呼ばれたんだぞ!」
最後だけ少し声を掠れさせる。
その反応がおかしくて、自然と頬が緩んだ。
名前を呼ぶ。それだけで、こんなにも相手を喜ばせることができるらしい。
セレーネが僕の手をそっと包む。
「これから、もっとお話しできるようになるのね。困ったことがあったら、ちゃんと言ってね」
「俺にもな。兄ちゃんなんだから、何かあったら守ってやるよ」
差し出された指へ手を伸ばし、小さく握る。
「……にぃ……」
ライナルトの目が見開かれた。
「……それは、ずるいだろ」
「何が?」
「なんでもない」
顔を背けた耳が少し赤い。セレーネが笑い、僕もつられるように笑った。
言葉は、情報を伝えるためだけのものではないらしい。
名前を呼ぶだけで喜ぶ人がいて、自分の声を待っている人がいる。
それを知ったことが、なぜか胸の奥に温かく残った。
やがて廊下からマルタの足音が近づき、二人は慌てて立ち上がる。
「また来るからな!」
「次は、ちゃんと許可をもらって来ましょうね」
「それじゃ入れてもらえないだろ」
「だから勝手に入ってはいけないのよ」
小声で言い争いながら、二人は部屋を出ていった。
扉が閉じても、しばらく声の余韻が残っている。
話せるようになる。
それは思っていたより、楽しみなことなのかもしれなかった。




